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次回最終話です。
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その週末の夕食後、わたしは三日分の服をまとめると、イーサン先生の車で駅へ向かった。寝台列車で兵庫まで行くのだ。
「綾ちゃん、早く帰ってきてね」
出発前の玄関先の見送りのとき、佳奈が寂しそうに言った。
「うん。三日もすれば帰ってくるよ」
荷物もその分しか用意していないし、学校だって休んでばっかりはダメだろう。
「絶対、絶対だよ」
美貴は今にもしゃくりあげそうだ。
「もう一生、帰ってきて欲しくないんだけどな」
そういうあきらを佳奈は拳骨で叩いた。そんなこと言ってる割には、あきらはちゃんと見送りしてくれている。
「綾が帰って来る前に絵梨の件、片付けとくから、ゆっくりしてなよ」
そらちゃんが耳打ちする。うしろで、真由美ちゃんもニコニコ笑っている。わたしはふと見回した。絵梨はいない。親に会いにいくわたしなんて、見たいくないんだろうけど。
「あっちで迷子になるんじゃねーぞ」
「綾は、そんな間抜けじゃないよ。幸介じゃないんだから」
幸介兄ちゃんもニヤリとした顔を、桂馬くんが冷たく切り捨てた。そんな桂馬くんの脛を幸介兄ちゃんが蹴る。桂馬くんの闘争心に火がついて、二人は地道に脛蹴りを始めた。わたしは、それがおもしろくて笑い声を上げた。
「綾ちゃん」
「綾ねーちゃん」
このみと昌哉が、どこで摘んできたのか、一本のずつ花を差し出した。すっかりしおれている。
「これあげる」
「ばいばい」
まるで永遠の別れのように、切なく言うのでわたしは苦笑いしながらもお礼を告げてその花を受け取った。そして、丁寧にハンドバッグにしまった。
「もう出ないと、乗れませんよ。綾子」
先生が急かす。わたしは車に乗り込もうとしたけど、やっぱり絵梨に会いたかった。
「ちょっと待ってて」
「綾ちゃん?どうしたの」
深沢先生が首を傾げたが、わたしは構わず絵梨たちの部屋へ走った。
ドアを開けると、絵梨が自分のベッドに座って例のヘアゴムを片手でつまらなそうにいじっていた。いきなりわたしが入ってきたから、それを隠す暇もなかったのだ。
「な、なに」
わたしは姿勢を正すと、短く言った。
「いってきます」
「は?ああ」
「いってらっしゃいって言って!」
絵梨は怪訝そうに、尚且つうざったそうに眉をしかめた。
「はあ?」
「いいから!言ってよ」
「……いってらっしゃい」
照れくさそうで、呟くような小さい声。しかし、それを聞いたわたしは満面の笑みで返した。
「いってきます!」
絵梨がわたしの出発を快く思っているのか、確かめたかったのだ。まあ、今のは半分強引だったけど。
「綾、早く」
柊先生がわたしを呼んでいる。わたしは急いで戻り、出発した。皆が見えなくなるまで後ろを向いて手を振り続けた。
駅までの一時間、わたしと先生は一言も会話を交わさなかった。ケンカをしているとかそんなんじゃなく、ただ話すことがないだけ。それに、できるだけ時間が経たないように祈っていた。話していると、時間が速く過ぎてしまいそうで。
駅には、もう列車が着いていた。階段を駆け上がろうとすると、いきなり先生が呼び止めた。
「綾子!」
「ん?」
「三日といわず、好きなだけお母さんといなさい」
「うん」
適当に答えて、二段とびで階段を上り始めた。
「綾子!」
先生がまた、わたしの名前を呼ぶ。
「何?」
乗り遅れたくないので、先生のほうを向いたまま一段ずつ階段を上ることにした。
「あなたは孤児ではないことを忘れないでください。綾子には、家族がいます。真由美もそらも絵梨も美貴も佳奈も鈴香もこのみも幸介も桂馬もあきらも昌哉も。深沢先生も、柊先生もいます」
「先生もね」
わたしがそういうと、先生はうれしそうに目を細めた。でも、なんでわざわざ、今ここでそんなこというのだろうか。
それに、わたしが最後に見た先生の顔は途轍もなく苦しそうで、辛そうで、何より悲しそうだった。
いくらでもいていいって言われたけど、わたしは初めから三日だけと心に決めている。そんなにわたしと離れるのが寂しいのか。なんつって。
ギリギリで列車に入ると、あらかじめ指定されている個室に入り、ベッドの上に座った。全く寝るつもりはなかったので、窓の景色を着くまで眺めることにした。
もしかしたら、わたしのお母さんもこの列車に乗ってウィングまで行ったのかもしれない。
そう考えたら、覚えてるはずもないのに列車の中が懐かしく思えてきた。
若い女の人、いや、そのときはまだ高校生だから女の子が生まれてまだ間もない赤ちゃんを抱えて、悔し涙で頬を濡らしながら目的地へ向かっている。その子の名前は、綾香。赤ちゃんの名前は――綾子。綾香の子。
お母さんに会ったら何を話そう。学校のことが一番だろう。ウィングのことは話さないほうがいいのかも。変にお母さんを責めちゃうかもしれないから。
そして、今度は絵梨のことを考えた。最近名前を呼んでもらった覚えがないから、「言ってらっしゃい、綾」にしたほうがよかったかな。帰ったら、無理矢理でも言ってもらおう。
それからは順番に、ウィングのみんなのことを考えていった。みんな笑顔だった。わたしは、ウィングで育って幸せだな、と改めて感じた。
それが終わると、ただボーっとしてただけだから、時間は経つのが遅く感じられてもどかしかった。遅いほうが良かったけど、暇だといえばかなり暇だった。だから、ようやく着いたときはほっとした。あんな暇な時間が永遠に続くのかと思っていたときだったから。うんざりしていたのだ。
イーサン先生は、駅までお母さんが迎えに来ているといっていた。しかし、今思うとわたしは自分の親の顔なんて全く知らない。でも、あっちはわたしの顔を写真かなんかで見せてもらっているだろうから、見つけてくれるだろう。
とにかく流れに沿って階段を降りようとしたときだった。階下に立っている一人の女の人に目が留まった。ミディアムの栗毛、白くてきれいな肌、大きな瞳。俗に言う、美人だ。
その女の人も気付いたようだった。彼女なりに急いでわたしのところまでやってくると、力いっぱい抱きしめ、泣きじゃくった。
「綾子!……綾子!」
普通なら、ここでわたしも「お母さん!」とか何とかいって抱きしめるんだろうけど、わたしはそんな気にはならなかった。だって、そのとき、わたしはこう思っていた。
――誰?
周囲の人が物珍しそうにわたしたちを見て行く。わたしのTシャツが涙で濡らされていく。でも、わたしはそんなことどうでもよかった。目を見開いたまま、じっと綾香さんを見た。
この人、誰?
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「あら、凛。見てよ」
あの旅から数日たったある日、お母さんが新聞の一ページを開いて見せてくれた。わたしは新聞なんて読まないから、片手をひらひらと振って却下した。
「いい」
「詩で新人賞とった人の作品が載ってるの」
「し?」
わたしは呼んでいたマンガから視線を移した。
「詩って、詩人の詩?」
「あんたの言ってることよくわかんないけど、そうよ」
「書いた人、誰?」
畳に寝転がっていたが、思わず身を起こした。
「ええっとねえ……い、の、み……なんて読むのかしら?」
じれったくなって、わたしはお母さんの手から新聞を引っ手繰った。もしかしたら、美祢さんかもしれない。詩人になりたいという夢、叶ったのではないか。
わたしは左上から、その詩を探した。お母さんに訊いたほうが早かったのかもしれないけど、そんな機転が利くような余裕はなかった。大袈裟だが、目を皿のようにして隅々まで探した。すると、右下の端っこのほうになにやら小さく載っているではないか。
わたしはそれを目から十センチのところに持ってきて読んだ。それは、こういうものだった。
寝台列車 伊野 美祢
闇を切り裂いて進んでいく
その音は 心落ち着く しかし 奇妙だ
不思議な爬行動物は
私と貴女を乗せていく
私と貴女は知りえもしない人
だけど 爬行動物の魔術で
私たちはその中で巡り会い
「知人」になる
他人にはしない 身の上話を語り明かす
魔術は 駅に降りると解け
私たちは
記憶の隅に暮らす住人にしかならない
でも もし乗っていなかったら
私と貴女は
通りすがることもなかったかもしれない
記憶の隅に残るはずもなかった
わたしは独りで悪戯っぽい笑みを浮かべた。