幸田ウン子は恋をする 〜ハピネス王子と不幸少女〜
「好きですっ。大好きですっ」
「——何?」
2月14日。世の乙女は皆、想い人の為に奔走する特別な日。わたしとて、少しは勇気がありますから。世の乙女のイベントに参加したい気持ちはいっぱいだったのです。なのに、何故こんな事になってしまったのでしょうか。
わたしが両手でチョコレートを差し出した先。目の前にいるのは野球部のエース及川くんだったはずなのに。どうして。どうして——っ!
「怪しい者め、引っ捕らえろ!」
——金髪碧眼の王子様になっているのでしょうか……!?
***
本当に神様は、全ての人を平等に作ったのでしょうか。
そんなことはないでしょう。
本当に神様は、全てを愛せと言ったのでしょうか。
だったら何故わたしのことは愛してくれなかったのでしょう。
もし神が全てを平等に、全てを慈しみ生み出したとするならば、わたしはきっと失敗作なのです。
だってそうでしょう。神がわたしを愛しているならば、わたしに“幸田運子”なんていう冗談みたいな名前を授けなかったでしょう?
みなさんごきげんよう。ウン子です。
冗談ではありません。芸名でもありません。わたしはウン子。
不幸の星の下に生まれてきた両親から更に生まれてきてしまった超絶不幸少女。それがわたし、ウン子です。
あまりの運の悪さに辟易した両親が、我が子にはちょっとでも運が良くなるようにと名前をつけてくれたのがきっかけで、わたしは不幸極まりない人生を歩むことになりました。それはそうでしょう。だってウン子だもの。いくら運が良くなるようにといっても、つけて良い名前と駄目な名前があると思いませんか?
こんなお下品きわまりない名前のおかげで、幼い頃から周囲にからかわれ、とりあえずトイレに閉じ込められますよね。水をかけられたり。机がトイレットペーパーまみれになっていたり。教科書がうんこの落書きだらけになってたり。軽く苛められるくらいは序の口です。
突然犬に追いかけ回されたり、借金の取り立てに間違って押しかけられたり、バスジャックで人質にされたり、お家の下に不発弾が埋まっていたり。ちょっとした不幸が積み重なって、乗り越えながらもどうにかこうにか生きているのです。むしろ、数々の不幸に打ち勝ってきた精神力は本物だと自負してはいますが、それでも神様、今回の不幸はあんまりじゃないですか?
不幸少女だって恋をします。
今までは、相手の迷惑にならないよう、そっと胸に想いを秘めて生きてきました。ですが人生16年。そろそろわたしだって幸せになりたいです。一人の女の子として、世紀の告白イベントを楽しみたいのです。
だから! だからだからすごくがんばったのです。チョコレート。
不慮の事故で3回ほど手作りが駄目になってしまっても。それくらいの不幸でわたしはへこたれません。4度目の正直で作り上げたのです。野球部のエース及川くんのために。八重歯の光る彼がかっこよくって、エースで四番に憧れて。どうしても想いを伝えたくて。ハートのチョコレートに野球ボールを描いたのです。すごくがんばったのです。なのに!
下校時を狙って、彼に突撃したのです。わたしだって緊張くらいします。震える手でチョコレートを持っておりました。及川くんを呼び止めて、チョコレートを差し出そうと前に出たとき。何故か、道路のマンホールの蓋があいていたのです。
振り返る及川くんの顔が驚きに満ちるのと同時に、私は真下へ落下しました。ウン子にはそんなに下水路がお似合いなのでしょうか。だけど、チョコレートが下水路に落ちてしまう前に、どうしても、どうしても気持ちを伝えたくて、叫んだのです。
「好きですっ。大好きですっ」
——って。
どぼんという不快極まりない感触を全身に浴びるのを覚悟しておりました。下水に落ちることはそう珍しくもありませんから、慣れているのは認めましょう。しかし、落ちた後のことを考えると、やはり心地の良いものではありません。目を閉じ、口を閉め、ちょっとでも不快感を軽減しようと身構えていたのに、私に浴びせられたのはうんこではなく、声でした。
「——何?」
聞いたことのない声でした。透き通った涼しげなテノール。耳にすっと届いて、わたしは目を開きました。
本来であれば及川くんがいるはずだった場所。わたしがチョコレートを差し出した先にいたのは、金髪碧眼の超絶美形。異国の王子様だったのです。
あまりの美しさに、これは死ぬ前に見る夢なのでは、と思いました。しかし、わたしは自分の幸運を信じません。そんな都合の良い夢、わたしに見られるはずがないのです。
そして次の瞬間、やはりこれが現実であることを身に染みて感じました。
「怪しい者め、引っ捕らえろ!」
——ほらね。ほら!
この不幸展開が、夢であるはずがありません!
反論する間もなく、わたしは、王子様らしき方の護衛に捕らえられてしまったのです!
「ちょっと待って下さい! 誤解です! 私は怪しい者ではありません!」
この状況では無理を言っているのもわかっています。けれど、わたしは叫ばずにはいられませんでした。
ちょっと体験したことのないタイプの不幸に、些か、気持ちがついて行っておりません。ありとあらゆる不幸を乗り越えてきたわたしですが、いわゆる“異世界”へ来てしまったのは初めてではないでしょうか。
神様はついにわたしを地球から追放なさったのですね。そんなにまでわたしが邪魔なのでしょうか。
「突如王子の前に現れた身で何を言うか! 貴様、魔女の類いか!」
「魔女!」
ひええ。この世界で魔女はどのような位置づけかわかりませんが、地球の歴史だと結構やばい分類ではないですか。魔女狩りなんかされてたら、今回の不幸で、ついにわたしはジエンドですよ!
「ちちちちがいます! わたしはっ! 及川くんを追っていただけで」
迫り来る護衛兵さんたちが怖くて、わたしはチョコレートの箱で顔を隠しました。人に腕を捕まれることは珍しくないのですが、武器を構えられているのは、バスジャックに巻き込まれた時と、銀行強盗に捕まった時と、不良の抗争に巻き込まれた時くらいです。どれもこれもハンパな恐怖ではありませんでしたので、まだ耐性ができておりません。
武器だけはご勘弁。ざくりだけはゆるしてくださいと神に祈り、いやいや神様まったく当てにならないと泣く泣く痛いのを我慢する道を選んだところで、目の前の王子様から声がかかりました。
「こらこら、女の子に酷いことするんじゃないよ。大丈夫かい?」
にっこりと微笑む金髪碧眼の美王子様は、そう言ってわたしに手を差し出してくれます。正直、わたしには眩しすぎました。あまりの美しさに、今この場で及川くん派から王子様派へ乗り換えてもオッケーなくらい心揺さぶられます。
眼福とはこのことなのでしょうね。はっ。だめですだめです。わたしは幸運を信用しません。きっとこの後、碌でもないことが起こるのですよ。わかっているのです。
「大丈夫です。ありがとうございます……」
「うん。これを私にくれるのかい? 嬉しいな、君みたいな可愛い子に好きって言ってもらえるなんて」
ん?
なんだか今、不穏な言葉が聞こえましたよ?
私は目をぱちくりさせて、王子様を見ました。わたし、王子様に好きって……あれ!? 王子様に言っちゃったことになるのですか!? あの叫び声が聞こえたというのでしょうか?
ほけーっとしていると、ニッコリと微笑む王子様は、私の手からチョコレートを受け取ります。
——はっ!? まんまととられてしまいました。
王子様の笑顔に見とれすぎたのでしょう。あわわ、それは及川くんにあげるものなのですよ王子様のじゃないのです、と否定しようとしましたが、どうやら遅かったようです。
王子様の護衛兵たちが、中身の検分を始めてしまいました。あわわ、包装紙がビリビリに!? 下水に落とすよりははるかにマシですが、でも、あんまりではないでしょうか。
一人で青くなったり赤くなったりあわあわしていたのですが、王子様をはじめとした皆で真剣にチョコレートを見ている様子を拝見していると、なんだか嬉しいような恥ずかしいような気持ちになってきました。だって、わたしのチョコレートが注目されているのですよ? 渾身の一品です。野球ボールはほぼ正円に描けましたし、LOVEの文字にも執念を練り込んでおります。
……異世界と言うことはチョコレートも貴重かもしれませんし、ちょっとは関心を持って頂けるのではないでしょうか。私は今後の不幸にそなえるためにも、ここで生活する術を早いところ見つけないといけないのです。
しかし、私の計画は、全くもって根本から覆されることになってしまいました。
「君——これをどこで?」
「え?」
「この紋章は……!?」
紋章……とは何のことでしょうか?
みなさん、随分と驚いたような顔で、わたしとチョコレートを何度も何度も見比べているようですけれど。
「伝説の、巫女様!!!???」
————————はい?
情けないことに、またもや初めての不幸の予感がしております。
巫女に間違われる不幸を、わたしは今まで体験したことがありません。ひと間違えの類は、オレオレ詐欺師に間違われて連行された記憶が最後です。ああ、巫女に間違えられたとき、どのような対応をすればいいのでしょうか。神社でアルバイトでもしておけば良かったです。でもわたしは神様を信じませんから無理ですかね。
間抜けなことに、思いがけない巫女宣言に、きょとんと首をかしげて、フリーズしてしまいました。
完全に固まってしまったわたしのもとへ、王子様がゆったりと歩いてきます。そして、先ほどと同じ……いいえ、それ以上の極上スマイルを浮かべて、目の前で片膝をついたのです!
「巫女姫。先ほどの非礼をお許し下さい。私はエルザレム王国第一王子ハピネス・アル・エルディルト。お名前をうかがってもよろしいですか?」
おっと。本当に王子様でした。しかも第一王子様でした。名前がわたし並にふざけていますが、なんとなく同類な気がして悪い気持ちじゃありませんね。まあ、王子様は私ほどの不運さは持ち合わせていないのでしょうが。
「ええと、幸田運子です」
「サチダウン……?」
「ウン子です」
なるほど、名字と名前の区別がつかないのですね。仕方が無いので、下の名前で自己紹介をしました。
——って、や、やってしまいました!?
せっかく異世界なのです。ウン子やめてもっと良い感じの名前にしておけば良かったです……! ジョセフィーヌ的な感じになるチャンスでしたのに!
そしたらわたしも不幸脱出出来たかもしれませんし、そもそもウン子とか名前で引かれる原因がなくなるじゃないですか!
あわわわ、と頭を抱えて大反省会をしていたのですが、意外にも王子様は驚きの様相で目を見開いていました。
「ウン子……!」
ああ、その顔で、感極まった様子で、その名前を呼んで欲しくないですよ?
「ウン子! なんて運の良さそうな名前なんだ!」
ああ、その声で、馬鹿みたいなセリフを叫んで欲しくないですよ?
「ウン子! ウン子!」
お願いです、やめてください。連呼しないで欲しいです。折角かっこいいんですから、私なんかのうんこみたいな名前にそんなに反応しないで欲しいのです。そんなに瞳をきらきら輝かせてこっちを見ないで欲しいです。楽しげにうんこ連呼って小学生男子ですよ!?
気がつけばわたしは王子様に手を取られて、間近に抱き寄せられていました。あれ、なんなんですかね、この現象。これって超絶不幸……って、あっるぇーーー!? こここ幸運じゃないですか待って待って待って幸運受け入れる事なんて出来ませんよだって絶対千倍返しくらいが来そうですもの!?
「王子様! ちょ、なななんなんなんなん……!?」
はい。対処できてませんね。
ろれつが回ってなくて気持ち悪いことになっています。これは引かれるフラグです。
でも仕方ないじゃないですか。人生16年。こんなにも素敵な美王子様に抱き寄せられるなんてシチュエーションなど経験したことないですから。
「巫女姫。君のことはぜひウン子と呼ばせてくれないか。ああ、私のウン子!」
……巫女姫の方がいいです、とは言えないようですよ?
キラキラと輝く瞳は、もはや、美しさにおいて他の追随を許さないようです。わたしも馬鹿みたいに惚けてしまって、うっかり、こくこくと首を縦に振っておりました。
「私のことはハピネス、と呼んでくれ。さあ、ウン子。私の姫君。私と一緒に、王宮へ帰りましょう」
——やっぱり、これは、人さらいの類いの不幸だったようですよ?
ひと間違えじゃないだけに、タチも悪そうです。
***
あれよあれよと抱き上げられて、わたしは気がつけば王宮にいました。
なんの不幸か分からずに目を白黒させたまま、王様と王妃様に紹介され、伝説の巫女だと公認されるという謎の儀式が行われておりました。一体全体なんだというのでしょうか!?
……原因は、どうやらわたしのチョコレートにあったそうなのです。
わたしが及川くんの為に描いた、渾身の野球ボール。あれ、こちらだと有名な“伝説の巫女の紋章”らしいのです。
あの紋章を描き、この国の幸せの象徴としての巫女姫を召喚する儀式が行われているらしいのです。これは王族に代々伝わる儀式らしく、年頃の王子様が良き伴侶と出会えるようにと一種の願掛けらしいのですけれどね。実際に巫女様なんて召喚できるものではないらしいですよ?
ハピネス王子も先日無事にその儀式を終えたところらしいのですが、そこで現れてしまったのがこのわたし。しかも、王家以外門外不出であるはずの巫女の紋章を持っているじゃないですか。ああ、これ、勘違いフラグですね、やっぱり。
そんなこんなで、わたしは今や、あれよあれよとハピネス王子の正妃候補ですよ。ふひー! 夢! これは夢ですよねお母さん私を不幸に生んだのではなかったのですか!?
この世界に来て、すでに2週間が経とうとしています。なのに、おかしいのです。わたし、毎日、不幸じゃないのです。むしろ幸せ、とは、このことではないですかね。
カラスに突かれることもなく、自転車に突撃されることもなく、食中毒にあたることもない。図書室で本に埋もれることもなければ、科学の授業中に実験器具が爆発することもない。むしろ、蝶よ花よと愛でられ、ハピネス王子は麗しく、ご飯は美味しい。これ。もうすぐ本当に死んでしまうのではないですかね。
唯一の不幸ポイントとしては、貴族のお姫様方でしょうか。これは気持ちがわからないでもありません。わたしのようなどこの馬の骨かもわからない謎の平民女に、突然ハピネス王子を盗られたわけですから。
ハピネス王子が巫女姫の儀式を終えたと言うことは、これから正妃を探すと大々的に発表するのと同義らしいのですよ。そこにこんな小娘が現れたら、おもしろいはずがないですものね。
たまに食事に虫が混じっていたり、ドレスの首元に小さな刃がつけてあったり、部屋の前につるつるとした油のようなものが蒔かれてたりするのですが、皆さん、たいしたことないですね。
わたし、これでも数々の不幸を堪え忍んできた自負があるのですよ。もちろんすべてのトラップに全力でひっかかりはしましたけれど、痛くも痒くもありません。あ、首は痛いですが。むしろ、夢のような毎日なわけですから。もっとトラップをしかけて、今の幸運を相殺しておいて欲しいです。でないと、いつか大きな不幸が来そうで怖いですからね。がんばれ姫様方!
そんなこんなで、ごく小さな不幸もまじりつつも、幸運な毎日なわけですよ。ハピネス王子はとっても素敵で、わたしなんかでいいのだろうかと疑問はつきませんけれどね。
好きだ、愛してるって毎日嘘のように愛の言葉をたくさん呟いてくれますし。間近でにっこりと微笑まれたら、心が揺れるのは当たり前じゃないですか。
でも、及川くんを差し置いて、うっかり……いえ、完全に王子の魅力に傾きかけている今だからこそ、どうしても気になっていることがあるのです。
——わたしなんかで、いいはずがないのですよ。
「ハピネス王子」
「なんだい、私のウン子」
うへあ。“わたしのうんこ”とか、本気で止めて欲しいですよね。ハピネス王子の尊厳が損なわれますよ。
けれどこの国では、うんこは不浄のものではなく、幸運を呼ぶラッキーアイテムの一種らしいですよ。幸運や願掛けをとっても大切にしているこの国では、わたしの名前はもはや幸せの象徴と言っても過言ではないらしいです。ごめんなさい。わたしはとっても改名したいですけどね。
今日という日こそ、わたしは、胸の中でくすぶる不安を解決しようと、話を持ちかけることにしたのです。
ハピネス王子は私のために王宮の一室を用意してくれました。そして毎日のようにわたしの顔を見に来てくれては、こうやって一緒にお茶をしているのですが。
今日という今日こそ、ずるずると幸せに引きずられている日々に、終止符を打とうと思います。
「気にかけて下さるのは嬉しいのですが、わたしは、王子の側にいることはできないですよ?」
まっすぐにハピネス王子を見据えて、わたしは言葉を切り出しました。
ああ、ついに言ってしまいました。これもう後戻りできないフラグですよね。さようなら幸せな日々。でも、私は幸運を信じることが出来ないのです。私らしい生き方に戻ろうと思うのです。
ハピネス王子はというと、予想だにしなかった言葉だったのでしょう。碧い目をぱちくりさせ、でも、すぐにいつもの超絶スマイルに戻ります。
「いきなりどうしたんだい、ウン子?」
「いきなりじゃないですよ。わたしだって、お家に帰らないといけませんし。それに……」
正直、及川くんへの想いが完全に上書きされそうになっている……いえ、もはや上書きされている事実に気がついているのです。ハピネス王子は優しいし、こんなにまでわたしを気遣ってくれるわけですから。ときめかない理由がありません。
だからこそ、わたしは彼から離れないといけないのです。
「王子は、幸せにならなきゃいけない人です。わたしでは、だめなんです。不幸の星の下に生まれたわたしは、王子の側にいる資格なんてないのです……!」
そうなのです。幸運、縁起を尊ぶこの国の王妃に、わたしほどの超絶不幸少女がなれるはずがありません。むしろ、王妃なんかになってしまったら、翌日この国つぶれるんじゃないですかね。
とんでもない天変地異だとか。他国が勘違いして侵略してくるとか。けっこう理不尽な理由でとんでもない不幸に見舞われると思うのですよね。
ハピネス王子の素晴らしい人柄は理解しているつもりです。だからこそ、彼が不幸になるのだけは避けなければいけません。
彼にはもっとふさわしい正妃様なんていくらでもいるでしょう。もっと幸運の星の下に生まれた美しい女性を娶れば良いのです。
「ウン子、何を言ってるんだい?」
「前から思っていたんです。よくして頂いてとっても恐縮なのですが、わたしは、王子と一緒にいられません」
「冗談、だよね?」
「いえいえ、本気の本気。超本気です!」
ハピネス王子は目を見開きました。手に持ったカップをカタリと置き、信じられないと言った表情で震えています。
あわわごめんなさいハピネス王子。そうですよね。そもそも女の子に無碍にされたことないでしょうからね。ショックですよね。でも安心して下さい。これで最後ですよ。次の女の子こそ、ハピネス王子を本当に幸せにしてくれる子にちがいありません。
「出て行けというなら、今すぐにでも。無一文でちょっと怖いですけど、大丈夫! 経験ありますから! ホームレスくらい慣れっこなんで、どうとでもなります!」
知らない地で無一文になってしまうことは少なくありません。修学旅行の最後を彩る素敵イベントは、だいたい置いてけぼりでしたしね! 無一文でも生き抜くスキルはかなりの技量を持っていると自負しています。この世界の様子はよくわかりませんが、なんか大丈夫な気がするので大丈夫でしょう。
わたしの宣言にハピネス王子はまだ心ここにあらずのようです。ぽかんと、絶望に満ちた顔とでも申しましょうか。焦点の合っていない目で、呆然とわたしを見据えています。本当にショック耐性が無いのでしょうね。まあ、わたしのショック耐性と比べるのがそもそもの間違いかもしれませんが。
気まずくなってしまいました……これはもう、ここを出るべきですよね。選択肢、一個ですよね。ほう、とため息をついて、わたしは立ち上がりました。
「ハピネス王子。見ず知らずのわたしにこんなによくして頂いて、本当に感謝しています。でももう、去らねばならないようです。ごめんなさいっ」
そう告げ、私は深くお辞儀しました。本当は土下座でもしたい気分なのですが、多分この国だと意図が伝わらないでしょうからね。
しばらく頭を下げたのち、わたしは部屋を出て行きます。いえ、出て行こうとしました。しかし、気がつけば、それが不可能な状態になっていたのです。
「——え?」
「本気かい? ウン子?」
抱きしめられ、間近で瞳を覗かれます。吸い込まれるような碧い瞳に、心臓が高鳴りました。
引き留められるとかそんな少女漫画な展開、予測するのもおこがましくて忘れておりました。ああ、わたし、今、全力で引き留められています。できれば壁ドンがよかったなどという妄言など申しません。この思い出を胸に、一生生きていけます。
ですが、いくら心揺さぶられ、引き留められようと、わたしの決意は固いのです。というか、今日出て行かないと、これまたずるずると同じ日々を送る可能性大です。ここで一気に出てしまった方が良いに決まっています。
「本気です。離して頂けますか、王子」
「……!」
ハピネス王子の瞳が揺れました。いつもの穏やかな彼の表情はたちまちなりを潜め、代わりに浮かんだのは怒り。美しい爽やかなお顔が、みるみると怒りに満ちあふれていくのがわかります。
——あれ? これ、まずい展開じゃないでしょうか?
気がついたときにはもう遅く。ハピネス王子は私を抱きしめたまま、部屋から出て行きました。
「誰か! 誰かいないか!?」
ずるずると引きずられるようにして、わたしも廊下へ出ました。
王子の側には当然大勢の護衛が控えています。先ほどまでの穏やかな様子が一転したからでしょう。みな、目を白黒させながら駆け寄ってきています。
「王子、どうされました!?」
「ウン子が逃亡を謀った。“奥”へ連れて行く。城から一歩も出すな!!」
「——はっ!!」
————————ん?
気がつけば、わたしは周囲を大勢の兵に取り囲まれています。そして王子によって、先ほどよりもずっとずっと強い力で、王宮の“奥”へ連れて行かれます。
逃亡を謀った気などまったくなかったわけですが、王子からすると、去る者はそのように見えるのでしょうか。なんとなく重罪人的な扱いになってませんかね、と不安をぬぐえません。
久々に迫り来る大きな不幸の予感に、心配ながらも一周まわってワクワクしてきました。ああもう精神状態おかしいですね。でも、ここのところ幸せ続きでなんだかおかしいなー、と思っていましたから。これくらいで丁度良いのかもしれません。
ですが、ずるずると不幸に引きずられるような真似、わたしはしません。ちょっとでも状況を良くしようと働きかけねばならないでしょう。
「ハピネス王子! ちょっと待って下さい! 逃亡する気などないですっ」
「……私の元から去ろうというのだ、同じだ……!」
ああ、ハピネス王子、完全に怒っていますね。私に逃げられたのがそんなにショックなのでしょうか。美王子の思考は私にはわかりませんね。
「それは、あなたのためを思ってですよ!」
「信じられるか!」
“奥”へ連れて行かれる最中のやりとりが、城内に響き渡っております。あわわ、ハピネス王子。変な注目浴びてますよ。やめましょうよ。と思うのですが、怒りにまかせて彼は好き放題言ってくれています。
——絶対離さない。
——側に居ろ。
——城からは出さない。
どれもこれも熱烈な愛の言葉ではあるのですが、あなたに強制連行されているこの状態では、ぜんぜん響いてきませんよ? それよりも、周囲の貴族のなんとも面白そうな目の方が百倍気になりますよ?
わたしがお怒りを受けているのがダダ漏れですもの。あれですね、中年のおじさん貴族たち。わたしの後釜にあわよくば自分の娘を、的なことを考えているんでしょうね。うん頑張れ! わたしは王子の元を去りますから! 彼を幸せにしてあげて下さい!
しばらく身体をひきずられ、たどり着いたのは王宮の北の離れの塔。地下室のひとつでした。
貴族の罪人でも入れるような場所なのでしょうか。随分と天井が高く、ずっとずっと上の方に細い窓が一つ。それ以外は比較的広い空間で、家具も一式取りそろえられています。
貴族の皆さまにとっては簡素極まりないお部屋なのでしょうが、わたしは日本の平民。想像以上に快適そうな部屋を割り当てられてしまい、不幸濃度が足りない気がしてしまいます。
部屋の中に押し込まれ、重い扉が閉められます。鉄格子の間から、ハピネス王子の美しい顔が見えました。
「少しここで反省すると良い。私は、君を逃す気なんてないんだ、私の巫女。後でまた来るからね。せいぜい泣いて待つと良いよ」
にっこりと黒いて怖い笑みを浮かべて、王子は去って行きました。
これは……よくあるあれですかね。実はあの王子、鬼畜系なんですかね。それとも腹黒系でしょうか。今までまったく見抜けなかったわたしの目も相当節穴ですが、彼、全力で勘違いしてますよ?
そもそも、こんな部屋に入れられたからって、わたしが反省するとでも思うのでしょうか? 寂しくて、悲しくて涙すると? いやいやちょっと、それはわたしを甘く見すぎじゃないですかね。こんな牢獄の役割を果たさない快適空間に入れられて、喜ぶことはあっても、悲しくなど!
……というか、王子、本当にわたしを逃がさない気なら、ここから離れてはいけないと思うのですよね。わたしの不幸属性は、ハンパじゃないんですよ? 牢獄。地下。先ほどの注目。王子の怒り。はい。このあたりのキーワードからですね、わたしは自分の身に降りかかる新しい不幸が見えてきてしまいましたよ。
うん、これは心しないといけませんね! というわけで、暗くなる前に一度寝てしまおうと思います。多分これ、夜に大きいのが来ます。絶対、来ます。
***
夜。私は扉のすぐ近くに身を潜めていました。皆が寝静まるような深夜です。こんな北の牢獄に訪れる人など、居ないはずです。
けれど、わたしは確信しているのです。この不幸を全身に浴びせられてもおかしくない状況で、何も起こらないはずがないと。心臓がばくばくします。このレベルの不幸を、今まで事前に予測できたことはありません。けれど、確信だけはしているのです。
すると、外から声が聞こえました。
ああ、始まった! と、確信します。
「来た! 侵入者が現れたぞ!」
「何!?」
見張りの兵が突然声をあげました。声しか届いては来ませんが、完全に予想外だったのでしょう。侵入者が驚きに満ちた様子で、うろたえているのがわかります。
襲撃される前に発見できたことに、わたしは胸をなで下ろしました。
部屋の外の見張りの方たちには伝えていたのです。ほぼ間違いなく、今夜、侵入者が現れると。ある意味予測というかカンでしかありません。しかし、わたしは自分の不幸を信じています。こんな場所に閉じ込められて、何も無いはずがないのです。
見張り兵たちの間でも、話は通っていたのでしょう。次から次に隠していた兵を呼び出し、侵入者を追い詰めていく様子が音に聞こえます。
刃と刃が交わる音。刺された人の叫び声。
——想定以上に。ちょっとこれは、とても。とても怖いかもしれません。
予測していたとしても、流石にこれは初めてです。アクション映画などでは聞いたことのある音でしたが、実際に耳にすると、その異様さに身が縮まる思いです。
耳を劈くような音を聞くたびに、身体がびくりと震えます。血なまぐさい匂いが、鉄格子ごしに漂ってきます。
間近で命のやりとりが、行われているのです。
扉の近くに、いられなくなりました。
いつか、この扉を剣が切り裂くのでは。私の身体を貫くのでは、と想像できてしまい、とてもじゃないですが、その場に居ることは出来ません。
身の危険というか、命の危険が迫ると、人間とはこうも動けなくなるのでしょうか。這いつくばってなんとか距離をとり、かがみ込んだまま、わたしは、じっと肩を抱えて堪え忍びました。
わたしのために、たくさんの方が戦ってくれています。なんだか、申し訳ないのと、やるせない思いでいっぱいになります。すぐにでも、いなかったことにしたいです。せめて、落ちついたらすぐにでも。わたしのせいで誰かに迷惑をかけてしまうことなど、あってはならないのです。
大丈夫、すぐ出て行きますから、と何度も何度も心に誓い目を閉じます。
しばらくじっとしていると、やがて剣の音はしなくなり、兵たちの声が聞こえてきました。
無事に乗り切ったのでしょうか。周囲を見回るよう声がかかり、他の侵入者を捜しに、兵たちがちりぢりになっていくのがわかりました。
「——ウン子!」
ぐったりとして落ち込んでいると、扉の向こうから聞き慣れた声が聞こえてきました。はっとして、わたしは立ち上がります。すると、扉の鉄格子のむこうに、ハピネス王子の姿が見えたのです。
彼も侵入者と戦ってくれたのでしょうか。剣を構えて、周囲に注意を払いつつ、扉に近づいてくるのがわかります。
必死な形相でこちらに近づく彼を見て、わたしは、ほっと胸が温かくなりました。
ああ、わたしは怖かったのですね。親しい王子が現れて、心救われる思いで、胸がぎゅっとなります。かたかたと震える肩を押さえて、目を何度も瞬かせて、彼を見据えました。
「ウン子、無事か!?」
「……はい。大丈夫です。っていうか、王子、危ないですよ! まだ侵入者がいるかもしれませんからね!」
「かまうものか! 君が無事ならば、私など……!」
……昼間の怒りはどこへ行ったのでしょう。そんなにわたしが心配だったというのでしょうか。
わたしはついつい、目を丸めて、格子越しにハピネス王子の顔をまじまじと見つめてしまいました。ハピネス王子も扉に近づき、透明な碧い瞳を寄せてきます。
額に汗を浮かび上がらせ、息を弾ませて。必死な様子が嬉しくて、心がじんわり熱くなります。そして、やはり美しい王子の顔にきゅんきゅんして。吸い込まれるように前へ歩き、扉一枚の距離にまで近づきました。
「……昼間はすまなかった。君が私のそばからいなくなるなど、考えられなかったのだ」
「いえ、わたしこそ……」
言いかけて、はっとしました。
だめですだめです。何をほだされているのでしょうか。わたしはハピネス王子の側から去るのです。ここで流されて良い理由がありません。
「王子、すぐにこの場から離れて下さい。まだまだ危ないですよ?」
「……! 君は、本当に……!」
ん?
全力で拒否したつもりだったのですが、何か良くなかったのでしょうか。ハピネス王子はなにやら感動した面持ちで、こちらを見つめています。
そんなに心配してくれるのか、と小さい呟きが聞こえたのは、幻聴ではないですよね。
王子が扉を開けるよう指示を出します。おお、まさかこんなに早く出られるとは思いませんでした。ちょっとばかし怖い思いもしましたが、これはこれで結果オーライではないでしょうか。まあ、最終目的は城から脱出することですけれどね!
兵の一人が扉の鍵を開けているのがわかりました。かちゃり、と音を立て、重い扉が開き始めます。
そこには感極まった、という顔で、ハピネス王子が立っています。両手を広げて、こちらに微笑みかけて。
ん? これ、まさか噂の、俺の胸に飛び込んでこい状態ではないでしょうか!? 一般人がやるとお笑いにしか見えないのに、美王子がやると様になるから困ります。あと、魔力でもあるのかふらふらと引き寄せられそうだから困ります。
あまりの素敵さに惚けていると、わたしが遠慮しているとでも思ったのでしょうか。王子は苦笑して、こちらに近づいてこようとしました。その時です。
忘れていたわけではありません。一瞬惚けていただけなのです。
一つの不幸を未然に防いだわたし。
つまり、わたしのもとには、まだ——直接不幸が降り注いでいない。
劈くような轟音が頭上からしたかと思うと、頭上から小さな石が降ってきました。
体中につぶてのように、次々と石の衝撃が走りました。あわてて頭を手でふさいだものの、今度は砂埃で視界が覆われます。
そして、王子の顔が見えなくなったかと思うと、背中からぎゅっと誰かに抱え込まれて、私は上空へと連れ去られたのです……!
「ウン子!」
「王子!」
悲痛な王子の声が聞こえてきました。
わたしも手を出したけれども、彼の手をとることは叶いませんでした。
ぎゅっと後ろから抱きしめられながら、わたしも叫びました。けれど、無情にもわたしの身体は、城の外に投げ出されていたのです。
一瞬、何が起こったのか分かりませんでした。相手は何人かのグループのようです。一人が塔を破壊。一人が縄で降り、わたしを回収。そして何名かで縄を引き上げるという完全なる連係プレーが行われていました。
黒ずくめの男にわたしは抱きかかえられたまま、城の裏の森を駆け抜けることになりました。
本当に人間か!? という速さと統率された動きで、よく訓練されているのがわかります。
「——何をするんですか!?」
「巫女ウン子姫。あまり話すな、舌を噛むぞ」
「ウン子姫。貴様をさるお方の元へ連れて行く。王子の元へ帰るのは諦めることだ」
……まず、そのトイレ王国のお姫様みたいな呼び名は絶対に変えて欲しいです。
しかし、これはどうしたものでしょうか。このまま連れて行かれたところで、殺される……という方向は無いと考えたいですが、相手を問答無用で連れ去るような方です。碌な方ではないことくらい、わかります。
まずい、と思って、私はもがきました。しかし、相手はきっちりと訓練されたお方です。わたしが少々抵抗しようが、涼しい顔をしています。
「抵抗はするな、ウン子姫。手荒な真似をされなくなければな?」
「……!」
冷たい物言いに、わたしはついにらみ付けてしまいました。抱えられたお腹が、痛いです。森を駆ける振動が、全身に響きます。
ちょっとでも楽になりたくて、わたしは僅かに動こうとしてしまいました。
しかし、軽くあしらわれ、かわりにお腹に拳を当てられました。
まさかの荒行に、わたしは目を丸くしました。胃の中がかき混ぜられたような感覚がして、食道を通って、苦い液体が逆流してきます。
こふっ、と音を立てて、少々口から出てしまったようです。そして次の瞬間、私は地面に放り出されていました。
「……手荒なまねをされたいのか? 別に禁止はされていないんだ」
木の幹に身体を押しつけられ、男が寄ってきます。月の光も僅かにしか届かない森の中。見下ろしてくる長身の身体と鋭い眼光からは冷たい空気がにじみ出ていて、ああ、完全に道具のように思われているなとわたしは確信しました。
今度は同じお腹の部分を踏みにじられて、私はうめき声をあげました。黒ずくめの男たちは、わたしを囲むようにして立ち並び、見下ろしてきます。
ああ、これは反抗するなと言うことでしょうか。だめですね、このような行動をする方々の主人、本当に碌な方じゃないです。
どうにかして逃げなければ、という思いと、全身に渦巻く不快感とのせめぎ合いで、わたしはうめきました。まだ胃の中がぐるぐるとしています。
気がつけば周囲には雨が降ってきました。わたしの身体を冷たく濡らします。全身がピリピリと痛みます。見てみると、そこここに小さな傷がいっぱい出来ています。あの塔を破壊されたとき、落下してきた石にやられたのでしょう。
もう散々です。あの部屋に閉じ込められたまではいいのです。
ただ、外で侵入者との戦闘の音を聞いて、身を潜めて。怖い思いはあれで十分じゃないですか。どうして攫われて、痛い目に遭わされているのでしょう。どうしてこんな薄暗い森の中で、全身ずぶ濡れの傷だらけになっているのでしょう。
最近随分と幸せな日々が続きましたから、きっとその反動でしょうか?
いえ、向こうの世界にいた頃は、これくらいの不幸何ともなかったはずです。なんだか夢のような幸せな日々を過ごして、わたしの不幸耐性が随分と弱まってしまったということでしょうか。
困りました。
わたしは幸運を信じません。不幸を信じます。
不幸であることに抵抗をしません。ただ、耐えてきました。
けれど、耐える力を失ったわたしは、どうやって生きればいいのでしょう?
ただのイチうんことして、人生を全うするにはどうすればいいというのですか?
不幸の耐性なくして、平気で生きられる自信なんか、ないのです。
「うっ……」
声が漏れました。
雨が、冷たいです。髪が頬に張り付きます。王子に贈られたドレスも、すっかり湿気て、泥だらけになってしまいました。肌に張り付くような感触が気持ち悪いです。
「大人しくしろと言っているのだ、命ばかりは助けてやる。他は知らんがな」
「……ううっ……」
嫌です。
絶対に嫌です。
心が悲鳴をあげます。
人生16年。ありとあらゆる不幸を経験してきたはずなのです。
攫われ、お腹を殴られ、全身傷だらけで、脅されて、雨に降られて。
これくらい何だというのですか?
雨になんか。
こんな男の言うことになんか。
——不幸になんか絶対負けてやりません。
「嫌です! 絶対に嫌!」
叫んだ時です。
全てをかき消すかのような轟音とともに、大きな光が周囲を包むのがわかりました。
——バリバリバリバリッ!
私の少し後ろの方。大きな木の本に突然光が走ったかと思うと、真っ二つに割れ焦げました。その光を直視した男たちは、手を目に当て、とっさに動きを止めます。
——今だ!
突然の雷に援助される形で、私は走りました。
待て! と後ろから声がかかりますが、大人しく待つ私ではありません。
これでも、ありとあらゆる不幸を越えてきた女です。どんな状況でも対応できるよう、体力は強化済み。あの人たちを撒けるとは思いませんが、全力で逃げ切ってみせます。
しばらくして、後ろから追いかけてくる音が聞こえはじめました。しかし、彼らは少々わたしを甘く見ているのでしょう。不幸が続くときのわたしは、とことんスパイラルにはまるのですから!
雷が二発目、三発目と落ちていきます。当然私は予測済み。雲の様子を確認しながら、逃げる方向を決めます。
雷の光と、遠くに見えるお城の明かりを頼りに、ただただ、来た道を戻るのです。
鹿の群れが逃げ惑っています。
突然の雨に降られ、この雷ですから仕方ありませんね。これも予測済みです。
ひらりと避けた群れは、真っ直ぐ黒ずくめ達の方へ駆けていきます。せいぜい巻き込まれるといいでしょう。
そして鹿のいる森にはつきもののアレも探します。
——うん、発見。あそこにも目印が。わかる人にはわかるサインを確認して、私はそちらの方へ黒ずくめ達を誘導します。
とたん、後ろからぎゃあ! という悲鳴が聞こえてきました。鹿を狩るための罠にまんまとひっかかったようです。
伊達に不幸歴16年。森の中の不幸など予測済みです。このような不幸になり得る要素の塊の場所など、わたしの庭です。わたしを捕まえられると思うなんて、大間違えもいいところですよ。
——駆けて、駆けて、駆け抜けて。
黒髪をびしょびしょに濡らして。ドレスももうぼろぼろで。でも、走り去った先。
先ほど、爆発があった塔のほど近く。
ようやく彼の姿を見つけて、わたしは足を止めました。
はあはあと、息が上がります。
兵に指示を出し、全力でわたしのことを探してくれているのでしょう。雨の中、松明を煌々と掲げた兵たちが、あちこち走り回っています。
こんなつめたい雨の中、金色の髪をびしょびしょに濡らして、彼——ハピネス王子は必死で声をあげていました。
——ウン子を探せ。ウン子を助けよ、と。
「……ハピネス王子」
森から一歩踏み出して、わたしは声をかけました。
ああ、もう、ぼろぼろですね。王子の前に姿を出せるような状態ではないのですが。それでも、どうしても彼に声をかけたくなったのです。
「——ウン子!」
瞬間、王子の瞳はみるみると輝きを取り戻しました。
雨に打たれて紫色になっている唇を、がくがくと震わせながら。でも、頬を真っ赤に染めて。一歩、一歩とわたしに近づいてきます。
どれだけわたしのことを心配してくれたのでしょうか。
悲しげで。けれども、押さえきれない喜びに満ちあふれた表情で、彼は私を抱きしめました。
「……あの、王子。わたし、泥だらけなのですが」
「それでも君は綺麗だ」
「血も。擦り傷がいっぱいで。汚してしまいます」
「かまわない。君の血なら、喜んで受けよう」
「今、不幸が降りかかっても知りませんよ?」
「君と一緒だ。何も怖くないさ」
どれだけ自分を落とそうと、ハピネス王子はわたしを受け入れてくれるようです。
抱きしめられた身体があたたかくて、雨だというのにぽかぽかしてきます。
「……わたしのせいで、不幸になっても良いのですか?」
「一緒に乗り越えられるだろう? 君となら」
「……」
ああ、そうかもしれない、と、わたしは思ってしまいました。
たしかに、王子はわたしを護ってくれました。城での襲撃で、部屋に侵入者を入れぬよう、たくさんの兵を使って、そして彼自身も必死で戦って護ってくれました。
もちろん、わたしだって、ただ護られているわけではありません。
今まで培った不幸耐性がありますから。少々の不幸には動じないですし、今日みたいに、乗り越えられることもあるのでしょう。
すとんと、その事実が胸に降りてきて、わたしは戸惑いました。
わたしは、不幸を信じているのです。
自分の身に起こる、絶対的な不幸を。
なのに、その不幸が、結果的にとても幸せな未来へ連れてきてくれてませんか?
わたしを強くして、見守ってくれていませんか?
わたしは、目を見開きました。
——ああ、そういうことだったのですか。
今までわたしに降りかかってきた不幸は、わたしをこの世界へと導き、生きる力を与えてくれたのですね。
「……わたし、幸せになってもいいのでしょうか?」
ずきり、と、心の奥がうずきます。
目の前のハピネス王子の胸の中に、ずっといてもいいのでしょうか。少しは自分の幸せを願っても良いのでしょうか。
「もちろんだ、ウン子。一緒に、幸せになろう」
「……!」
ぽたりと、水もしたたる美王子が微笑みます。その笑顔があまりに優しくて、柔らかくて、わたしはうっかり瞳を潤ませてしまいました。
今まで一人で不幸に立ち向かってきましたけれど、もう一人じゃない。そんな気がして、胸が苦しくて。
ぎゅうと、ハピネス王子にしがみつきました。王子は破顔して、優しく頭を撫でてくれます。
そのまま、つうと王子の手がわたしの頬を包み込むようにして、目が合いました。王子が少しはにかんだ笑顔で、かがむようにして、顔を近づけてくるのがわかります。
——人生初の、キスは、金髪碧眼の美王子様。
嘘のようだけれど、本当のお話。
ウン子。少しは、自分の幸運を信じても良いのかもしれません。