第1話
◆01 夏の秘密
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8月14日。
高校の最寄り駅、改札前で9時に待ち合わせ。
けれど改札の向こう側の電光掲示番に映るデジタル時計は、既に9時45分を示していた。
俯いてスマートフォンを弾いている桐ちゃんに、皆遅いね、なんて声をかけてみる。声をかけられたことに余程驚いたのか、ばっ、と顔を上げぎこちなく頷かれてしまった。
肩にかけたそのヘッドホンは、彼のトレードマークともいえるだろう。そして、困った顔でそのコードをくるくると指に絡ませるのは、彼のちょっとした癖なのだと思う。ハルくんがいないと、この子はお喋りが苦手そうなのは前から感づいていたが、あまりの不器用さに私の方が少し驚かされた気分だった。
それにしても、暑い。8月半ばだから当たり前だけど。
此処に向かう途中で貰ったウェットティッシュを使い、首筋を拭いた。冷たくて気持ちが良い。今はティッシュ配りもただのティッシュではなくて、ウェットティッシュなんて贅沢なものを配っているからありがたい。
ふと、ウェットティッシュの包装に書かれた広告が目に入る。
――普通自動車免許! 取るならこの夏!
そのフレーズは、赤と黄色な派手な字で、広告の半分を埋めつくしていた。
免許か……。
15歳のときに両親が火災事故で亡くなって、それからずっと厄介になっている親戚のおばさんには、ほのりちゃんも23歳にもなるんだから免許の一つくらい持っていた方が便利よ、だなんて言われて自動車教習所に行くことを予てから勧められていた。
夏休みはキャンペーンでこんなに安くなっているんだから。そう言って教習所のパンフレットを渡してくれたおばさんの優しさに、私は嬉しく思う半面、憂鬱な気分にもなっていた。
私のことは、できるだけ17歳の高校2年生として扱ってほしかったから。
私は、現役の子と歳は離れているけど、確かに今を高校2年生として生きている。
やっぱり高校くらいはでていた方がいいから。そう言って、おばさんが、中卒だった私を22歳を迎える年の4月に、高校へ入学させてくれたのだ。
本物の17歳に戻りたいとか、そんなことは思わなかった。ただ、ふと今の本当の自分と向き合ったとき、15歳で中学を卒業してから、22歳で高校に入学するまでの空白の時間に虚しさを覚えることもあった。
私はクラスのみんなに、自分の本当の年齢を告白することができないでいた。ずっと、みんなと同じ、現役の、10代であると騙して学校へ通い続けていた。
本当の年齢を言うのが恥ずかしいからとか、17歳に憧れているとか、そういう単純な理由ではない。
それが、姉として、妹の、ほのかにできるせめてものことだと思っていたから。
6歳離れた妹のほのかは、火災事故のあと、おばさんの家に引きこもるようになった。
――なんにもやる気なんてでないの。火事でパパとママが死んだっていうのに、これから普通に生きていくなんてできるわけがない。お姉ちゃんだって、今は強がっているけど、どうせ人生失敗するに決まってる。私たち姉妹の人生は、あの火事の日に終わったの。
私と顔を合わせる度に、呪いの言霊のように繰り返し呟いてきたほのかの言葉は重かった。ほのかは、もう自分は普通の人として生きることができないと思っている。人生を諦めてしまっている。姉としてショックだった。なんとかしなきゃいけない。火事で幼くして親を亡くしたとしても、頑張れば何度でも立て直せる。「普通の人」として生きていく資格は誰にでもあると、妹に証明しなければならない。それが、両親が亡くなり、妹の唯一の家族となった私の役目であると、私は勝手に決めていた。
私は普通だ。
15歳で中学を卒業し、16歳で高校へ入学した、どこにでもいる一般女子だ。
私は、そうやって自分に言い聞かせて、本当のことを隠しながら学校に通うことに決めた。
ずっと誰かを騙したまま生きていくなんてしたくないし、いつかは友達に本当のことを伝えたいと思っている。
しかし、ほのかが自分の人生を諦めてしまっている今は、私は「普通のふり」を止められない。
「ハル!」
前触れなく隣から弾くような声がしたので、我に帰った。
ハルくんと蓮香が二人で学校の方角から此方へ歩いてくる。私たちに向かって軽く手を挙げるハルくんに、飼い主を待つ子犬のような顔をする桐ちゃんが微笑ましかった。
ハルくんと桐ちゃんは、親友同士だった。友達の少ない桐ちゃんにとって、ハルくんという存在は大きいだろう。
「悪いなー、遅くなって! 昨日学校に遊びに行ったらさ、携帯忘れちゃって。今日朝一で取りに行ったついでに屋上にでたらさ、すっげー気持ちよくていつの間にか寝ちゃって! あ、蓮香はその後たまたま廊下でさっき会ったんだけど。ていうかお前も偉いよな、蓮香。わざわざ図書館に本返しにくるとかさ! この夏休みに! フツー俺だったら休み明けまで借りちゃうし。ま、俺そもそも図書館で本とかあんま借りないけどさ、でもでも――」
いつの間にか寝ちゃって、の辺りから流し流しに聞いていたのだけど、ハルくんの長い話がやっと終わったようなので、そうなんだ、とレスポンスをしておいた。
彼は良く喋る。
ハルくんは今年の4月に転校してきたとは思えないほど、この場に溶け込んでいる。
隣でそんなハルくんに呆れ返っている蓮香に、思わず私も苦笑いしてしまった。
「借りたら返すのが当たり前でしょ。で、あの人はどこなの?」
長くて茶色の癖毛をさらりと肩から払った蓮香が、 気だるそうに問うてきた。
相変わらずのクールっぷりに、私の苦笑にさらに磨きがかかった。
蓮香は気まぐれで、誰にも媚びないスタイルで生きていて、合宿メンバーの中でもとりわけ気難しい子だ。悪い子ではないと思うのだけれど。
登下校も一人だし、たぶん、隣の席の桐ちゃんを除いて、みんなとの接点は一番薄いと思う。その桐ちゃんでさえ、そんなに話していることを見たことがない。
「それが、純さん、まだ来ていないみたい。どうしたのかしら」
時計を見ると、10時ジャスト。
数分ごとに気温が上がるこの夏に、外で1時間人を待つことの厳しさとは想像以上だった。
ああ、流石にめまいがしそう。コンビニで買ったお茶も、とうに空になっていた。
ハルくんが時間通りに現れないのは、普段の学校生活の遅刻回数からも理解できた。
蓮香も、気まぐれだから、万一こなかったとしても、途中で来るのが面倒になってしまったのかもしれないと割り切ることもできた。
だけど、あの純さんまで遅れるなんて、少し意外だと思った。
礼儀正しくて真面目なイメージの純さんだったから、待ち合わせの10分前くらいには来ていそうな感じがしたのに。何かあったのだろうか。
「そんじゃ、もう先に行っちゃおうぜ? 暑っいし」
「え、でもさ……可哀想……じゃない?」
「まぁ、後でメールでも入れときゃ分かるだろ」
「でも……。そ、それじゃあ僕、ハルの家知ってるし、後から追いかけるよ」
「お前が一人でここで待ってんの? 無理しなくて良いんだぞ?」
「……だけど……」
「もう行こうぜ。こんな所立ってたら茹でダコになりそうだし」
「え……でも、ハル……」
いかにも暑がってる人みたく右手で緩慢に顔を扇ぐハルくんに、伏せめがちで答える桐ちゃん。
そんな二人の、先が見えそうにない会話に割って入ったのは蓮香だった。その表情は明らかにイラついている。
「ていうか、あんたら、じれったいんだけど。学くんも、待つなら待つではっきり言いなさいよ。バカじゃないの? あたしはこんな所突っ立ってられないから。じゃあね」
きっつい言葉を落とし、蓮香が券売機に向かおうと足を踏み出した時だった。
「すみません、1時間10分前くらいに着いたんですが、皆揃いそうな時間まで近くの喫茶店で待機していたんです。僕は暑いのは苦手なので、申し訳ないです」
汗一つかいていない純さんの突然の登場に驚いたのは、私だけでないはずだと思う。
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ハルくんこと柚野春哉くんは、今年の4月に転校してきたばかりで、知り合ってから日が浅いけど、明るくて楽しいムードメーカー。
桐ちゃんこと桐岡学くんは、大人しいけど頭も良くて優しい、ハルくんの親友。
純さんこと斉藤純さんは、いつも正しくて、品があって、紳士的。
そして、蓮香こと前田蓮香は、第一印象こそ冷たいしドライだけど、結構可愛いところがあるのも私は知っている。
みんな個性があって、私はそんなみんなのことを面白いと思っている。
それだけに、初めは合宿のことを聞いて楽しそうだと思ったし、是非参加したいとも思った。
そう思ったけど……。
私には、秘密がある。
23歳だという、本当の年齢のことだ。
合宿の2週間、隠し通せる自信があまりない。
ハルくんのお誘いの勢いに負けて合宿に参加することになったものの、憂鬱な合宿になってしまいそうな予感がしてならなかった――。