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 わたしは女の人の個室にいさせてもらっていた。お粗末ながら、ベッドに腰を下ろしている。廊下で立ち話しているわけにもいかないから。

本を閉じると、物思いに耽った。

名前、かあ……。

 わたしの名前は、上崎凛という。この本に出てくる「綾子」とは違って、今時な名前だと思う。女の人の名前は何なんだろう。

 そういえばまだ聞いていなかった。わたしは、女の人のほうを向く。彼女は、ノートをぱらぱらと捲っている。書いたことば――もしくは詩――を読み直しているんだろうか。真剣さが伝わってくる。

 わたしの視線に気付いたのか、女の人がこっちを見る。いきなりのことにびっくりして、わたしは思わず目を逸らしてしまった。やってしまって、わたしは自分を叱る。

 何してるのよ。自分からのくせに、逸らすなんて最低じゃない。

 今のことで顔を合わせづらくて、女の人の反対側を向いたまま、黙っていた。

「今更なんだけど、あなたの名前は?」

 まるで、わたしの心の中を読んだかのようだ。もしかしたら、本当に読んでいるのかもしれない。わたしは、女の人を振り返る。少し首を傾げて、微笑んだ。列車がガタン、と揺れる。

「あ、ごめんなさい。まずは、自分から名乗るのが礼儀よね」

 わたしが黙ったままなのが、そのせいだと思ったらしい。礼儀といえば昔から親に「礼儀正しくしなさい」とか「行儀良くしていなさい」とか言われてきた。この列車に乗るときも「ぶつかったら『ごめんなさい』、何か落としたものを拾ってもらったり、何かを尋ねて丁寧に答えてくれたりしたら『ありがとうございます』って言うのよ」って訓戒を言われたのだ。

 女の人は椅子の上に座り直して、真っ直ぐにわたしのほうを向いた。

「伊野、美祢っていうの。改めまして、よろしく」

 そう言って、深々とお辞儀する。わたしもつられて頭を下げた。

「美祢って、すごく可愛い名前ですね」

 これはお世辞でも何でもなくて、心からそう思っていることだ。何というか、とても響きがいい。これも今時の名前だな。

「あなたは?」

「わたしは、上崎凛です」

「りん……って、『鈴』っていう字?」

「いえ。『凛呼』とか『凛然』に使われる『凛』です」

「凛呼って、よくそんな難しい言葉知ってるのね。すごい」

 口調で、嫌味っぽい口だけの褒め言葉でないことがわかるから、とっても嬉しい。クラスメイトで、皮肉なのかいい気分にはならない「すごい」を言われるから、女の人――伊野さんの言葉が染みた。

「自分の字なので、どんな熟語で使われるのか興味をもって、ただ漢和辞典で調べただけなんです。――でも、意味はほとんどわかりませんけどね」

「ううん。そんな言葉知ってることだけでもすごいわ。私なんて『詩人になりたい』なんてぼやいてるくせに、その詩にしっくりする言葉を見つけ出せないんだもの。もっと勉強しとけばよかった、なんて後悔してるのよ。今更しても遅いのにね」

 わたしは勢いよくかぶりを振った。その激しさにびっくりしたのか、美祢さんは少し後退りしたように思えた。

「そんなことありませんよ。だって、まだお若いでしょ?――すみません、おいくつですか?」

 肝心、かどうかはわからないけど、まだ年齢を聞いていなかった。わたしは勝手に二十歳なんて決め付けてたけど、本当のところはわからない。明かりがついている、とはいっても少し薄暗いから、ちょっとの小皺は目立たない。最近は病院で、皺取りとかできるみたいだから、もしかしたら四十歳ということもありえるわけだ。

 どんな数字が飛び出すのかと、身構えていると飛び上がるような答えが耳に入った。

「十九よ」

『十九』という言葉がわたしの耳に入り、感覚神経を伝って脊髄経由で脳へ行き、また脊髄経由で運動神経を伝ってリアクションするまでには通常より長い時間かかった。

「――じゅ…きゅう?……え――」

 思わず叫びそうになったのを美祢さんが人差し指を口の前で立てたので、わたしはなんとか押し留めた。壁で区切られているとはいっても、隣の部屋には乗客がいるのだ。大声を出すと隣の部屋の人の迷惑になる可能性だって充分にあるのだ。

 わたしは、失礼だとわかっていながらも美祢さんをまじまじと見られずにはいられなかった。さっきも言ったけど、化粧で年齢を誤魔化してるわけでもなさそうだ。十九歳に嘘はないようだった。

 美祢さんは、恥ずかしそうに顔を赤らめ(たような感じ)、声を潜めて言った。

「私、高校中退なのよね。あ、別に不良とかヤンキーとかじゃなくてね、ただ、勉強が全然できないってだけで。人一倍勉強しても、二十点取るのがやっとだったの。合計じゃないよ、一つの教科で二十点ってこと」

 声を潜めてる割には、いろいろなこと語ってくれた。人とは変わった人生を自慢してる感じ。でも、そんな悪い意味じゃない。っていうか、各教科二十点ずつで高校受験に受かったことがすごい。わたしでも、三百五十だし。

 返す言葉がなくて黙っていると、美祢さんがやっぱり自慢げに話し出した。

「私、推薦で高校行ったのよ。テストはまるでダメだったけど、提出物はちゃんと出してたし。掃除の時間も、無駄口たたかず一生懸命したし。礼儀正しいし、先生受けも良かったし。そんなわけで、入れたのよね。でも……」

 そこで、美祢さんは言葉を切って、寂しそうに窓の外を見上げた。どこかの山の中を走っているのか、景色は木、木、木で、星が輝いているであろう夜空は邪魔されていて見えない。

「でも、親はね、私のこと大嫌いだったみたい。何でテストでいい点が取れないのか、とか、皆と同じになりなさい、とか言ってばっかりだった。そんな言葉を聞く度に、私は悩んだの。勉強は毎日五時間以上してる。皆と同じって?同じって何だろう、ってね」

 美祢さんは顔をこちらに向けた。笑っているのがわかる。

「ついに堪忍袋の緒が切れちゃって。高校辞めて、今は隣町の優しいお祖母ちゃんの家で暮らしているのよ」

 その声は明るかった。わたしは超能力者でも何でもないから、今の美祢さんの気持ちはわからない。自分を型にはめようとした親から離れられて、好きなことできているからスッキリしてるのかもしれない。もしくは、親の暴言で傷つけられた心を癒せないでいるのかもしれない。

「――まだ十九歳なのに、大変ですね」

 わたしは当たり障りのない言葉を返した。何だか、とても辛かった。胸が締め付けられて、息をするのが苦しくて、涙が出てきそうだった。

「どうしたの?」

 美祢さんが覗き込むようにわたしを見る。わたしは、気を遣わせまいと大きくかぶりを振ったが、泣いているのがばれてしまった。

「凛ちゃん……?」

「……酷いです。美祢さんは、一生懸命頑張ってたのに。何にもわかってない大人のせいで、辛い思いをすることになるなんて――」

 必死で嗚咽をこらえていると、美祢さんの温かい手が伸びてきて、わたしの頭の上に置かれた。そして、まるで五歳児にするような手付きでわたしの頭を撫で繰り回した。ミディアムの髪があっという間にボサボサになった。

 驚いて顔を上げると、美祢さんはニカッと笑ってみせた。

「凛ちゃんは、偉い子だね。他人のことなのに、泣いてくれるなんてすごい優しいね。私も見習わないと」

 嬉しそうな声だった。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 翌日の月曜日。今日の朝食当番はわたしだった。

 ウィングでは食事を作る係りも決まっているのだ。でも、たった一人で作るわけじゃない。イーサン先生を除く二人の先生の手伝いをするだけだ。

 音を小さめにセットした目覚まし時計のスイッチを切ると、みんなを起こさないように静かに着替えて、ゆっくりと部屋を出た。

 少々起きるのが早かったのか、キッチンにはまだ誰もいなかった。ぼーっと突っ立てるわけにもいかないから、まず戸棚から人数分のお皿を出してテーブルに並べた。続いて、コップも並べてるところに、絵梨がパジャマ姿でやってきた。

「あ、絵梨。おはよう。早いね」

 聞こえなかったのか、絵梨はこっちを見向きもせずに、近くにあった椅子を引き寄せて座った。手に持っていたタバコの箱から一本取り出し、どこにでも売っていそうな安いライターで火を点けた。

 吸い慣れているので、様になっていることはなっている。

 しかし、絵梨はわたしと同い年。まだ、タバコを吸っていい年には達していない。絵梨が法律違反をしているのと知っているのに、イーサン先生は何も言わないのだ。前に一度、絵梨以外の皆を集めて「タバコを吸うな、などとは言わないように」と注意しただけだった。それどころか、未成年の絵梨の為にタバコを買ってきてあげてるほどだ。もし絵梨が捕まったら、先生も共犯扱いになるんじゃないだろうか。

 綺麗な灰皿に吸っていたタバコの火を押し付けて消すと、また新しいタバコを取り出して火を点けた。

 わたしは、煙に顔をしかめながら絵梨に近づいて灰皿を持ち上げた。それに、絵梨は迷惑そうにわたしを見上げる。

「タバコを吸うときは、外で吸いなさいって先生に言われてるでしょ」

 そう言いながら、灰皿を玄関のほうへ向けた。

「わかったよ……」

 乱暴にわたしから灰皿を取り上げると、クロックスを突っかけて外に出て行った。

 ウィングで育った子は、朗らかな性格の子がほとんどだ。絵梨も生まれて間もない頃からここにいるって聞いたけど、その割には無愛想。目つきも悪い。

 その絵梨と入れ替わるように入ってきたのは、深沢先生だ。本当の年齢はわからないけど、四十歳ぐらいの陽気な女の先生だ。

「あら、綾子ちゃん。早いのね。感心だわ」

「それ程のことでもないです」

 深沢先生のお世辞を軽く受け流す。先生は、鼻歌を歌いながら冷蔵庫から卵を一パック取り出した。

「今日は目玉焼きを作るわよ」

「あ、はい」

 わたしは、更にもう一パック出した。人数分作るには、十個入りのパック一つじゃ足りない。

 フライパンをあっためて、油を引いている先生の隣に立って、わたしは声を顰めて訊いた。

「何で、イーサン先生は絵梨のこと、怒らないんですか?」

「んー何でだろうね」

 はぐらかしてるわけでもなく、深沢先生は本当にわからないらしい。

「人は人、自分は自分って事かな。個性を大事に、ってね」

「個性って……」

 平和な発言をする深沢先生にわたしは呆れ返った。

「でも、触法行為だしね。これは推測だけど。園長先生は、絵梨ちゃんに気付いて欲しいんじゃない?それはいけないことだって」

「そうですかね?」

 今一ピンと来ないわたしは首を傾げた。深沢先生は、どんどん卵を割っていく。

 誰かがウィングに入ってくる物音がして、絵梨がテーブルの上に灰皿を置きにやってきた。

「あら、絵梨ちゃん。おはよう」

 深沢先生の挨拶に、絵梨はちらっと見ただけで、すぐ部屋に戻ろうと出て行こうとしていた。わたしはそこで呼び止めた。今度は無視されなかった。かったるそうに振り返る。

「一緒に学校行かない?絵梨は今日日直じゃないでしょ?」

 絵梨は、吊り上りの目を細めた。

「嫌。あんたとと姉妹だと勘違いされかねない」

 そう言うと、わたしの返事も待たずに踵を返して行ってしまった。

 鈴香や桂馬くんは名字がわかるけど、わたしたちみたいに捨てられて名前がわからない子は、名字が「風野」と共通なのだ。風の羽翼園から取っている。風野綾子、風野佳奈、風野あきら、風野幸介ってなるのだが、絵梨はわたしと同じ名字なのが嫌らしい。せっかく同い年なのに。

 深いため息をつくと、朝食の手伝いに取り掛かった。

「照れ屋さんなのかしらね。そういうところが可愛いわね」

「照れ屋…とはちょっと違うと思いますけど。まあ、可愛いって言えば、そうですね」

 目つきは悪いけど、普通にしてたら絵梨は結構イケる。細いし、色白だし、目も二重だし、鼻は小さくて形も整ってるし、唇も薄いし。

「綾子ちゃん、拗ねないでね。綾子ちゃんも充分可愛いから」

「拗ねてないです!」

 からかわれて、わたしは深沢先生を見上げ軽く睨んだ。それでも、深沢先生は懲りた様子は見せず、おもしろそうに眺めている。いつもニコニコしてるのが、先生のいいところなんだけど。

「焼けた、焼けた!今日もおいしそうね」

 深沢先生が幸せそうにフライパンを眺めていると、真由美ちゃんとそらちゃんが顔を出した。

「おはよう、先生と綾」

 相変わらずクールにそらちゃんがわたしと深沢先生に挨拶する。

「おはようございます、センセ。おはよう、綾ちゃん」

 そらちゃんとは正反対の性格の真由美ちゃんがにっこりとわたしたちに笑いかける。真由美ちゃんは女の子の中では一番年上なのに、幼く見える。絵梨とは違う『可愛い』のだ。こうやって二人が並んでると、そらちゃんがお姉ちゃんで真由美ちゃんが妹に見える。でも、ウィングいる歴は真由美ちゃんのほうがずっと長い。真由美ちゃんは生まれてまもなくここに預けられたけど、そらちゃんは五歳のときに来たのだ。どちらも詳しい理由は知らないけど。

「おはよう。そらちゃん、真由美ちゃん」

 わたしは二人に軽く頭を下げる。

「おはよう、真由美ちゃん、そらちゃん。今日は、女子組が早起きの日かしら?」

 すると、そらちゃんが恨めしそうに後ろを見た。

「絵梨の奴、起きるなり、時計を地面に叩きつけたんだよ。何怒ってんだか」

 どうやら、そらちゃんは絵梨のせいで目が覚めてしまったらしい。

「あたしは、今日早めに行くつもりだったから良かったけど」

「日直なの?」

 わたしが首を傾げると、真由美ちゃんは快く答えてくれた。

「ううん。自習室で勉強するんだ。綾ちゃんも高校生になると、そんな機会ができるんじゃない?」

 高校には自習室という部屋があって、生徒は好きに使っていいらしい。朝早く登校して、そこにこもる生徒は少なくないんだと、真由美ちゃんは教えてくれた。

 しばらく、三人で談笑に浸っていると、佳奈たちの部屋から泣き声が聞こえた。

「この声、鈴香じゃないかな?」

 不安そうに真由美ちゃんが言う。

「ちょっと、わたし見てくる」

 わたしは、急いで佳奈の部屋へと向かった。わたしたちの部屋の隣にある。

 ノックなしでドアを開けると、パジャマ姿の佳奈、美貴、このみの三人。その三人は誰かを取り囲むように、立っていたり、しゃがみ込んでいたりしていた。

「どうしたの?」

 佳奈、美貴、このみは一斉に振り向いた。みんな、戸惑っているようだった。泣きじゃくっている鈴香を、佳奈が必死で慰めている。

「綾ちゃん……」

 わたしはてっきり、佳奈たちが鈴香にちょっかいを出して泣かしたんだと思ってたけど、違っていた。

「飛び起きるなり、急に泣き始めたの。悪い夢でも見たみたい……」

 佳奈の代わりに美貴が説明する。

 わたしは、鈴香の頭を撫でている佳奈をどけて、鈴香に直接理由を訊いた。

「鈴香、どうしたの?何か、怖い夢でも見たの?」

 鈴香はしゃくりあげながら頷く。

「お化けが出てきたんだね?大丈夫、ここにはお化けなんていないよ。もう、大丈夫」

 鈴香を抱きしめて背中をさすったが、鈴香は頭を大きく振った。

「……違う」

「え?」

「ママが……」

 急に、鈴香がわたしの服にしがみついた。

「ママが死んじゃう夢を見たの!ママが死んじゃう!死んじゃうの!」

 そう言って、一層大声を張り上げた。

 わたしは、鈴香の肩を更に強く抱いた。顔を鈴香の耳元に持っていき、ゆっくり、何度も繰り返した。

「大丈夫。ママは死なないよ。絶対死なない」

 鈴香のお母さんがどんな人か、どんな病気にかかっているのかなんて知らない。その病気がどんな状態なのかも知らない。もしかしたら、今、鈴香のお母さんは生死を彷徨っている最中なのかもしれない。だから、無責任にそんなことを言っちゃいけないのかもしれない。だけど、それ以外になんて言ったらいいかなんて、わからない。わからなかった。

「安心して。もうすぐ我慢すれば、きっとママは良くなる。また一緒に暮らせるようになるよ」

 嘘になるかもしれないことを、わたしは言い続けた。

 鈴香をようやく宥めると、わたしは自分の部屋へ入った。立ったまま、ドアに寄りかかる。

 わたしは母親と暮らした記憶がないから――暮らしたことがないかもしれないけど――鈴香の気持ちを全て理解していると言えば嘘になる。正直、ほとんど理解はしていない。だけど、鈴香は毎日、不安で堪らないんだろう。形にできないものを背負っている。それは、お母さんの病気が治ったと知るまで降ろすことはできないんだろう。

 ふと顔を上げると、絵梨がいたのに気付いた。佳奈たちの部屋際の壁のベッド――絵梨のベッドだ――に壁に凭れかかって座っている。

 この家は防音設備はなってないから、隣の部屋の出来事は絵梨も承知済みだろう。

 わたしは、ダメ元で訊いてみた。

「絵梨は、病気で入院してる家族が死ぬ夢を見たら、どんな気持ちになる?」

 やはり、絵梨は何も答えない。

 朝ごはんを食べに、に部屋を出ようとする。もたもたしてると遅刻してしまう。

「………夢で、残念だって思う」

 わたしは絵梨を振り返る。

「どういうこと?」

 夢で残念、って現実のほうがよかったってこと?

「そのまんまだよ」

「絵梨は……家族が嫌いなの?」

 だから、そんな酷いこと言えるの?

 しかし絵梨は、それ以上は何も言わなかった。

 わたしは食堂へ向かいながら、考えた。

 絵梨も、親に捨てられたのかもしれない。その親を憎く思うのは当たり前なのかもしれない。でもわたしは、死んで欲しいと怨む前に、一度問いただしたい。

 どうして、わたしを捨てたのか。それに値する理由がちゃんとあるのか。

 わたしは、ふと足を止めた。

 もし、そんな理由がなかったとしたら?ただ、わたしが、わたしが――。

「綾子?」

 ゆっくりと顔を上げる。そこにいたのは、わたしを憎々しげに見つめる女の人。ボサボサの長い黒髪。目の下のくまと深い皺。頬は痩せこけている。笑っているのか、口を気味悪いぐらいに歪めている。その口がぞっとするような動きで喋りだした。

『お前なんて要らない』

「綾子?」

 肩を叩かれて振り返ると、イーサン先生がいた。

「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」

 幻、か。疲れているのか、寝たりないんだろうか。

「何でもない、気にしないで先生」

 わたしは笑顔で答え、歩き出した。

「それならいいんですが……」

 先生も、食堂へ向かう途中だったのか、わたしの後をついてくる。

「本当に、何でもないから」

 また振り返って言う。

 だけど、心の中のわたしは全く違うことを言っていた。


『ねえ、先生、わたしの親と会ったことある?』


「何か悩みがあるなら、遠慮なく相談してくださいね」

「はい、ありがとうございます」


『わたしを捨てた理由は何?』


『理由は何なの?』



 わたしが、わたしが、要らないから?

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

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