CrossKeeper-5
五月二十二日火曜日、午後三時二十七分。花咲学園高等部の応接室にて、現在一人の少女がかれこれ一、時間近くも待たされたまま座っていた。どうみても十二歳前後にしか見えないその少女は、壁一面に飾られた数々の絵画を眺めながら今回自分が演じるべき役柄を復習していた。
藤ヶ崎綾乃。
それが現在、彼女に与えられた仮の名前だった。仮にしては少々珍しい名前ではあったが、外見からは想像もつかない程の年月を過ごしてきた彼女にとって、そんなものはただの記号でしかなかった。例えどんなにおかしな名前を与えられたとしても、それが一時とはいえ彼女の社会的身分を保証してくれるのであれば、受け入れるより他にない。
(……忘れるな。何よりも重要なのは、私の使命を果たすこと)
使命、などと言うと堅苦しく聞こえるかもしれないが、彼女にとってのそれは単なる約束に過ぎなかった。
遠い、遠い昔に交わした、叶うのかもわからない小さな約束。彼女をこの世に縛り付け、老いぬ命を与えた誓い。
それは一方的なものだったけれど。
その人は、もう二度と戻らないと解っているけれど。
それでも彼女は待ち続ける。疑問の答えを見つけるために。償う機会を得るために。そして――
「One for all, all for one!!」
「――そう、わんふぉあ……って、あれ?」
突然聞こえてきた英語の音声によって、少女の頭に描かれた過去の幻想は、瞬く間に消え失せた。一瞬にして現実に引き戻された彼女が部屋の入口の方を見やると、高校生と思しき制服を着た少女が、にこやかな笑みを浮かべて目の前に立っていた。
青色の瞳と、平均的な日本人のものよりは少し高く、整った鼻。艶やかなブロンドの髪は頭の上で一つに纏められ、首から下げられた鎖の先には、手に余る程に巨大な十字架のネックレスがつけられている。肌の色は、純粋な欧米人よりも少し日本人に近く、おそらくはハーフであろうと藤ヶ崎は推測した。
「こんにちは。あなたが転校生の藤ヶ崎綾乃さん?」
「うん、そうだけど……。あなたは?」
藤ヶ崎が遠慮がちに尋ねると、少女はよくぞ聞いてくれましたというように胸を張り、
「私の名前は琴祓鈴音。今回転校生であるあなたのお世話を任された、案内役よ。わからないことがあったら、まず私に相談してね。間違っても他の人に相談しちゃだめよ。私の楽しみが減っちゃうから」
「は、はあ……わかりました」
少女の放つ雰囲気に気おされて、敬語になってしまう藤ヶ崎。まだ出会ってから一分と経っていないにも関わらず、琴祓の持つ強烈な個性が、今まで彼女が出会ってきたどのタイプの人間ともかけ離れていることを藤ヶ崎は認識した。そして同時に、藤ヶ崎の内面に湧き上がってきた「何かが間違っている」という違和感は、少女が自分と同類であることを如実に示していた。
「さってと。挨拶も済ませたことだし、さっさと出発してもいいかな?」
「うん、大丈夫。学校案内してくれるんだよね。わからないことが多くて苦労をかけるかもしれないけど、今日一日よろしくね!」
そう言って、藤ヶ崎は自分のでき得る最大限の笑顔を、琴祓に向けた。今回の潜入は比較的短時間の予定であることから、馴染みやすい無邪気な性格がより効率がいいことを、藤ヶ崎は経験から知っていた。
その笑みが功を奏したのか、琴祓はとろけるような笑顔になり、
「心配しなくてもいいよ。綾乃は私に甘える事だけ考えてればいいから。あ、それと、出かける前にやることが一つあるんだけど、いいかな?」
「えっと……何かの準備をするってこと? いいよ、何するの?」
「うん、準備っていうか儀式っていうか……。まあ景気づけみたいなものかな。ねえ綾乃、私が部屋に入って来たとき、最初に言った言葉を覚えてる?」
「最初の言葉……? 確かアレクサンドロ・デュマの小説に出てくる、有名な言葉だよね」
「そう、それ。日本語では、〈一人はみんなのために、みんなは一人のために〉って訳されることが多いかな。そのままで捉えると何だか共産主義的な考えに聞こえるけど、ちょっと視点を変えるだけで、とってもすてきな言葉になるんだよ」
「へえ、そうなんだ。どんな風に変えるの?」
「そうね、例えばこの言葉を今の状況に当てはめると、一人っていうのは転校生に無償で手助けする私ね。相手がどんな女の子でも分け隔てなく接するという、すばらしい意味になるわけ。この場合、みんなに当てはまるのは転校生の女の子ね」
「ふーん、なるほどね。でもさ、何で女の子限定なの? 別に男の子でも――」
「何か問題?」
「いや……別に」
「そう、じゃあ続けるわよ」
不自然なくらいに穏やかな笑みを浮かべながら、琴祓は彼女の言葉をきっぱりと切り捨てた。少々不穏な空気が漂ってきた気がしなくもない藤ヶ崎だったが、会話の主導権があちらにある以上、我慢して聞き続けるしか選択肢はなかった。
「さて、この条件で重要になるのは、〈みんなは一人のために〉の解釈よね。普通に考えたら、親切にしてくれた私に対して転校生が何かをしてくれるって意味になると思うんだけど、綾乃はどう思う?」
どう思う、と言われても、明らかに何かを期待しているという意味だろう。何だか面倒くさいことになったな、と思いつつ、藤ヶ崎はあくまで無邪気な少女として答えを返した。
「わ、私にできる事なら……何でもするよ?」
怯えたようにぎこちない言葉を返す藤ヶ崎を見て、琴祓は唇の端をつり上げて可笑しそうに笑った。
「大丈夫、綾乃は何もする必要はないから。だって何かをするのは私だもの。綾乃はただ、そのかわゆい身体でかわゆい事を考えてればいいのよ」
「……?」
藤ヶ崎が言葉の意味を問いかけようと、口を開きかけた瞬間、
「そんなわけで――いっただっきまーす!」
甲高い歓声と共に、藤ヶ崎の視界が黒に染まった。
(――なっ!)
抱きつかれた、とわかるまでに数秒かかった。
あまりに突然な出来事に、藤ヶ崎は無邪気キャラをつくるのも忘れ、
(放せこの女――)
と、叫びかけ、寸でのところで押し留まった。いや、押し留まったというのは正確ではない。声が出なかったのだ。
琴祓自身は決して大柄ではないのだが、こちらは椅子に座っている上に、元来の身長差も頭一つ分くらいはあった。そしてその差は、必然的に藤ヶ崎の頭部が琴祓の胸部に押し付けられていることを意味する。
「あーん、もうかわいい! あなた本当に高校生? なんなのこの超スレンダーボディーは!
の頃の望といい勝負だわ!」
しかし、加害者である当の本人は、そのことにまったく気づいていないようだった。命の危険を感じた藤ヶ崎は、その細い腕に渾身の力を込めて少女の身体を押し返した。
「わわっ! な、なかなかやるわね……。ひゃ! こ、こら、暴れるな! くそ、ま、負けるかあ!」
数分間の死闘の末、ようやく少女を引き離した藤ヶ崎は、息も絶え絶えになりながら急いで椅子から飛び上がり、琴祓から距離をとった。
(まさか、女子の乳房が……凶器になるとは)
長い人生の中でも初めての経験に、彼女の思考はしばしの間停止した。
「あれ、どうしたのそんなに興奮して。なんか顔赤いよ。もしかして恥ずかしがり屋さんかな?
うーん、それにしても高校生にしてはあるまじき小ささだよね。まさか飛び級でもしてるの?」
自身の行為に、まるで悪びれる様子もなくたたずむ琴祓。その顔に浮かぶ満足げな微笑には、冗談では済まないほどの狂気が潜んでいることを、藤ヶ崎は経験から察知した。
(少々の加虐趣味と強い粘着気質。あまりいい組み合わせとは言えないな。いや、そんなことよりも――)
「……さいって言うな」
「え、何?」
「小さいって言うな!」
我ながら子供じみた物言いだと思いつつも、藤ヶ崎は自分の口から飛び出たその言葉を、抑えることが出来なかった。精神年齢だけで言えば七十歳を有に超える藤ヶ崎だったが、その長い年月は逆に、肉体が変化しないというコンプレックスを増大させる要因となっていた。
「あ、ごめん、そんなに気にしてたんだ。あれ、ってことはやっぱり本当に普通の高校生なんだ。ふーん」
半ば牽制の意味も込めて放った叫びだったのだが、琴祓には効果が無いようだった。むしろ少女の瞳に宿る欲望の炎は、一秒ごとに輝きを増している。このままでは第二波が襲ってくるのも時間の問題だろう。
「ねえ、綾乃はこの学校に来る前はどこに住んでたの?」
「……義父の仕事の都合でアメリカにいた。サンゼノっていう大きい街」
「へえー、シリコンバレーか。いいなー、外国。私も六歳の時まではアイルランドに住んでたんだけど、家庭の事情で日本にくることになっちゃったんだよね。ま、といっても小さい頃の記憶なんてほとんど覚えてないんだけど」
そんなとりとめのない会話を交わしながらも、琴祓はいつでも飛びかかれるように体勢を整えながら、すり足でこちらに近づいてきた。おそらく、今すぐに回避行動をとらないと先程の二の舞となるだろう。
「でも、故郷があるだけましだよ。私なんか、今の義父に引き取られる前は孤児院を転々とする生活だったから、自分がどこで生まれたかさえもわからないままだもの」
幸い、両者の間には、膝丈くらいのアクリル製テーブルと、その左右に置かれた四つの大きな椅子があるため、琴祓の動きはどうしても直線的にしかなりえない。藤ヶ崎は襲撃に備え、すぐに動けるように足に力を込めた。
「綾乃も色々と苦労してるんだねえ。でも、これからは寂しい思いをしなくてもいいよ。いつでも私が、慰めてあげるからっ!」
言葉と共に、金髪少女が宙を舞う。それを見て、藤ヶ崎は溜めていた力を一気に開放し、横っ飛びにこれをかわす。
避けられることを想定していなかったのか、琴祓は着地後に二歩三歩とよろめき、寸でのところで踏みとどまった。
「な……なかなか、やるわね」
「ふ、ふん! 同じ攻撃なんて二度と食らわないもんね!」
べー、と舌を出す藤ヶ崎を見て、琴祓の碧眼がさらに輝きを増していく。
「ほほう、この学園の聖母(自称)と噂される琴祓鈴音に喧嘩を売るとは。覚悟はできているのかな?」
(……この女子を攻略せねば、おそらく我が使命は果たせない。しかし逆を言えば、この女子さえ攻略すれば、我が使命は果たせたも同然)
決意を胸に、少女は吠える。
「どこからでもかかってこい!」
高らかな宣戦布告と共に、二人の少女の壮絶な戦いが幕を開けた。