海と山の向こうへ
いったい僕は何をしているんだろう。
急な坂道を自転車を押しながら、そんな疑問がさっきからずっと頭を駆け巡っていた。辺りの山々の葉は初春のせいか鮮やかな緑に色付き、山の傾斜には木が根を伸ばし、見あげた空は青くどこまでも続いている。右手には欝蒼とした森が広がっており、左手の木々の間からは、遠く海が顔をのぞかせていた。そしてそんな山道を、僕は息を切らせながら一心に自転車を押している。
山道と言っても、一応車も通れる立派なコンクリート状の道路なのだが、なにせ傾斜がひどく少し登るのも一苦労だ。その上、荷台に荷物をくくり付けた自転車も一緒なのだから尚更だった。もちろん、辺り一面人の気配はない。聞こえてくるのは鳥や虫の鳴き声と、僕の溜め息だけだ。
すぐ近くに国道1号線が通っているためか、車もめったに通らない。一度地元の人と思われるおんぼろの荷台トラックが通り過ぎたけれど、それっきりだ。わざわざこんな辺鄙な山道を走る人物好きはいないのだろう。
そんな所を自転車で走っている(歩いている)僕って……。
もしかしたら、ここを自転車で通ったのは僕が初めてかもしれない。
そんなことを考えていたらまたもや溜め息が漏れた。足元に落ちている石を拾って思いっきり投げる。見事な放物線を描き、木の幹に当たった。
俺、何やってんだろ。
さっきから何十回も唱えている疑問を再び呟く。
そして、相変わらず答えも出ないまま、百数十回目かの溜め息をついた。
そう、僕は今、埼玉から伊勢へ自転車で行くという馬鹿げた偉業に挑戦しているのだった。
高校3年の春休み。僕は突然自転車で伊勢に行くことを決心した。本当に突然閃き、そしてすぐに実行に移した。
高校生活最後の思い出として、1人旅でもしてみたい。でも普通の旅なんてつまらない。どうせならみんなが驚くような馬鹿げたことをしてやろう。青春時代の思い出として、一生語りついでいけるすごいことをしよう! そう思っていろいろ考えた結果、自転車500キロの旅を閃いたのだった。
しかし、そんな思いつきではじめたのが悪かったのかもしれない。実際に出発すると、それは思っていたよりずっとずっと大変だった。
出発の早朝。空は見事な天気で、気持ちも高ぶってくる。世界が、この旅を祝福してくれているような気さえした。
実際、最初は良かった。東京、横浜と関東平野のど真ん中で道も平坦で走りやすかったし、辺りの移り行く景色とか、建物とか、降り注ぐ陽光だとか、何から何まで新鮮で気分爽快。口笛でも吹きたい気分だった。
ところがだ、数時間も走っていたらそういうのにも飽きてくるし、なにより疲れがたまって来る。自転車は思っていたより重労働で、6、7時間ろくに休憩もせず走っていたら心なしか頭がふらふらしてきた。それに加え、横浜を通り過ぎると急に辺りに山が目立ち初め、坂道だらけ。
肉体的にも、精神的もつらい。
それでも、そんな坂道を立ちこぎをしながらどんどんと上って行く。前を見据えもくもくと、一心不乱に漕ぎ続ける。
そうやって時折休憩も挟みながらさらに数時間も走っていると、ついには完全に山々に囲まれてしまった。俗に言う箱根というやつだ。
もっとも、『天下の箱根』にまともに挑む勇気はなかったので、少し遠回りになるけれど箱根を回り込むようにして走っている道を行くことにした。
しかし、それがいけなかったのかもしれない。
あまりメジャーな道ではないが故か、歩行者用の道がどんどん狭くなっていく。そして1時間近く走っているとついにはなくなってしまった。その手前で思わず立ち尽くす。目の前には自転車の通る道などなく、車道の横に数センチの隙間があるだけだった。いくらメジャーな道ではないとはいえ、ここは立派な国道だ。自家用車はもちろんのこと、大型トラックも猛烈な勢いで隣を通り過ぎてゆく。そんなところを自転車をこいでいけるわけもなく、必然的に押して歩くことになる。この数センチの幅を、だ。しかも、この状態では1時間で何キロ進めるかも分からない。こんな所で夜を迎えるということも十分ありえる。なんといっても、この道がどこまで続いているのかも分からないのだ。こんな場所で夜を迎える。それがどういうことなのか、僕にだって少しは分かる。
どうしよう……。
頭には最悪のシナリオがぐるぐるとよぎっていた。今ならまだ間に合う。引き返せる。
しかし、後ろにちらりと目をやってから、心に決めた。
前へ進もう!
せっかくここまできたのに引き返すのはシャクだった。やると決めたからには最後の最後まであがいてみたい。1%でも可能性が残っているなら挑戦してみたかった。それにこんな道がずっと続いているとは限らないじゃないか。5分も歩けばまた歩行者用の道があるかもしれない。
しかし、それは甘い考えだったとすぐに知ることになる。
30分後、いまだ僕は数センチの幅を用心深く歩いてた。すぐ横、それこそ1,2センチのところをトラックが走り去ってゆく。怖い。とにかく怖い!
車の方も、こんなところに歩行者がいるとは思っていないせいかすき放題に飛ばしている。もはや高速道路を歩いているような感覚だった。少しでもバランスを崩してよろけたら即あの世行きだ。引き返せば良かったと思ったものの、もはや後の祭り。とにかく進むしかない。
とそのとき、大型トラックが今までにないほどの速度で通り過ぎていった。風を体いっぱいにうける。あまりに危険だったのか、それともこんなところを歩くんじゃねぇ!と言いたかったのか、クラクションをバンバン鳴らして、さらには「馬鹿野郎!」と言い残して走り去っていった。
いつもなら頭に来るのだが、この時ばかりは納得してしまった。
「ほんとに大馬鹿野郎だ……」
そうして歩くこと1時間。僕は未だ自転車を押しながら歩いていた。肉体的ではなく精神的に参ってくる。それに追い討ちをかけるように、あたりは段々と薄暗くなってきていた。あと1時間もしたら真っ暗になるだろう。
そうなったらどうしよう。
更なる不安が押し寄せてくる。今は明るいので車のほうが避けてくれているが、暗くなったらそうはいかない。
下手したらここで野宿か……。
右手に広がっている森を恨めしげに見つめる。いざとなったらこの森で夜を明かさないといけないかもしれない。
そんな絶望に近い感情を内に秘めながら歩いていると、非情にも太陽はだんだんと山々の間に埋もれ、薄っすらと赤み掛かっていた空も真っ暗になろうとしていた。
これはいよいよ野宿か……と覚悟を決めたそのとき、視界にコンビニのネオンが飛び込んできた。
思わず顔がほころび、飛び上がる。疲れが一気に吹っ飛び気持ちが軽くなるのを感じた。科学というもののありがたさを初めて分かったといってもいいかもしれない。そして、同時に自分がどれだけ社会に依存しているかも知ることになった。
それから数分後、ようやくコンビニに到達した。緊張が途切れその場にへたり込む。さっきまで木々に囲まれた山の中を歩いていたのに、ここはごくごく普通の街中で、犬を散歩させている人、買い物帰りの人など、たくさんの人がせわしなく動き回っていた。生まれてから今まで山のない平野に住んでいた僕にはそれがとても不思議な気がした。
そうやっていつまでも座り込んでいるわけにはいかないので、とりあえずビジネスホテルの場所を聞いてそこを目指すことにした。親切なおばさんが教えてくれたそのホテルはすぐに見つかった。値段は3000円。もちろんベッドがあるだけのシンプルな部屋だが、寝るだけなのだから十分だ。それからは食事もそこそこにすぐに寝てしまった。
次の日。
朝6時に目覚ましの音で目を覚ました僕は、とりあえずコンビニで買ってきた弁当を食べながら地図を広げた。前日にひどい目にあったので、特に念入りにチェックしておこうと思ったのだ。場合によっては進路を変更しなくてはいけないかもしれない。しかし、現在地から次の目的地まで指でなぞってみたが、特に危険な道はなさそうだった。とにかく国道1号線を走っていればいいだけだ。道に迷う心配もないし、1号線は海沿いを走っているので道のりも楽そうだった。
よし!と気合を入れて出発することにする。思ったよりも体の疲れは取れていて、危惧していた筋肉痛もほとんどない。今日は順調に走れそうだぞとうれしくなる。それは甘い考えだったと、またしても後に知ることになるのだが……。
といっても、例の如く午前中は順調だった。とにかく海と並んで走るのは気持ちよかった。海をゆっくり眺めながら旅をするなんて、なんと贅沢なことだろう。
しかし、しかしだ。人生そんなにあまくはない。なんと、心地よい潮風に吹かれながらのんびりと自転車を漕いでいたら、またしても突然歩行者用の道路が消えてしまった。完全に車専用の道路に変わり、それはどっからどうみても高速道路と変わりなかった。さすがにここを歩いていく勇気は持てず、そこらをうろうろしていたら、看板を見つけた。
『歩行者、自転車立ち入り厳禁!』
そこには無情にもそう書かれていた。
「はぁ」
これが記念すべき本日1回目のため息である。
なんで国道は自転車に優しくないんだ!と悪態をつきつつ、仕方がないので改めて地図を確認し別の道を通っていくことにした。ところが、ここでもミスをしたらしい。そのルートは、またしても山道だったのである。
はぁー。
もはや数え切れないほどのため息をついて、その苛立ちを拾った石に込める。手から離れ放物線を描いた石は木の幹に当たり、鈍い音が響いた。
昨日のような命の危険を感じる精神的な辛さはない分、肉体的に辛かった。車はめったに通らないので堂々と道の真ん中を歩けるのはいいのだけれど、傾斜が急すぎるのだ。立ち漕ぎなんてしようものなら10メートルも行かないうちに疲労困憊で動けなくなってしまう。結局、押して歩くことになる。
「あ〜あ。これじゃあ自転車の旅か自転車押しの旅かわかんねぇー!!」
思いっきり叫んでも聞いている人は誰もいない。遠慮なく叫べる一方、少し空しかった。
と__。
その時車の走ってくる音が聞こえた。本日2台目の車だ。珍しいなと思いつつ、道の端に避けた。振り返って車を確認する気力もないのでそのまま歩き続ける。しかし車の音は聞こえて来るのに一向に前を通り過ぎて行かない。不思議に思って横を見ると、なんと僕と平行して走っていた。窓からは運転手の女性が顔を出して僕の方を不思議そうに見ている。
「君、何してるの?」
「えーと……まぁ、見ての通りです……」
声をかけられた事に戸惑いつつ、適当に返事をする。何度も言うが、真面目に答えるほどの気力はない。
「ふ〜ん」
そんな投げやりな返答に気を悪くする様子もなく、興味津々の目で僕を見てきた。なんなんだこの人は。と思いながら、僕もさりげなく相手に目をやる。まず目に入ったのは車だが、かなりのボロ車だった。2人乗りの小さな車で、バンパーは所々へこんでるし、あちこち傷だらけ。その上見るからに旧式だった。エンジン音もうるさい。一方運転手の女性は、ぱっと見かなり若かった。僕の年と大して違わない気がした。もしかしたら免許取立てで、19とか20とかなのかもしれない。髪はショートで、前髪を髪留めで留めている。傍から見ると大人しそうで可愛らしい。しかし、実際にはものすごく気さくな人だった。気さくというか、ハイテンションというか、相手かまわずというか……。おかげで数分後には年や名前や出身地からすべて喋らされてしまった。でも僕もいろいろと聞き出せた。彼女の名前は由美といい、実家の仕事を手伝いながら暮らしているらしい。今年で19ということだった
「へぇ。埼玉から来てるんだ。それで、どこまで行くの?」
「一応伊勢ですけど」
「はい?」
「伊勢です。三重県の」
「君、馬鹿でしょ?」
さすがの僕もムッとする。初対面で馬鹿呼ばわりはひどいじゃないか。とはいえ、まさしくその通りだったので反論のしようもない。
「そっかー。自転車の旅か。いいねぇ。青春だねー」
そんな僕の気持ちもお構いなしに1人騒いでいる。他人から見たらこんな素晴らしい青春はないのだろうが、やってる本人は青春を感じる暇などまったくない。
「ところで、由美さんはどこに行くんですか?」
「うん?まぁ、いろいろよ」
由美さんは今までの勢いが嘘のように素っ気なくそう答えた。
いろいろとはどういうことだろうか。いろんな所を回っているということなのか、それともいろいろ事情があるということなのか。気になったものの、それ以上追及するのは気が引けた。誰にだって人に話せないことが1つや2つはある。
「それで?伊勢に行くのは分かったけど、なんでこんなところを通ってるの? 1号線を通れなくてもすぐ近くにもっと楽な道が走っているじゃない。わざわざこんな山道にこなくても」
「えぇ!」
慌てて自転車を停めて地図を引っ張り出す。由美さんも車を停車させ窓から顔を突き出して地図を覗きこんだ。
「ほらここよ」
そう言いながら由美さんは人差し指で地図の表面をなでた。その指は国道1号線を通り、例の看板のところで少しだけわき道に入ってまた広い道路に出た。
「え?それって僕らが今いる道じゃないの?」
「あのねぇ」
由美さんは呆れたふうに言う。
「私たちがいる道はここ」
そういってまた指でなぞっていく。あの看板のところでさっきとは別のわき道に、そしてどんどんと山の中に入っていった。
「はぁぁ―」
ようするにそういうことだった。
みごとに地図を読み見間違えたらしい。普段地図を見ることもあまりないからな……。
「あはは。さすがだね、健一君。自分を追い込むためにわざわざきつい道を選んだんだよね。楽な道ばっかり行ってあっという間に達成しちゃったら青春の1ページに書き込まれないもんね。あはははは」
僕が道を間違えたのがそんなにおかしいのか由美さんは1人で爆笑していた。僕は怨めしげに眺める。
「由美さんは車でいいよな!座ってれいばいいんだもんな」
半分やけになってそんなことをいう。
「あら、車も長時間走ってるとすごく疲れるのよ。それにクーラーもついてないから暑いしね。退屈だし」
「ほら、それに比べて健一くんは素敵じゃない。自転車でこんなところを走れる人はそうそういないわ。いいなぁ。うらやましいなぁ。代わりたいくらい」
「え?じゃあ代わってあげようか?」
期待に胸を膨らませてそう尋ねる。
「あ―、でも健一君17で免許持ってるはずないもんね。じゃあだめか。残念残念。代わりたかったのに」
しかしその言葉とは裏腹に由美さんは意地悪くニヤけていた。最初から代わる気などさらさらなかったのだ。僕をいじって楽しんでいたらしい。
「由美さん、僕をからかってるだけだろ」
「あ、ばれた?」
「ばれるって……」
ジョークだってジョーク。由美さんは笑いながらそんなことを言った。今までとは違うため息を心の中でつきつつ、無視して歩くことに集中することにする。相変わらずあたりの景色は変わらず、坂の傾斜も変わらない。いつまで続くかもわからない道を黙々と歩く。
「あれ?もしかして健一君怒ってる?」
「別に怒ってないですよ」
実際全然怒っていなかったけど、お返しとばかりにわざと不機嫌な振りをする。
「ごめんごめん。ほら、お詫びにお弁当あげるからさ。許して?ね?」
「え?本当?」
弁当という言葉に目がきらめく。まさかこんな山道に出るとは思っていなかったので、なにも食べずに走っていたのだ。お腹が減ったなと思ったころにはすでに自販機すらないところに来ていた。この重労働の中で昼食抜きは自殺行為に近い。
「ほんとほんと。ほら、もうすぐ頂上よ。」
「え?」
そういわれて上を見ると、さっきまで絶壁のように続いていた坂があるところで途切れている。あそこが頂上なのだろうか。
「あそこで食べましょうよ。だからほら、がんばって」
「よし!」
頂上が見えたこと、そして弁当という言葉に釣られ一気に元気になる。単純なやつだなと思うけど、人間なんてそんなもんだ。
「がんばれ!がんばれ!」
僕が一歩足を踏み出すたびに由美さんはそう掛け声をかけた。
「おう」
「がんばれ、がんばれ」
「おう」
「がんばれ、がんばれ」
そうやって掛け声をかけながらのぼっていくと、ついに頂上に達した。すると、今で木に囲まれた景色が一転、急に視界が開け、壮大なパノラマが目の前に広がった。
「うわ……」
頂上に達した喜びも忘れ、感嘆の声が漏れる。目の前には見事な湾が広がっていた。手前に海が壮大に、そしてその奥に陸が見える。午前中僕が走ってきた道だろうか。太陽の光が水面に反射し波がきらびやかに踊り、空も真っ青だった。陸のさらに奥には山がそびえ立っていて、心地よい風まで吹いている。息をするのも忘れるくらい見入ってしまった。
「すごいね……。由美さん」
ところが反応がない。不思議に思って横を見てみると、なんと由美さんは涙を流してしゃがみ込んでいた。
「え……」
慌てて駆け寄る。
「どうしたの由美さん」
「ううん。なんでもないの。なんでも」
それっきり由美さんは僕の問いかけに一切応じず、首を横に振って泣き続けた。僕は完全におろおろしてしまう。17歳の若造に、彼女を励ましてやる方法などさっぱり分からなかった。
だから、僕は何も言わず、彼女の背中そっと擦った。彼女の肩は小刻みに揺れ、地面に涙がポタポタと落ちていった。それでも僕は無言で彼女の背中を擦り続けた。僕にできることなんてこれくらいしかない。とっても情けないけれど。
「ごめんね。驚いたでしょう」
「うん。まぁ」
今僕たちの前には彼女の手作りの弁当が広がっている。あれから彼女はひたすら泣き続け、やがてすべての悲しみを吐き出したのか、立ち上がってなみだ目の笑顔で僕に言った。「お弁当食べようか」って。
「実はね。私死のうと思ってたの」
「え?」
「死ぬ場所を探してたの」
「だって、あんなに笑ってたじゃない」
僕はどうしても信じられなかった。だって、由美さんはそんなそぶりをまったく見せず笑っていたのだ。
「うーん。あれは自分でも分からないんだけどね。あとちょっとで死ねるんだと思ったら急に気が楽になったの。これでやっと楽になれると思うとね。私、こう見えても結構人見知りする方なんだよ。普通なら絶対健一君になんか話しかけてないもん」
「そっか……」
「でもね、この景色を見たら急に情けなくなったの。世界は、自然は偉大なんだなって。そう思ったら自分の悩みがちっぽけなものに思えちゃった。そうしたら涙が止まんなくなっちゃって……。ごめん、驚かせちゃったよね」
「うん……」
それっきり僕たちは黙り込んだ。僕は自分が情けなかった。隣で悩んでる女の子がいる。それなのに、気の利いたことも言えず、うなずいてばかりだった。本当に情けない。
「えっと……。あ、あのさ。えーと……」
何か言おうとしても、言葉が出てこない。由美さんはそんな僕を見て、クスッと笑い立ち上がった。
「ありがとう。健一君」
「え?僕はなにも……」
「ううん。君のおかげで私は自分を取り戻すことが出来たんだよ。君のその無謀な勇気に元気付けられた。そして、私が泣いているときずっと背中を擦っててくれて本当にうれしかった。だから、ありがとう」
「う、うん」
由美さんは照れ笑いをし、そして言った。
「さて、それじゃあそろそろ出発しましょうか」
「え?どこに?」
「どこって、伊勢じゃないの?」
「そうだけど……。由美さんも来るの?」
「当たり前でしょ。私の人生を狂わせた責任はとってもらうわよ!」
そう言って笑うと、1人すたすたと車の方に歩いて行ってしまった。1人呆然とする。
「ほら!なにやってるの。早く来なさい」
遠くで由美さんが叫んでいる。
「なにがなんだか」
そう呟いて僕も立ち上がる。どうやらこの旅はさらに奇妙なものになりそうだった。
「でもま、いっか」
なんだか分からないけど、どうやら僕は由美さんの力になれたらしい。それだけで十分だった。それに、1人より2人の方が旅は楽しい。しかも女の子と一緒なんて最高じゃないか。そんな邪なことを考えながら、僕は叫んだ。
「今行くよ!」
きっと、この旅は一生忘れられない思い出になるだろう。
そんな希望を胸に抱きながら、愛車に向かって歩きだした。