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全てのパーツの整形は終わった。次はパーツを接着していく作業だ。
「接着剤は膠を使うのが良いと聞いてますけど……」
「うん。僕も膠が良いと思うね。この臭いさえ我慢できれば」
みのりと葛城の二人は膠を煮る作業をしていた。膠は動物の軟骨や皮などからとるのだが、その作業の際、とてつもなく嫌な臭いが出る。みのりは、既にこの臭いを経験済みだが、何度嗅いでも慣れなかった。煮ている最中の膠なので、前回よりも強烈に臭っているせいもある。
「すみません、膠を使いまくった上に、大村さんのところに置いてきちゃって」
「いいよ。どうせ作ったら、使い切らなきゃどのみちダメになるものだから」
作業台には、大村の製材所で粗仕上げまでして、その後みのりがノミとヤスリを使って、板厚を設計寸法まで薄くした材料が3台分置いてある。
「膠って、扱いが難しいと思うんですけど、何が良いところなんですか?」
「膠の良いところは、温めて湿気を与えると、簡単にはがすことが出来る点だよ。修理を前提とした接着剤だね」
「うー、今回良くわかりました」
二枚取りの板の接着が下手糞で大村のOKが貰えず、やり直しばかりしていたが、膠を剥がしても木には傷がつかなかった。
「分かりますけど、この匂いが……」
みのりはふらふらと立ち上がり、逃げる様に膠を煮る作業を葛城に任せ、サイドの薄板を曲げる作業に着手した。熱した鏝を使って、焦がさないように徐々に徐々に曲げていく。3種類、計6枚の薄板を曲げ、これも大村が作ってくれた木型にはめていく。
「そっちも大事だけど、先にバスバーを貼ろう」
「はい……あの、それなんですけど……バスバー貼り付けと削りの実作業は、葛城さんにお任せして、良いでしょうか?」
通常、ギターはボディの内側にブレイスと呼ばれる板を貼る。これは板の割れを防ぐとともに音響的に振動をボディ全体に分散する機能を持つ。音響特性を良くするためにブレイスの形はメーカーにより様々だ。
みのりが作る今回のギターはバイオリンやチェロの様なアーチ形状のトップとバックを取っている。これらの製法に倣い、みのりはブレイスではなくバスバーと呼ばれる木の構造体を付ける様設計していた。バスバーは木目と同一方向に貼り、弦のテンションがかかってもボディが歪まないようにする背骨の様な役割をするとともに、低音の伸びを良くする効果が期待できる。
バスバーを貼るときには、ボディの中心線から程良くずらし、天板を反らせ気味にしてバスバー自体にテンションがかかる様に貼り付ける必要がある。そして、貼り付けてから不要部分を削り取って狙った音響特性になる様に仕上げる必要もある。ここにノウハウがあって、素人が付け焼刃でやってもうまく行くはずがなかった。
その事をみのりは知っていたので、上目づかいで葛城を見ている。それが判って葛城はおかしくもあり、同時に信用されているなと、ちょっと嬉しかった。
葛城がバスバーの削り作業をしている間、みのりはサイドの型枠はめ込みとライニング(のりしろの様なパーツ)の接着をしていた。接着をしては固定して乾かし、また接着するという作業は非常に時間がかかる。ボディが完成するまでに丸2日、ネックの取り付けに丸1日かかってしまった。
「さて、今日からは塗装だね」
「そういえば、昨日から店の方が静かですね。工事は終わったんですか?」
「うん。今は壁材を乾かしたり、塗料の匂いを取る為に店を全開にしてる。あと4日くらいはかかるかな」
結局、何も手伝えなかったなという、ちょっと残念な気持ちをみのりは持っていた。店の方を眺めているみのりの表情を見て、葛城はみのりの心情が判り、声をかけた。
「集中集中。今日からは長い戦いになるよ」
「え、塗装って、そんなに時間がかかるんですか?」
「何言ってんの、300回は塗り重ねるからね」
「えーーーーーー???? 時間はどのくらいかかるんですか?」
「そうだなぁ、3ヶ月くらいかな」
その回数の多さと期間の長さにみのりは愕然とした。
「スプレー塗料なら2,3回吹けば終わるけど、みのりちゃんは、柔らかい、温かい音を目指してるんでしょ? だったらセラックニスを使ってじっくりと仕上げようよ」
「中学校の時に夏休みの宿題で作った本立てのニス塗りは、そんなにかからなかったですよ?」
「楽器で使うセラックニスは、アルコールで溶かした薄い溶液だからね。布の束に染み込ませて、木に刷りこむ。だから回数が必要なの」
「わかりました……でも、夏休みの研究課題が……」
「塗装の途中でも部品を取り付けて試奏は出来るよ。むしろそれで要所要所を改善して行けば、きっと良い音になる。課題は試奏の時に片付ければ良いじゃないか」
みのりは、葛城に別の1台の塗り方を見せてもらい、塗り漏れが無いようにするための順番や、一度に刷りこむニスの量、複数回塗った後の磨き作業などを頭に叩き込んだ。
ニス塗り1回の乾燥時間はそれほど長くないが、ニスを乾かしている時間は手持無沙汰になる。自然と言葉を交わす機会が増えた。
「そう言えば、みのりちゃんギターが趣味だって言ったよね」
「はい。下手の横好きですけど、クラッシックギターをちょっと」
「弾いて聞かせてよ」
「えー、上手くないから恥ずかしいです」
「そんなこと言ったって、麗華が黙ってないよ。絶対みのりちゃんを店のステージに立たせるよ」
みのりは、今はここに居ない麗華の今までの行動を思い起こし、やりかねないと思った。
「……ちょっと、練習しとこうかな……」
その一言に、思わず葛城は吹いてしまった。
翌日、スクーターで工房に訪れたみのりの背中には、ギターケースがあった。
「お手伝いすることがない時は、ちょっとギターの練習をさせてください」
「いいよ。昼間だったら、ちょっと暑いけど縁側でやるのが気持ち良いよ。店の中は、まだ塗料の匂いが残ってるからやめた方が良い」
「それと、今日からは多分自力で作業できると思うので、葛城さんはリペア作業に戻ってください」
みのりは、工房に積み上げられている段ボールや楽器ケースが気になっていた。それらは、徐々に増えているような気がした。
(葛城さんの時間を作ってあげないと……)
もっとも、喫茶店の方は相変わらず閉店したままなので、みのりは、工房の掃除や葛城の為の食事作りくらいしかやることがなかった。だが、やってみると仕事中の葛城の背中や、食事中の表情、時々声をかけてくれる時の葛城の笑顔が見られ、むしろ自分にとって楽しい作業だという事に気づいた。それも終わって空いた時間は、夏の研究課題の準備に当てたが、それにも飽きた夕方、みのりはギター抱えて縁側に出た。
溜まっているリペア作業に没頭していた葛城は、ふとギターの音色が聞こえるのに気づいて、手をとめた。聞こえてきたのは葛城も良く知っている曲だった。
「『ダッタン人の踊り』か。」
それは、ギター用にアレンジしてあった。みのりの演奏は素人にしては上の部類に入る。初対面の時のあの中年サラリーマンの様なガサツさは全くなく、表情豊かにギターを謳わせていた。
「そうだ。自分も練習しないとな。寝る前に少しずつ指慣らしするか」
みのりのギターの音色に癒されながら、葛城はまた作業に戻って行った。
生木からニスを塗りこんで、試奏できるようになるまでさらに4日かかった。
みのりはその間も毎日通ってきて、葛城家の家政婦といった感じで、炊事と掃除を受け持ったが、さすがに寝室掃除と洗濯は、葛城が自分でやると断った。
この日も、そろそろお昼ご飯を作ろうと、みのりがキッチンに向かうと、店内の通りに面した大きなガラス窓から手を振る人影が見えた。
「九条さんと麗華さん、お久しぶりです」
鍵のかかった重いドアを開け、みのりは二人に挨拶した。
「お昼まだ作ってない? 良かった。ハンバーガーを買って来たのよ。亮も呼んで4人で食べましょう」
「お、塗料の匂いは抜けたね」
工事開始から、丁度1週間が経っていた。当時かなり匂いのきつかった店内も、今はさほど感じない。むしろ新築の良い香りに思える状態だった。
壁を抜いて確保したスペースには、学校の教壇程の段差が設けられていて、工事の為に移動させられたテーブルがまだ戻されていない為、想像以上に広く感じられる。反対に、キッチンは珈琲豆などのストック用収納棚を新設したため、少し手狭になっているが、それでも4人が食事をとるにはまだ余裕があった。
そのキッチンに背の高い丸椅子をおき、麗華が買ってきたハンバーガーを食べる。今日は珈琲ではなくファーストフード店のコーラだ。
「明日からやっと営業再開できるな」
「あら、夜の部は今日からよ」
葛城は食べる手をとめて麗華を見た。口にケチャップが付いている。
「聞いてないぞ?」
「言ってなかったかも」
「今夜はさ、通常営業じゃなくて前夜祭みたいなもんだよ。いつも夜、店に来てくれるお客さんに来てもらって楽しんでもらうのさ」
店主の葛城を置いてきぼりにして、既に計画は決まっているようだった。
「そうだ、亮、大村さんに今晩の連絡しといたぞ」
「てことは、今日やるのか」
「丁度いいだろ」
「変な評論家とか呼んでないよな? あれが苦手なんだ」
「お前、まだ気にしてんの? 過ぎた話だよ」
「それより、みのりちゃん、今日は一緒に楽しみましょうね」
急に話を振られたみのりは、飲み込んだパンのかけらがのどに詰まって、慌ててコーラで胃に流し込んだ。
「ステージでギターを披露するんだって、ずっと練習してたよ」
それは!……」
葛城さんが「麗華は無理やり出させるぞ」と言ったからだ、とは、麗華の前では言えず、口籠った。
「あら、嬉しい。じゃあ、是非ともステージに立ってもらわないとね」
「楽しみだな。ギターは出来上がったのかい?」
「いえ、今塗装中です」
「あぁ、どうせなら試奏がてら、そのギターで今晩演奏すればいいんじゃないか?」
「それ、良いわね! 話のタネになるし、みのりちゃん、万が一演奏がうまく行かなくても亮の所為に出来る。ギター製作指導が悪かったって」
そう麗華が言って4人は笑った。
「こんちはー」
店の方で声がする。九条がキッチンから顔を出すと、ジャズ研の4人が戸口に居た。
「やぁ、学生諸君」
「開店準備の手伝いに来ましたー。ついでにステージ一番乗りしに来ました」
「抜け目ないな。すぐそっちに行くから、ちょっとそこで待ってて」
九条はハンバーガーの残りを口に放り込み、コーラで流し込むと、キッチンを出て行った。ポテトをつまんでいた麗華も、満足したのか、暫くして席を立った。
「そうだ、葛城さん、今回作った3本のギターの音を聴いてほしいんですけど」
「いいよ。その場で手直しできそうなら、しよう。まぁ、魂柱の位置とナットの材質を変える事くらいしか出来ないけど」
そう言ってから、葛城は今思いついた提案をみのりに話した。
「あぁ、ジャズ研メンバーにも聞いてもらおうよ。どの音が良いか、コメントをもらおう」
「やだ、恥ずかしい」
「リハーサルリハーサル」
食べ終わって残った紙袋を丸め、ごみ箱に入れてから、葛城はポンポンとみのりの背中を叩いた。
店内では麗華の指示で、移動してあったテーブルの再配置をジャズ研メンバーの2人が担当し、残りメンバーは床磨きと養生シートの撤去を行っていた。あとから参加した葛城とみのりは、1週間使っていなかった食器類やグラスの類をキッチンに運び、洗った。
その作業が終わると、カウンターに戻って、空になった棚の拭き掃除や、エスプレッソメーカーや電動ミルの拭き掃除を始めた。
テーブルの移動を終えて、自分たちの楽器をステージに持ち込み中だったジャズ研の一人が、カウンターの方を見てぼーっとしている。
「おい。そっち持てよ。なにぼーっと突っ立ってんだよ?」
「マスターの奥さん、可愛いよなぁ」
ジャズ研メンバーには、カウンターの中で仲良く拭き掃除をしながら会話をしている葛城とみのりが映っていた。
「学生諸君、あの二人は夫婦じゃないわよ」
「そうなんですか?」
「最初に会った時に言ったじゃない。あの子はあなた方と同じ大学の学生さんよ」
「おお!」
「それにね、あの2人の距離の顔の距離をよく覚えておきなさいよ。あれは、関係を持った男女の距離ではないの。ほら、あの距離以上に顔が近づくと自然と離れるでしょ。まだ他人の距離ね」
「おおお! ママさん、よく覚えときます!」
下らない事を話している麗華に、九条が後ろからゲンコツを食らわした。
「痛いじゃないの!」
「何を幼気な学生に吹き込んでるんだ?」
「人生にはこういう情報も必要なのよ。じゃないと葛城みたいになっちゃうの」
二人のじゃれあいを、学生たちは見つめ、ぼそっと呟いた。
「これは、関係を持った男女の距離……だな」