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翌朝、学校に着くと下駄箱のところで蘭とばったり会った。
「あ、おはよう。蘭」
「お、おはよう」
なぜか今日もびくびくしているが、わたしの様子が変であることに気付いたのか、額に白くてしなやかな手を当てた。
「昨日より具合悪そうだよ?大丈夫?」
あまりよく寝れなかったのは事実だ。ずっと母親のこと考えていた。だけど、会う決心はつかなかった。それに、会わないほうがいいかもしれないとだんだん思ってきたりして、そらちゃんと真由美ちゃんを心配させたほどだ。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
「意味わかんないよ」
「それより、蘭は昨日何してたの?」
「何って、昨日言ったじゃない?部活休んだの」
「ふーん。まあ、いいんだけど」
そこへ、寧々がやってきた。
「あ、蘭と綾じゃん。おはよ」
「お、おはよ」
「……おはよ」
いつもより声のトーンが低いわたしを寧々が訝しげに見る。
「なんかあった?」
「そうだよ、誰かとケンカでもしたの?」
意味もなく二人を心配させるわけにもいかないので、まず教室に入るように促してわたしは話すことにした。
わたしの前の女子の席に蘭が座り、隣の男子の席に寧々が座った。
「実は、昨日イーサン先生に自分の母親に会わないかって言われたの」
二人はわたしが児童養護施設に住んでいること、園長のイーサン先生のことも既に知っている。
「ほんと?」
寧々が身を乗り出す。しかし、蘭は居心地悪そうにもじもじしていた。トイレにでも行きたいんだろうか。
「うん。返事はいつでもいいから、決めなさいって」
「そうなんだ。蘭は会いたい?」
寧々の質問にわたしは力なく首を振った。
「それが、わからないの。会ったほうがいいのか、それとも会わないほうがいいのか。昨日、ずっとそのこと考えてた」
「会ったほうがいいよ」
寧々が力強く言ってくれたが、わたしはまだ悩んでいた。そのとき、不意に蘭が頭を下げた。
「ごめん!」
わたしと寧々はびっくりして目を丸くした。
「あんた、何かしたの?」
寧々が唖然として言う。わたしも同じ気持ちだった。
「実は昨日、綾のお母さんだっていう人と会ったの」
「ええ―――!」
わたしと寧々は絶叫した。
クラス中がわたしたちを不審そうに見たから、寧々は声を潜めて聞き出した。
「どういうことなの?」
「綾、黙っててごめん」
蘭はまずわたしに謝ると、話し出した。
「昨日、綾が帰ったあと綾に交換ノート渡し忘れてて。もしかしたら、間に合うかなって思って校門のところまで走ってったんだけどやっぱりいなくて」
わたしたちは三人で交換ノートをしているのだ。
「そういえば、そうだったよね」
そこまでの蘭の話を聞いて、寧々が二度頷いた。
「教室に戻ろうとしたとき、女の人に呼び止められたの」
「それが綾のお母さんってワケか」
「ちょっと、寧々黙ってて」
いちいち口を挟む寧々の腕を軽くたたいた。
「その女の人が、『風野綾子』を知っていますか?って訊いてきたから『知ってます』って言ったの。『あたしの友達です』って」
「見知らぬ人に?そりゃあ、ダメだよ」
わたしは寧々を無言で睨みつけた。寧々は声は出さずに口だけを動かして「ごめん」と済まなそうになった。
「その女の人が『私は綾子の母親です』って言ったからびっくりしちゃって。放課後カフェで話したいって言われたの。そのとき気が動転してて、頭があんまり働かなかったから思わず了解したの。それで部活休んで、その女の人と会ったの。その帰りが昨日綾と会ったときなの」
「そうなんだ?」
寧々がわたしと蘭を交互に見る。わたしは黙って頷いた。
「綾のお母さんっていう人、この辺りに住んでるの?」
寧々が蘭に尋ねた。もう蘭の話は終わっただろうから、わたしは怒ることはなかった。
「ううん。いつもは青森にいるって。二日前ぐらいから、その……風の羽翼園の園長さんと会うためにいたけど、昨日で帰るって言ってたからもういないと思うよ」
「青森って、青森県?遠くない?」
「そうだね。寝台列車で着たみたい」
「それで、綾のお母さんってどんな人?綺麗だった?綾に似てる?」
わたしの頭の中に、またあの幻が浮かび上がった。わたしは蘭をじっと見つめた。
「サングラスに帽子被ってたからわからなかった」
「ずっと?カフェでも?」
「うん。でも、声からして若かったと思うよ。――綾、本当にごめん!」
蘭はまた謝ってくれた。もともと最初から蘭に対して怒ってなかったから、「いいよ」と答えるだけにした。
家に帰ると、まずイーサン先生の部屋に向かった。ドアノブに手を掛けて開けようとしたら、先生が誰かと話しているのに気付いた。
誰だろう?深沢先生?それとも柊先生?でも、深沢先生は洗濯していたし、柊先生は出かけていて靴がなかった。多分、先生の代わりにこのみと昌哉を迎えに行ったんだろう。
それに、相手の声が全く聞こえないことからして電話しているということがわかった。ドアに耳を押し付けて話を盗み聞きしようとしたけど、声が小さくて何言ってるかなんてほとんどわからない。でも、どこか深刻そうだ。もしかして、わたしのお母さん?
受話器を置く音がして、先生が椅子に座り込む気配がした。落胆しているような……?
「先生」
わたしが部屋に入ると、先生は体をビクッとさせた。驚いたようだ。珍しい。
「ああ、綾子ですか。入るときはノックしてください」
昨日もノックせずにはいったんだけど、そのときは何も言わなかったじゃない。わたしが先生の向かい側に腰を下ろすと、先生は眉をひそめて訊いてきた。
「もしかして、今の電話聞いていたのですか?」
「そうしようと思ったけど、聞こえなかったから」
わたしが正直にそういうと、先生は苦笑した。
「はは。盗み聞きはいけませんよ」
そして、優しい眼差しでわたしを見ると、尋ねてきた。
「今日はどうしましたか?」
「わたしの……お母さんのことなんだけど」
「お母さん」と呼ぶことに少々抵抗があったが、他に言葉が見つからなかったのでそういうしかなかった。
「わたしを捨てた理由は、何?」
先生は一瞬目を見開いた。だか、あらかじめ予想していたのか、ゆっくりと頷いて話し出した。
「あなたのお母さんも、ここで育ちました」
「え?捨てられたってこと?」
先生はとても悲しそうだった。
「ええ。そうです。しかし、十歳のときに青森の肉親に引き取られましたが。彼女はわずか十六歳であなたを生みました」
十六で?わたしは今十二だから、お母さんは二十八歳ってことになるのか。蘭が若いって言った意味がようやくわかった。
「まだ高校生の彼女は、あなたをここに預けることにしたのです。一人でここまでやってきました。そして、泣きながら私に差し出しました。とても後悔していました。今も後悔しているのでしょう。『私と同じ思いを自分の子にさせるなんて、最悪だ』と言ってね。そして、ぜひ名前を『綾子』にしてくれと」
「……お母さんの名前はなんだったの?」
「アヤカ、です。あなたの『綾』に香るの『香』。綾香は、『あなたが私の子供であるせめてもの小さな証』と言っていました」
だから、正平兄ちゃんたちがいくら「アヤネ」にして欲しいと言っても断固拒否したのか。
「それで、わたしのお母さんに『会った』んだ?」
先生はわたしの言葉に片眉を上げた。
「知っていたのですか?」
「わたしの友達が会って話をしたって教えてくれたの」
先生は目を伏せた。
「ええ。自分の子供に会いたいと言っていました。綾香は、あなたと一緒に暮らせるほどの充分な収入を得て、やってきたのです。どうですか?会いませんか?」
「先生は、会ったほうがいいと思う?」
「それは、あなたが決めることです」
わたしは、部屋の中をぐるりと見回した。綾香という人は、ここでわたしを先生に預けたんだろうな。ずっと、玄関の前に置かれてたんだと思ってたけど。
「――先生、わたし」
そこで一呼吸置いて、わたしは決心した。
「会うよ」
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バスから降りて足を見慣れた地に着けたとき、わたしは叫びだしそうになった。
帰ってきた!帰ってきたよ!
とはいっても、更にここから一時間あるかなければいけないんだけど。
でも、その瞬間はそんなことはどうでもよくて、両手にお土産の袋を抱えたまま飛び上がった。そして、懐かしの故郷(たった数日しか離れていないのだが)に帰ることができたという安心感に泣きそうになった。
寝台列車から降りたあとは大変だった。
まず、バス停がどこにあるか迷ったし、どこで降りるのかわからなかったし。たまたま通りかかった親切な人がいて教えてくれなければ、今頃わたしはここにいなかったかもしれない。
わたしは、何ともいえない達成感に包まれて、一時間の道のりを突っ走った。