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リアカーを取り付けたオートバイは、早く走れない。
エンジンの大きさに関わらず、30kmがぎりぎりのスピードだ。さもないと、サスペンションのないリアカーが、舗装路面のわずかな凸凹を拾って、上の荷物を躍らせる。少し大きく跳ねたら、荷物はどこかに飛んで行ってしまう。だから、運転者はスポーツ自転車にも抜かれるスロースピードに耐え続けなければならない。おまけに幅があるから後ろから来た車の邪魔になるし、引っ掛けられない様に注意を払う必要がある。
暑い季節は、特にきつい。走っていても生ぬるい風がゆるりと身体の水分を奪っていくだけで、ちっとも涼しくないし、赤信号で止まろうものなら、強い日差しとアスファルトの照り返し、そしてエンジンの熱気が、容赦なく身体の上下から体力と集中力を奪っていく。
片田舎の国道を走っている山科みのりが、まさにそういう状況だった。リアカーをガタガタ言わせながら、既に何キロ走っているのだろうか、かなり長距離を走ったと見えて服は排気ガスですすけている。
(喉が……乾いたな……ヘルメット、脱ぎたいな……)
ずっとノンストップで走ってきたが、さすがに疲れが出てきた。天頂近くにある太陽は、容赦なくみのりを照りつける。
(あ、お店発見……喫茶店かな?……何でもいいや。あそこで休ませてもらおう。『ヴィ
オラ・ダ・ガンバ』?……変な名前。ま、いいか……とにかく……水)
店に流れる優雅で爽やかな室内楽とは対照的に、カウンターの中の葛城 亮の顔は渋く暗かった。
「うーん」
「……亮。お前さぁ、そんな辛気臭い顔してるから、客が寄り付かないんじゃね?」
テーブル席で珈琲を飲みながら、葛城の表情を伺っていた九条は、その暗い態度にたまりかねて声をかけた。
「さっきから、何唸ってんだよ?」
「いや、分かってはいたんだが、結果の数字を見ると愕然とするな」
「だから、今は喫茶店の時代じゃないんだって。現代人は時間がないんだよ。移動しながらスマホで打ち合わせする時代だぜ?」
昭和から平成に変わる頃までは、喫茶店は街にいくつもあった。その用途は大きく2種類に分かれる。社用スペースとしての用途と癒しスペースとしての用途だ。
前者の喫茶店は、社内で話せない内容を話すための場所として使われたり、そもそも社内に打ち合わせスペースが少ないために、その為の場所として使われたりした。そうした用途の喫茶店は現在もあり、少ないながらも有名店が駅前でチェーン展開している。
一方、後者の喫茶店は、日常の中のちょっとした非日常を味あわってリフレッシュしたい個人が通う店だ。珈琲通や紅茶通と言った類の趣味人が御用達の店も、この手の店だ。こういった店は、顧客に非日常を味あわせるために空間を演出する。
大抵の店は、店内は照明を落とし、落ち着いてくつろげるよう調度品や食器に拘り、提供する珈琲や紅茶、ケーキなどの洋菓子類にも拘る。客単価は比較的高いが、客は一杯の珈琲で何時間でもいることが出来た。こういった類の店は、昨今の明るいイメージのコーヒースタンドチェーンに席巻され、今はほぼ絶滅してしまった。
葛城が頭を抱えて唸っている『ヴィオラ・ダ・ガンバ』と名付けられたこの店も、後者の店作りをしている。外構えは茅葺でこそないものの、古民家然とした風合いで、重い木の扉と、木の格子で守られた2枚の大きなガラス窓があった。
重い扉を開けて中に入ると、古伊万里の大きな壺に季節の花が活けてあり、店の入り口を彩っていた。葛城のセンスは悪い物ではなかった。にもかかわらず、けだるい午後のこの時間に、客は九条一人だけだった。正確に言えば、九条は客ではない。葛城が借りているこの店舗の大家であり、葛城の古馴染みだ。
「売上か?」
「あぁ。だが、売り上げの絶対値より、赤字幅の大きさが頭痛の種だ」
「仕入れの量を減らせないのか?」
「豆がな。これ以上、一度に焙煎する豆の量を減らすと、珈琲の味が落ちるからなぁ」
「焙煎する回数を減らせばいいじゃないか」
「今でも1日1回しか焙煎してないよ。焙煎の古い豆を使う訳には行かないね。それこそ珈琲の味が落ちる。少ないご贔屓が更に少なくなっちまうよ」
「だからさ……もうそういう時代じゃないんだって」
九条はそういうと、カップに残った珈琲を一気に喉に流し込んだ。
「確かに、味と香りは抜群だがな」
飲み干したカップを見つめて、九条はぼそっと呟いた。
暫くして、帳簿とにらめっこしていても埒があかないと思ったのか、葛城は帳簿を両手で勢いよく閉じるとカウンターを出た。
「ちょっと赤字の埋め合わせだ。亘、店番頼む」
九条にそう言い残し、葛城は裏の扉を開けて出て行った。
裏手には中庭が広がっている。隣の家が平屋建てなので、日当たりが良かった。中庭の反対側には広い縁側があり、その奥に2間続きの住居スペースがあった。
この家を上空から俯瞰すれば、L字型のいわゆる「曲り家」と言うことが分かる。丁度、馬屋が店舗の客席で、土間がキッチンとカウンターという構造になっていた。通常、この土地では、このような形の家を建てることはなく、これが東北の南部あたりから移築されたものだと言うことが容易に想像できる。
葛城は縁側の最も奥のところで靴を脱いでスリッパに履き替え、部屋に入って行った。
部屋は16畳ほどの広さがあり、部屋の手前には重厚な皮のケースや、木製の梱包、段ボールなどが所狭しと積み上げられ、その奥にテーブルとワークベンチ(広い机)が二つ置かれている。ワークベンチが置かれている奥の壁にはいろいろな種類のノミや金槌などの木工用工具が整然と掛けられていた。視線を上に移すと、天井板はなく、むき出しになった梁から何本もの金属製のパイプが渡されていて、そこに、バイオリンやビオラをはじめ、良くわからない民族楽器などがぶら下がっていた。
工房内をしばらく眺め、葛城はふうとため息をついた。そして、ワークベンチの椅子に腰掛け、「さて、やるか」と、手元のスタンドの灯りをつけた途端、後ろから呼びかけられた。
「亮、お客さん」
振り返ると、九条が苦笑いをしながら立っていた。
葛城が九条を従えて店に戻ると、女の子が厚手のガラスコップに入った水をがぶ飲みしていた。テーブルに置かれたピッチャーの氷水は、すでに半分なくなっている。
「あの子がさ、げっそりした顔で入ってきて、『み、水を』って言うんだよ。ミミズ出すような洒落は利きそうなかったんで、とりあえずピッチャーごと水を渡して、お前を呼びに行ったわけ」
九条が葛城に目の前の光景に至る説明をした。
葛城は、目の前の女性がどう見ても珈琲通には見えなかったが、九条の説明で納得した。
「ご来店有難うございます。お客様、うちはメニューが少なく、満足にお出しできるのは珈琲とチーズケーキくらいの物なのですが、それでもよろしいですか?」
九条は、この辺が葛城のダメなところだと思っている。売り上げを上げたいなら、看板メニュー以外でも、需要に見合った物を出すべきだと九条は思うのだった。
「あ、はい。……では、お奨めの珈琲とチーズケーキを下さい」
水を飲んでひと心地ついた女性は、コップをテーブルに置き、慌てて注文をした。
女性は格子付きの大きな窓に面した4人掛けのテーブル席に座っている。ちょうど逆光になって、窓から差し込む光が彼女の輪郭を光らせていた。三つ編みにTシャツに裾を巻き上げたダボッとしたジーンズ。足元は素足にデッキシューズ。Tシャツはジーンズにインしていて、全体的に埃っぽい印象で、見るからにダサい労働者然とした格好だった。良く見ると化粧気のない顔に煤のような汚れが付いている。腕にも汚れが付いていた。首に巻いたタオルも黒ずんでいる。
葛城は、カウンターに入ったものの、すぐに注文を用意することはせず、冷水で濡らし、固く絞ったタオルを用意すると、テーブル席の女性に差し出した。
「これ、もう雑巾に近い状態のタオルだけど、洗ってあって清潔だから使って下さい」
「あ、有難うございます」
女性は、嬉しそうにタオルを受け取ると、サラリーマンの様にごしごしと顔を拭いた。
「外に置いてある、アレ、あなたの?」
窓越しに、リアカーのついたスーパーカブという90ccのオートバイが止めてあるのが見える。リアカーには大量の廃材が積んであった。
「あ、はい。邪魔ですか?」
「いや、駐車場だから邪魔じゃないけど、何を積んで来たの?」
「あれですか? 実は知り合いから古民家を解体するという話を伺って、解体現場で古材を戴いて来たんです。それで今、この先の大学に戻る途中だったんですが、朝から体力使った上に、この暑さでしょう? 熱中症なのか脱水症状なのか、もうぐったりしてしまって……丁度このお店があったので、ちょっと休ませてもらおうと……」
顔を拭いた後、女性は話をしながら首筋を拭き、更に腕まで拭き始めた。まるっきり中年サラリーマンのようだった。
「大学生? 夏休みの課題の材料か何かかな?」
今は女性席を譲ってカウンター席に浅く腰掛けている九条が、話に加わった。
「楽器を、……オリジナルギターを作ろうと思ってるんです」
「オリジナルギター?」
「えぇ。ちょっと変わった形のアコースティックギターを作ろうかと」
「へぇ。弦楽器だったらここの店長が詳しいよ」
九条はカウンターに戻った葛城を、背中越しに親指で指示して言った。
「そうなんですか! 店長さん、知っていたら一つ伺いたいことがあるんです」
「詳しいって言ったって、学者じゃないし、ギターは専門外だからなぁ
「えぇ、知っていたらで良いんです。私の周りの人に話しても、誰も判らなくて」
「どんな話?」
ちょっと興味を持ったのか、チーズケーキを切り、アンティーク皿に載せる作業をしながら、葛城は女性に聞いた。
「あ、私、自己紹介がまだでしたね。山科みのりと言います。この先の工科大学に通ってます。一応理系の学生なんですけど、夏休みの研究課題をどうしようかな、なんて思いながら、インターネット上の動作サイトを見ていたんですね」
なるほど、理系の女子っぽいと、葛城も九条も妙に納得した。
葛城が豆を挽くために電動ミルを回したので、話が一旦途切れたが、ミルの音が止むと、みのりは再び話し始めた。
「趣味でギターを弾くので、趣味と実益を兼ねて、楽器の流体力学とか研究出来たらいいなぁなんて思って、それっぽいキーワードを使ってヒントを探していたんですよ」
「今は便利な世の中だよなー。で、なにか、ヒントは掴めたの?」
九条だって、そんなに歳ではない。ただ、九条が学生だった頃は、まだ今の様に動画サイトをはじめとするさまざまな情報サイトが花開く直前だったことは確かだ。卒業論文の九条の言葉には、今学生だったら、という思いがこもっていた。
「それが、研究課題そっちのけで、検索に引っ掛かった動画に嵌ってしまったんです。その動画はアマチュアの投稿ビデオのような感じだったんですけど、ギターの音がクリアなのに暖かくて包み込まれるような素晴らしい音色だったんです」
「どこのメーカーのギターだったの?」
葛城は、ネルのフィルターで入れた珈琲とチーズケーキを、みのりのテーブルに置きながら尋ねた。
「それなんです! 教えてほしいのは。トップがアーチ形状のフルアコギターの様に見えたんですけど、アンプを通さない普通の音で、良くあるフルアコの音とは全然違っていました。音も全然聞いたことがなくて」
「ヒントはそれだけ?」
お盆を持ったまま腕組みをして考えている葛城に、九条がかぶせて言った。
「その投稿映像のコメント欄に書けば、投稿者が答えてくれるんじゃない?」
「それが、2,3日経ったら映像が消されてしまって、調べても出てこないんです」
「どんな音楽だったの?」
「ピアノとギターで、音楽はジャズっぽい感じだったんですけど、多分オリジナル曲で、聞いたことのない調べでした」
んん? と、葛城と九条は顔を見合わせた。