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短編集

洋菓子店『トロワ』の日常と老人と家族

作者: 時雨瑠奈

 洋菓子店『トロワ』の一日は、一人の老人が起き出して

来る事から始まる。

 『トロワ』とは、フランス語で『3』を意味する言葉で、

老人――店主の杉崎大五郎すぎさきだいごろうが名づけたのだった。

 彼が店を始めた時、ここにいたのは彼の愛しい妻とまだ幼

い娘、三人だけだったのである。

 その時の感動と嬉しさを、大五郎は八十になった今でも忘

れてはいなかった。

 還暦かんれき喜寿きじゅもとっくに過ぎているけれど、彼としてはまだ

まだ仕事を辞めるつもりは毛頭ない。

 大五郎がもっとも好きな事は、美味おいしいお菓子かしを作って誰

もが幸せな顔になってくれる事だった。

 それが分かっているから、彼の家族も無理はするなと注意は

しつつも彼に無理に隠居いんきょを迫ったりはしない。

 洋菓子店『トロワ』はかなり小さい。

大五郎、孫娘と孫息子、大五郎の息子、その嫁、そして大五郎

いとしい妻の六人でやっているのである。

 『トロワ』を始めた頃はまだ幼かった彼の娘は、すでにとつ

で別の街へ行っていた。

 たまに娘と孫娘と夫を連れて遊びには来るけれど、ここでは

暮らしていない。

 『トロワ』の商品はその日の大五郎の気分によって決まる

ので、決まった商品を置いている訳ではなかった。

 大五郎は、十歳年下の長年連れ添っている妻が、磨いておい

てくれたピカピカのガラスケースをちらりと見た。

 さて、今日は何の商品を置こうかと首をひねる。

外にちらちらと粉雪が舞っていたので、粉砂糖をたっぷり振り

掛けたシュークリームにしようとぱっと思いついた――。



 大五郎が割った卵の黄身と白身を分けていると、黒髪を後ろ

で一つに結った中学生の孫娘、杉崎彩すぎさきあやがそこにはいた。

「おじいちゃん、おはよう!」

「おお、彩か。おはよう」

「シュークリーム? 手伝うよ」

 ありがとう、と大五郎は微笑ほほえんだ。

彩は大五郎が卵黄と砂糖を投入した銀のボウルを取り上げると、

黒いバニラビーンズを投入した。

 手伝うよ、と言いながら仕事を取られてしまったので、大五

郎は苦笑くしょうしながら冷蔵庫に向う。

 昨日の夜、冷やしておいたミルクゼリーを確認しに行く。

陽光を浴びてつやつや輝く白いゼリーには、表面に綺麗なオレ

ンジ色のマンゴーソースがかかっていた。

 息子の嫁である、さきさんのアイデアだ。

咲さんはフルーツが大好きで、いろいろなフルーツレシピを考

案しては『トロワ』を助けてくれていた。

「あっ……!」

 罰が悪そうな幼い声が響き、大五郎はさらに苦笑する。

彩の弟であり、大五郎の孫息子である杉崎大地すぎさきだいちが銀の小さな

スプーンを持って立ちすくんでいた。

 怒られると思ったのだろう、その茶色がかった瞳は少しうる

んでいる。

 どうやらこっそりつまみぐいしようとしたらしかった。

「ごめんなさい、じいちゃん……」

「お姉ちゃん達には、内緒ないしょだよ?」

 こっそり一つだけ取って手渡してやると、大地はぱぁっと顔を

輝かせてうれしそうにうん!とさけんだ。

 甘いのは分かっているけれど、まだ十歳の幼い孫に大五郎は

きびしくする事はあまり出来なかった。

 あらあら、とおっとりした声が響く。……咲さんだった。

「まあまあ、お義父さんったらあんまり大地を甘やかさないで

くださいよ?」

 咲さんはあんまり怒ったりしないけれど、あきれた時まあまあ

とかあらあらとか言うのが口癖だった。

 頭をかき、すみませんと謝る。

大地は自分の部屋に帰ったのか、もう姿が見えなくなって

いた。

 咲さんはもう呆れてはいないらしく、冷蔵庫から黄桃の寒天

ピーチゼリーや、バニラアイスクリーム、チョコレートのアイ

スクリームを取り出してたりと作業をしていた。

 ここでも仕事を取られてしまったようだ。

八十なんだからもう無理をしないで、と最近とみに言われる

ようになったのがさびしいような、嬉しいような気がする大五郎

なのだった――。



 そういえば、今日は日曜日だったと大五郎は思った。

『トロワ』の定休日は水曜日なので、休日に休みを取らない。

 だから曜日の感覚がよく分からなくなる時があるのだった。

生意気な事に、今日は仕事が休みらしい息子の杉崎卓也すぎさきたくやにまで

仕事を取られてしまった。

 チョコとバナナのケーキを作ろうとしたのに、あ、俺がやる

からいいよ親父おやじ、などと言われて作りかけの材料が入ったボウ

ルをうばわれる。

 あんまり年寄り扱いするな、と文句を言ったけれど年寄りだろ、

と言い返されて。

 事実なので二の句が告げられない。

確かに最近立ち仕事はつらくなって来ているけれど、まだまだ自分

では現役のつもりなのだが。

 妻の杉崎洋子ようこに助けを求めるも、あんまり無理しないでくだ

さいね、と微笑むだけで助けてくれなかった。

 愛しい妻にまで裏切られたのはちょっとショックだった。

心配してくれている、というのは嬉しい事ではあるのだけれど。

 仕方がないので日課の散歩に出る。

散歩といっても、あまり長すぎると注意されるので五分か十分

だ。

「あ、彩ちゃんのおじいちゃん! おはようございまーす」

 手を振っている赤茶色の二つ結びの髪の少女は、彩のクラス

メイトの長瀬小夜子ながせさよこちゃんだった。

 飼っているいる黒柴の「クロ」の散歩なのだろう、彼女の横

には黒いアーモンド形の瞳も愛らしい子犬が並んでいた。

 わんわん!と甘えるようにこっちに寄って来る。

日曜日の散歩の時は、小夜子ちゃんとはよく会うのでクロも大

五郎に慣れてくれていた。

「おいで、クロ!」

「わんわんわん!」

「もう、クロってば」

 ぐいっ、と手に持ったリードを引っ張られた、小夜子ちゃん

は少し困ったような顔になりながら大五郎に近づく。

 クロは嬉しそうに大五郎に身をり寄せていた。

「彩ちゃんのおじいちゃん、いつもありがとうございます。

クロも、本当におじいちゃんが好きなんですよ?」

 小夜子ちゃんは本当に笑顔が似合うな、と大五郎は思った。

優しいしいい子だし、本当に彩はいい友達を持ったと孫の人

を見る目にも嬉しくなる。

「あ、そういえば先ほどお家にお邪魔させてもらいました。

いいジャムと紅茶が手に入ったので、少しおすそ分けです」

 小夜子ちゃんの家は、パン屋さんをやっていた。

今はパン屋さんではなくベーカリーというらしく、おじいちゃ

ん古いよ、と孫に言われた事があった。

「ありがとう、何のお菓子を作るかな……」

「おじいちゃん、本当にお菓子作るの好きですね。でも、無理

しちゃ駄目ですよ?」

「孫達にも言われてるよ……本当はもう少し働きたいんだけど

ねぇ」

「皆、おじいちゃんが大好きだから長生きして欲しいんですよ」

「うん、それも分かるけどね……」

 大五郎だって息子達の気持ちが分からない訳ではない。

現役だと思ってはいても、自分はもう八十だし家族としては心配

なのだろう。

「話、聞いてくれてありがとうね、小夜子ちゃん。私はもう帰ら

なくては」

「体、お大事にしてくださいね。――ほら、クロおじいちゃん帰る

から!」

 くぅ~ん、とクロが鳴いた。

なかなか離れないので、小夜子ちゃんが抱き上げて大五郎から離

させる。

 大五郎は犬が好きだし、パン屋――じゃなくて家がベーカリーの

彼女と話せてとても嬉しいのだった。

 お菓子を作る時ももちろん至福の時だけれど、こういうゆった

りした時間も大五郎は深く愛していた――。



 家に帰りつくと、おじいちゃ――んと彩が声をかけて来た。

それを嬉しく思いながら近づくと、鮮やかな薔薇ばら色のジャムを片

手に彩は悩んでいるようだった。

「おじいちゃん、小夜ちゃんに薔薇のジャムをもらったの。何作

ったらいいと思う?」

 甘い匂いが鼻をくすぐった。

どうやら、オーブンでシュークリームを焼いているらしい。

 髪に小麦粉がついているのに気付いていないみたいなので、大

五郎はハンカチで拭ってやった。

 彩が照れくさそうに笑い、ありがとうと笑顔になる。

「シュークリームは上手く出来たかい?」

「今焼いてるの。多分、ばっちりよ!」

 シュークリームを初めて教えた時は、彩は失敗して涙目になっ

ていたものだけれど、今はとても美味しそうに作るのだった。

 ふくらまない、とかげた、とかいろいろ言っていたのに。

ジャムタルトにしたらいいよ、と教えてやるといいアイデアね、

さっすがおじいちゃんと顔が輝いた。

 未来の洋菓子店店主のしっかりとした仕草を、大五郎は眩し

そうに見つめた。

 まだまだ生きるつもりだが、自分がいなくなったとしても咲

さんや息子、そして妻が継いでくれるだろう。

 そして、いずれは孫娘もこの店を守ってくれるはずだ。

私はいい家族を持った、と切に大五郎は思うのだった。

「あ、親父! フィナンシェってどう作るんだったっけ?」

「フィナンシェかい? だったら、レシピが戸棚にあるよ」

「ああ、そうだったな、ありがとう親父!」

 大五郎は念のために、いろいろとレシピを書いては棚に何冊か

置いておいていた。

 まだまだ死なないと思っていても、人間自分の寿命まではどう

にも出来ないものだ。

 大五郎の父だって、まだまだ死なないと言いながら突然の事故

で亡くなったのだから、自分にだってその時が訪れないとは限ら

ない。

「あ、義父さん、このスコーンの味見してくださいませんか? 

 ――彩、そろそろシュークリーム焼けそうよ。見に行った方が

いいわ」

 コーヒーのスコーンのこうばしい香りが部屋に漂い、うわあと彩

が声を上げた。

 いつの間にやって来たのか、大地が俺にも俺にも!と咲さんに

せがんでいる。

 それから、彩はいっけない!と叫んでバタバタとオーブンに向

かって行った。

 しょうがないわねぇ、と言いながら咲さんは大地にも一つ上げ

ている。

 コーヒーのスコーンは苦すぎもせず、甘すぎもせず絶妙の味だ

った――。



「「――いらっしゃいませ!」」

 紺色のワンピースとシンプルな白いエプロン姿の咲さんと彩の

姿は、とても華やかだった。

 大五郎は腰に来るから店番は駄目!と言われているので、同じ

立場の妻とお茶を飲みながらその様子を見ている。

 大地と卓也はお菓子の梱包こんぽうをしているので、お客の相手をする

のはあの二人だけだ。

 薔薇のジャムタルトは、珍しいせいか女のお客さんが喜んで買

っていた。

 今日はそんなに熱くはないけれど、バニラのアイスクリーム

など各種のアイスクリームも売れている。

 彩に言わせると、冬でも炬燵こたつに入りながら食べると美味しい

らしかった。

 咲さんの考案の、黄桃の寒天ゼリーや彩の作った粉砂糖をかけた

シュークリーム、さくらんぼが乗ったプリン、紅茶のシフォンケ

ーキ、金塊にも似た形をした食べやすい大きさのチョコレート

フィナンシェ、アツアツのチョコレートが生地に閉じ込められた

フォンダンショコラ、マンゴーソースのかかったミルクゼリー

など商品は今日も次々と売れていく。

 お客さんの嬉しそうな顔を見ていると、大五郎はとても嬉しく

なる。

 隣に座った洋子も、大地も卓也も彩も咲さんも嬉しそうだった。

明日は、何をメニューに出そうか。

 そう思っていたら、何故か大五郎はくらりとなり意識が遠のく

のを感じた――。



「おじいちゃん! おじいちゃん、しっかりして! おじいちゃ

ん!」

「じいちゃん、やだよ、じいちゃん! 起きて、起きてよぉ!」

「親父!」

「お義父さん、大丈夫ですか!?」

 あれから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。

気が付くと、孫達と息子と咲さんが泣いていた。

 お父さん、と声がして手を握られる。

娘の伽耶子かやこがそこにはいた。泣いてはいないけれど、その妻に

そっくりな瞳は潤んでいる。

 まだ幼い彼女の子供達は、この状況がよく分かっていないのか

きょとんとしていた。

 起き上がろうとして、起きれない事に大五郎は気づく。

今更ながらに胸が苦しい事に気付いた。

 そろそろ、その時が来てしまったようだ。

「あなた……」

「洋子、私は一体……」

「さっき、急にお茶を飲んでいて倒れたのよ……」

 愛しい妻の顔を、大五郎は胸に刻み込んでおこうと思った。

娘、孫達、息子、息子の嫁の咲さんと順繰りに見回す。

 いい家族に私は恵まれたのだな、と大五郎は思った。

「もう一度生まれ変わる事があったもまた、みんなと一緒に

いたいと思うよ。妻よ息子よ娘よ。ありがとう。そして、愛しい

孫達もさようなら」

 ゆっくりと目を閉じると、大五郎はもう身じろぎも目を開ける

事もしなかった。

 孫達の泣き声が一段と大きくなり、彼の妻と娘と息子、そして

息子の嫁が無言で肩を震わせる。

 家族に愛された老人は、こうして家族に見守られながら息を引

き取った――。

 ※エッセイ村掲載作品です。


一度言ってみたいセリフをそれ

ぞれ出し合って、シャッフルして

書くという企画の参加作品でした。

 初のおじいちゃん主人公です。

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