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ふと、顔を上げた。窓の外は夜だったが、街の明かりのせいで明るく感じられた。しかし、朝日が昇るのは、まだまだなような気がした。
再び、手元に開かれた本のページへと目を移す。
この本はこの寝台列車に乗る前、村で唯一の本屋で買ってきたものだ。文庫本だが薄めで、本嫌いのわたしには暇潰しに最適だと思っている。それにこの本の題名も「寝台列車」だからわたしの一人旅にはぴったりだ。
わたしはもうすぐ高校一年生になる。村に近い、学力はあまり高くない高校。わたしの村はドラマやアニメででてきそうな超がつく田舎だ。回りは田んぼ、田んぼ、山。木造の一戸建てがぽつぽつとあるだけ。
今日は、都心の有名なテーマパークへ行こうと寝台列車に乗ったのだ。忙しい高校生になる前に一度は行っておきたいと思ったから。生まれてこの方、遊園地にも行ったことがないなんて恥ずかしくて言えない。親に文句を言って、一人で行くという条件の下、わたしはそれを許された。初めは飛び上がるほど喜んだけど、わたしの村と都心はかなりの距離がある。だから、こんな夜通しで行かなきゃならない。飛行機で行ってもいいかなとは思ったけど、空港までがこれまた時間がかかるから、仕方なくこうやって揺られているのだ。でもまあ、列車のほうが厳しそうな持ち物検査とかないから楽といえば楽なのかも知れない。友達に飛行機に乗ったことがある子がいて、荷物が変な機械に通されたとか、自分も変な門を潜ったとか何とか愚痴っていた。空き巣とかそういうのがない田舎では、警備が厳重な世界は不慣れだからおかしく感じるのかもしれない。
ずっと俯いていたせいか、首の辺りが痛くなってきた。体育の初めにする体操の「首回し」を二、三回する。
気分転換に本を持ったまま個室から出ると、女の人も窓際に立っていた。わたしは、少し間を空けて流れ行く景色を眺める。視線を感じて隣をちらっと向くと、女の人がじぃっとこちらを見ているではないか。しかし、目が合ってすぐ逸らされてしまった。大学ノートのようなものに何かを必死に書き留めている。通路の光で明るかったが、俯いていたので女の人顔はよく見えない。多分、大人。二十歳ぐらいだと思う。背もそこそこ高い。いや、わたしよりは確実に高いから、そこそこ、なんていうのは失礼だ。肌つやもありそうで、わたしよりは年上だけど若くて、ショートカットの髪の女の人。
「こんにちは」
そう呼びかけてみた。言ったあとで「しまった」と思った。今は夜だ。「こんばんは」ではないか。
女の人は答えず、ちらっとこっちを見て、また何かを書き始めた。
「こんばんは。眠れないんですか?一緒ですね」
今度はちゃんと言えた。しかし、英語では「こんにちは」っていう意味の「hello」という言葉と「good afternoon」という言葉がある。わたしが言った「こんにちは」は昼夜兼用のほうの「hello」ではないのか。それじゃあ、言い直す必要も「しまった」なんて思う必要もなかったのかもしれない。
しばらく間があって、女の人はゆっくりと顔をこっちに向けた。そういえば、この時代不審者が多いから、知らない人に声を掛けられると普通は警戒する。この場合、無視するのが妥当なのだ。でもまあ、無視されたからといって怒るつもりもなかったけど。
「ちょっと今、いいことばが思い浮かんだものですから、忘れないうちにメモしておこうと……」
予想通り、若そうな人の声だった。声で年を決めるなんておかしいんだけど。それに、意外と細くて高い声だった。
「いいことば?もしかして物書きさんなんですか」
すると、女の人は気まずそうに首を左右に振った。
「目指しているんです、詩人を。いつかはなりたいと思っているのですが、一筋縄ではいかなくて」
わたしの都会の二十歳ぐらいの女の人のイメージは、化粧が濃くて、髪は茶髪か金髪で巻いてあって、肌の露出が高い服を着ていて、いわゆるチャラチャラしてる感じだけど、この女の人は違った。詩人になりたいなんて、昔の人みたいな人いるんだと感心してしまった。こちらに向けられた顔をまじまじとみると、メイクもほとんどしていようだ。ほとんど、というか、全く。
返す言葉が見つからなくて黙っていると、女の人は、がくっ、と項垂れた。
「やっぱり……変ですよね。詩人なんて今時変ですよね」
わたしは手にしていた本を放り出して、慌てて顔の前で両手を振った。
「そそそそそそんなことありませんよ。カッコいいです、すごく」
しかし、女の人はそのままで更に声のトーンを落として言った。
「でも、私には詩人なんてなれないに決まってる」
あまりこういう展開には出くわしたことないから、なんて言えばいいのかわからない。変な言葉を言って、相手を傷つけるようなことしたくないし。マンガとかならこんな場面があるんだろうけど、最近は読んでないから。――どうしよう。
わたしがあたふたしていると、女の人は寂しそうに笑った。
「ごめんなさい。気になさらないで。いきなりこんなこと言っちゃってごめんね」
ノートを閉じて、窓の外を眺める。
「いいことは言えないけど、着飾ったことよりはいいと思うので」
そう前置きして、私は続けた。
「努力すれば、絶対詩人になれますから。売れっ子になって、おいしいものとかいっぱい食べれると思うので。大切なのは、今です。今諦めてしまうと、一生詩人にはなれません。だから、頑張ってください」
女の人は、初めぽかんとしていたが、明るい笑い声を上げた。さっきの笑いとは全く別のものでわたしは少し安心した。
「あなた、まだ高校生ぐらいでしょう?」
「はい。もうすぐ高校一年生になります」
「それなのに、何も根拠もないこと言い切れるなんて、素晴らしいわね」
褒められているのか、そうじゃないのかわからなくて、わたしは「はは……」というような愛想笑いを浮かべるしかない。
「あ、ごめんなさい。これでも褒めてるつもりなのよ」
わたしの心を読んだかのように、女の人が笑顔で言った。
「あなたはこれからどこに行くの?」
女の人は三十秒程度笑い続けて、納まるとそう訊いてきた。
「ちょっと、都内のテーマパークのほうへ」
すると、女の人は驚いたのか目を丸くした。そうりゃあそうだ。高校生がたった一人で、しかも寝台列車で都心に向かっているんだから。
「お家の人は?」
女の人の声に心配の色が混ざる。だけど、わたしにとったらこんなこと心配でも不安でも何でもない。
「田んぼと畑のことがあるので、家を離れられないんです」
「ご兄弟は?」
「歳の離れた兄が一人いますが、今は地方中枢都市のほうへ仕事しに行ってるんです」
本当は家を継ぐはずだったのだが、気が変わったとかで父親と大ゲンカして、二年前家を出ていったのだ。だけど、成人してるし、ちゃんと職にも就いてるから心配はいらない。
出ていって最初の頃は、よくストラップとか有名なお菓子を送ってくれたりしたけど、今は手紙すら来ない。忙しいのかな。それはそれで、いいんだけど。
「田んぼと畑ねえ……」
妙にしんみりと女の人が呟いた。
田舎者だなあって思ってるんだろうな。お兄ちゃんが出てったせいで、わたしが家を継ぐことになった。その為、農業のいろはをいろいろ教え込まれている。田舎さが増しているに違いない。毎日お風呂に入っても、土の臭いとか漂っていそうだ。
「あなたは、どこへ行くんですか?」
「行く、というより帰る、のほうが正しいかな」
「都内にお住まいになってるんですか?」
田舎者にとっては、都心は夢の世界だ。大きなデパートがいくつも並んでいて、大好きな芸能人に会えるかもしれないし、おいしいものだってたくさんある。でも、何といってもオシャレなこと。ブランド物の服とか一度でいいから着てみたいものだ。いつもは地味なTシャツにごく普通なジーパンだから。
「ええ。ちょっと今まで詩を書くために地方の静かな町へ行ってきたの。でも、やっぱり都会が私には合ってるなあ」
その言葉にわたしの心は複雑な気分に覆われた。何十年も――この人の場合はおそらく生まれたときから――ずっと暮らしているのなら、田舎の生活はきっと不便でつまらないことばかりだろう。十五年住んできたわたしでも、時々嫌になるときがある。けれど、田舎だってダメなことばかりじゃない。大都会は星が見えないって聞いたことがあるけど、わたしの住む村は無数の星が夜空にキラキラと輝いている。マンションの十階から見える夜景は、きっと綺麗なんだろうけど、それは人工の光。電気だ。だけど、五月の下旬の四時頃、田んぼのあぜ道を走ると日光が水面に反射してキラキラする。太陽の光。自然のものだ。
「どうしたの?」
黙っているのを不思議に思ったのか、わたしの顔を覗き込むようにして訊いてきた。けれど、わたしは顔を上げずに絞り出すような声で言った。
「星……は」
「え?」
「星は見ましたか?」
「星?私が行った町で見たかって訊いてるの?」
やっぱり俯いたまま、わたしは頷いた。
「ううん」
わたしは顔を上げて、女の人を見た。前髪が明かりの影になっていて表情がよく読み取れないが、別にそんなことどうでもいい、とか、見なくて何が悪いの、とかそういうような言葉が今にも口から出てきそうな微笑を浮かべている。
「だって、都会では星見えないんじゃないんですか」
「見えないけど、全く見えないわけじゃないわ。少しぐらい見える」
わたしは思わず身を乗り出して、女の人に迫った。
「田舎なら、少しじゃなくて、たくさん見えます。数え切れないくらい、たくさん」
女の人が訝しげにわたしを見る。
冷静さを取り戻したわたしは、みっともないことをしてしまったと後悔した。俯いて、さっきの格好に戻る。
「あのね、私は夜空の観察とかそんなんじゃなくて、詩を書くため、いいことばが浮かぶように静かな町に行ったの」
優しい口調だったが、苛立ちがなんとなく感じ取れた。
この女の人の「静かな町」とは田舎のことなのに、「田舎」とは口にしない。それはわたしが田舎者だってわかったから。わたしのことを気遣ってくれたのに、変なことをしてしまった。何を熱くなってるんだろう。わたしは村の恥だ。最低。
でも、やっぱり田舎のことを馬鹿にされたような気分が消えなくて、わたしは引き気味に言った。
「田舎の……静かな町の星空は都会のよりきっと、何倍も綺麗です。それを見たほうがいいことば、見つかると思うから」
何て失礼なんだろう。これじゃあ、あなたはいい詩が書けないと言っていることと同じではないか。
さすがの女の人も怒るだろう。しかし、返ってきたのは意外な台詞だった。
「そうね。そうかもしれないわね」
感情を押し隠している雰囲気はない。心の底からの文章だった。
「星、見ておけばよかったわ。あなたの言うとおり、きっと美しいんでしょうね。あーあ、今から後悔しても遅いけど、見たかったなあ。満天の星」
女の人は、笑みをたたえながらも悔しそうな顔をして見せた。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
――ぱぁん…。
それは、とても乾いていて、狭い部屋の中では心地よいくらいに響いて、でも、どこか酷な感じで、だけれども、何か不思議なものを含んでいる音だった。
横を向かされた顔を正面に戻して、わたしは改めて先生の顔を見た。
週一のペースで手入れして整えられているわたしの眉とは違って、先生の眉毛は好き放題に伸びている(先生が大人の男だという理由もあるけど)。それが頭のてっぺんにある旋毛に向かって吊り上げられていた。目もそれに伴って、普段はタレ目がちなのに、今は傾いた逆三角形だ。そんな顔の左側には、ごつごつした皺だらけの手が広げられている。
平手打ちされたということ事体は、別に絶望感みたいなものは沸いてこなかった。むしろ、ぶたれたという優越感が見え隠れしていた。
何たって、叩かれたのは初めてだったから。
現在、わたしが暮らしているのは別名ウィング、正式名称は風の羽翼園という小さな児童養護施設だ。親に捨てられた子供のための家。先生――イーサン・ケイン――は園長として、他の二人の先生と一緒に十数人の面倒を見ている。
「ごめんなさい」
わたしは先生の顔を見ながら、謝った。先生は右手をそっと下ろす。そのときに先生独特の匂いが香った。泥と水と、何かの燃えかすと埃の臭い。庭と畑の手入れ、洗濯と食器洗い、料理、掃除を毎日欠かさずしていることを証明するものだ。
眉同様、ボサボサの髭が少し動く。
「心配したのですよ」
英語訛りの口調。先生は三十歳のときにカ
ナダから渡ってきたのだ。今は多分、六十代
後半だろう。
いつの間にか、眉と目が悲しげに下がっていた。
「ごめんなさい」
私はもう一度謝った。
しかし、そこでわたしは、二回も謝らなければいけないほど重い罪を犯したのか、と疑問に思った。
確かに、先生に黙ってクラスの友達とゲーセンとカラオケに行った。ゲーセンもカラオケも校則違反だ。門限の六時を過ぎて「遅くなる」というような連絡もせず、帰ってきたのは七時前だった。ただ、それだけのことだ。
しかし、口答えさせないような空気が張り詰めていたため、わたしはただじっと先生を見つめてるしかなかった。
「ごめ――」
三回目の「ごめんなさい」を言おうとしたとき、部屋のドアが叩かれた。
「園長?いいですか」
ウィングの先生の一人だ。
「ええ。いいですよ。綾子、食堂へ行きなさい。みんなが待ってますよ」
扉のほうへ呼びかけた次に、わたしを見下ろして先生は言った。
「はい」
部屋を出ると、佳奈が心配そうな顔をして立っていた。
「どうしたの?帰ってくるなり、先生の部屋に連れて行かれたからびっくりしたよ?」
わたしの二つ下で小学五年生の佳奈は可愛い声で言って、わたしを見上げた。
先生の部屋というのは園長室のこと。とはいっても、書類とかを書いたりする小さな机と小さな本棚と接客用の小さなテーブルと小さなソファがあるだけの小さな部屋だ。
「何でもない」
笑顔を作って見せたが、それでも佳奈は不安そうだった。
「そういう割には、左頬、赤いけどな」
そんな声が聞こえて、佳奈の一つ年下の、あきらが顔を出した。見下すような、ムカつく笑みを浮かべている。
「ほんとだ。大丈夫?」
佳奈がわたしの顔にそっと手を添える。佳奈の手は冷たくて、少し熱を持っていた叩かれた頬がひんやりして気持ちよかった。
「立ち聞きしてたんでしょ」
わたしは、あきらをじとっと睨んだ。すると、少し怯んだような表情になって、焦ったように吐き捨てた。
「ちげーよ、バーカ」
大きく足音を立てて、あきらが走っていく。
「あ、そうだ。正平くん、来てるよ。今、先生のお手伝いしてる」
「ほんと?早く行かなきゃ」
わたしは佳奈の手を曳いて、食堂へと駆けた。とはいっても、園長室の前の廊下の角を曲がるとすぐそこにある。でも、あきらみたいに大きな足音は立てずに、猫みたいに軽やかに走った。
正平くん、というのはウィングのかつての園児だ。近くに家を持っている。社会人になって、結婚した今でも時々先生たちの手伝いをしに来てくれている。
「正平兄ちゃん!」
食堂に入るなり、わたしは叫んだ。
正平兄ちゃんは、とっても似合わないオレンジ色のエプロンを身に着けて、お椀を載せたお盆を持っていた。
「おー、アヤネじゃねーか」
わたしを見ると、正平兄ちゃんは朗らかに笑った。
「久しぶりだね」
「そうか?三ヶ月前、この前あったばっかだと思うけど。あ、お前に渡したいものがあるんだ」
そう言うと、正平兄ちゃんはお盆ごとテーブルの上に置いて、部屋の隅にある紙袋をわたしに渡した。
「これ、何?」
「うちの嫁さんの一人目のお姉さんの、子供さんのお古」
紙袋の中には、まだ新品といえそうなTシャツとショーパンと、ワンピースが入っていた。わたし好みのデザインで、さっそく広げてサイズが合ってるか確かめてみる。
「ピッタリだろ?」
「うん。いいの?貰って」
「いいよ。ほとんど着てないってお義姉さん言ってたし、俺らにはまだ子供いないし」
「つくればいいじゃん」
意地悪そうな声でそう言ったのは、あきらだ。
「ガキは黙れ」
横目で睨みながらも、その姿は楽しそうだった。
「おや、賑やかですね」
イーサン先生がもう一人の先生と一緒にやってきた。その顔は、さっきと全く違って嬉しそうに目を細めていた。
「お久しぶりです、園長」
正平兄ちゃんが先生に向き直って、軽く頭を下げた。
「また来てくれたんですか。忙しいのに、いいんですか?」
「全然、忙しくねえんだよな。仕事、どーせクビになったんだろ?」
あきらが口を挟む。正平兄ちゃんは、笑顔のまま振り返ってあきらを見ると、手を上げて逃げるあきらを追いかける。
「こらこら。冷めないうちに頂かないと、食べ物のお化けが怒りますよ」
そう言って、先生は長細いテーブルの椅子に座った。わたしと佳奈も座る。
「正平兄ちゃんもあきらも座りなよ。わたし、お腹空いたし」
わたしがそう言うと、正平兄ちゃんはまだ逃げようとするあきらをそのままでわたしの隣の席に座った。拗ねたあきらはわたしたちから二、三個椅子をとばして座る。他の子供たちも席に着く。たちまち、テーブルの周りが窮屈になる。
「さあ、頂きましょう」
先生のその言葉を合図に、みんなは口々に「いただきまーす」などと言い、食事にありつく。ただあきらだけは黙って食べようとしたから、先生の一人に「こら」注意されて、ますます不機嫌になっていた。
「ねえ、何で正平くんは綾子ちゃんのこと『アヤネ』って呼ぶの?」
野菜スープを飲んでいると、小学二年生の鈴香が訊いてきた。
鈴香は、二ヶ月前ウィングにやってきた子だ。両親が離婚して、母親のほうに引き取られたけれど、その母親が病気になって入院することになった。しかし、面倒を見てくれるような身内がいないから、仕方なく施設に預けられることになったのだ。鈴香は、きっと辛くて悲しくて寂しいんだろうけど、そんなことは微塵も感じさせない。まだ小さいんだから、甘えてもいいのに。でも、病気が治ったらまた親の元に帰れるから、まだいいのかもしれない。わたしなんて、親がどこにいるのか、生きているのかさえわからないんだから。
「それはだな……」
話し出す前に正平兄ちゃんが、ちらっとわたしのほうを見る。わたしのことを気にかけてくれているのだ。わたしは、それにただきょとんと笑ってみせる。
「名前がないと不便だろ?だから、みんなで考えてたんだ。俺は『アヤネ』がいいって言ったんだ。他の奴らも賛成したんだけど、園長先生がなあ――」
「園長先生が?なになに?」
「『綾子』がいいと、言い張ったんですよ」
先生が正平兄ちゃんの言葉を引き継いで言った。
「へえ。どうして?」
鈴香は、今度は先生のほうを向いた。
「大きな理由はありませんよ。ただ」
「ただ?」
鈴香の目が興味新進に輝く。
「なんとなく、です」
その答えに、鈴香はがっかりとした顔になり、先生から顔を逸らした。目の前のエビピラフをスプーンで掬って口に運ぶ。
「綾子も、『アヤネ』が良かったですか?」
先生が笑顔で尋ねてくる。わたしは、口に含んだニンジンを飲み込むと、先生に負けないくらい笑い顔を作った。
「ううん、先生が一生懸命つけてくれた名前なら何でもいいよ」
「じゃあ、ブス子でもいいのか。ブス子ーブス子ー!」
茶化すあきらを正平兄ちゃんが小突く。
本当のところは、『アヤネ』がよかった。彩るの『彩』に音楽の『音』。今時の名前っぽいし、可愛い感じがする。でも、普段は自分の意見は表に出さないような先生が、そのときだけやけに意地になったらしい。きっと、先生には何か訳があるのだろう。『綾子』じゃいけない理由が。
なおも「ブス子」と言い続けるあきらを無視して、わたしは夕飯を食べ終わった。佳奈もわたしに追いつこうと、白米を口に流し込む。
「綾ちゃん、宿題で教えて欲しいところがあるんだけど」
一人で手を合わせて「ごちそうさま」をして立ち上がろうとすると、ちょうどコップの麦茶を飲み干した佳奈が頼んできた。
「さっき、俺が教えてやったら、『意味わかんない』とか言って放り出したんだよ」
正平兄ちゃんが、ポリポリと頭を掻く。
「正平兄ちゃん、頭悪いもんね」
これは意地悪でも何でもなく、ただの事実だ。
「正平くん、あたしより頭悪いもん」
佳奈も続く。
正平兄ちゃんは、十歳の子にバカにされ落ち込んだのか、自分の周りに暗い雰囲気を出しながら、深くため息をついた。いつもはするのに、今は反論も、言い返すことも何もしない。
「こらこら。人を傷つけるようなことは言ってはいけませんよ」
そう言う先生も、笑いを押し殺している顔だ。正平兄ちゃんは大学を三年も留年して、
勉強のことにはとやかく言わない先生も、顔を真っ赤にして怒ったのだ。さすがにその年は、卒業できたんだけど。多分、先生はそのときのことを思い出して、笑っているのだろう。必死でそれを隠そうとしてたけど、たった今ついに我慢できなくなったのか、「ははは」と小さく声を出だしてしまった。
「いいよ。宿題持って、わたしの部屋においで」
ここウィングでは、四人で一部屋となっている。わたしの部屋には、高校三年生の真由美ちゃんと高校一年生のそらちゃん、わたしと同い年で中学一年生の絵梨がいる。佳奈とは部屋が違う。ちなみに、佳奈の部屋には鈴香、小学六年生の美貴、まだ幼稚園のこのみ、がいる。
食堂を出ると、わたしは玄関脇の階段を上って二階へ行く。わたしたちの部屋とあきらを含む男子組の部屋は二階だけど、佳奈たちの部屋は一階だ。
部屋に入ると、入り口のすぐ側ある明かりのスイッチを押す。四つのベッドと勉強机と共有の本棚で部屋はいっぱいだ。夏は扇風機、冬はファンヒーターを置くから、かなり苦しくなる。他の部屋も同じような狭さだ。
佳奈の為に、散らかっている机の上を整理する。とはいっても、教科書とかノートとかプリントを一つに積み重ねるだけだ。消しゴムのカスなんかをゴミ箱へ捨てると、佳奈がワークを持って入ってきた。算数らしい。わたしは、勉強は得意じゃないけど小学五年生くらいの問題は解ける、つもり。
「ここなんだけど……」
そう言って指差したのは、平行四辺形の角度と辺の長さを求める問題だった。うん、楽勝。
平行四辺形の各角にA、B、C、Dと書いてあって、Aの角が百二十度、Bの角が六十度。辺ADが十センチで辺ABが六センチ。角Dと角Cにそれぞれ「あ」と「い」の記号がついている。問題は「あ」「い」の角の大きさと、辺BCと辺DCの長さを求めなさい、だった。
「平行四辺形ではね、向かい合う角の大きさと辺の長さは同じなの」
佳奈をわたしの椅子に座らせて、自分は傍らに立つ。
「『あ』の角と向かい合ってる角は何かわかる?」
できるだけ優しい声で、優しい声で教える。怒り気味に言ったり、怒鳴りながらは絶対に駄目だ。小学校六年生のときのとても恐い先生が担任だったけど、教師の夢はないながら「こんな大人にはなりたくない」と思ったものだ。
「……B?」
間違えるとビンタが飛んでくるとでも思っているのか、恐る恐る見上げてくる。わたしはそんなことしないけど、その担任は生徒の頭をよく叩いていた。運良く、わたしはその餌食にはならずにすんだけど。
「うん、そう。じゃあ、Bの角の大きさは?」
「六十度。だから、『あ』の角は六十度になるんだね!」
「ピンポーン。『い』の角も同じように解いてみて」
「うん」
佳奈が「い」の角を求めようとしているとき、そらちゃんが部屋に入ってきた。
「綾、今日はあんたが先に入る番だよ」
ウィングでは、お風呂に入る順番が決められている。いつも一番最後だったりすると可哀想だしね。でも、十数人みんな入らないといけないから、時間は十五分から二十五分と厳しく制限されている。銭湯みたいに広くないから、みんな一緒に入ることなんでできないし。男子はいいとして、クラスの女子なんかは一時間入ってるなんて言う子がいるけど、うちではそれは叶わない。別にお風呂に一時間もいたくないからいいんだけど。
「あ、そうだった。佳奈、わたしお風呂入るけどいい?」
「うん、もう大丈夫」
「なんなら、あたしが見ててあげようか。今日は家事当番じゃなし」
ここでは受験生と小学校低学年以下の子以外に家事当番も決められている。イーサン先生の負担を少しでも減らすため、わたしたちが独断で決めたことだ。誰も異議はなかった。先生たちは、とても嬉しそうだった。
確か今日は、絵梨が皿洗いの当番だった。でも、一人でしてるわけではない。正平兄ちゃんや先生も少し手伝うのだ。
「そらちゃん、ありがとう」
ベットの下の引き出しから、下着を取り出した。バスタオルは洗濯場に干してあるから、そこから取らなきゃいけない。
わたしは、佳奈を後にして部屋を出た。
洗濯場のドアを開けようと手を伸ばしたとき、ノブが回って中から幸介兄ちゃんが出てきた。十数枚のバスタオルを抱えている。
「おわっ……なんだ、綾か」
幸介兄ちゃんは高三で、茶髪で耳にはピアスの穴という、一見不良みたいに見えるけど、中身は別に普通だ。怖くもなんともない。逆に優しいぐらいだ。本人曰く、「不良の格好してると『お前ならできる』みたいなこと言われねえだろ。『もうお前はダメだ』みたいに呆れられると思ってさ」だそうだ。どうやら、大学進学したくないらしい。高校を卒業したら、ウィングを出て自立するんだろう。
「『なんだ』って、失礼じゃない?」
「悪い、悪い。あ、ほらお前のこれだよな」
幸介兄ちゃんは、バスタオルの束からオレンジ色のバスタオルを抜き出してわたしに差し出した。
「うん、ありがと。でも、何か珍しいね。幸介兄ちゃんがこんなことするの」
「俺はいつでも気が利く奴だぜ。――まあ、することなくて暇だしな。桂馬みたいに大学行くわけでもないし」
桂馬くんは、幸介兄ちゃんと同い年の秀才な高校三年生。日本で一番偏差値が高い大学が第一志望だとか。幸介兄ちゃんはわたしが物心ついたときからいたけど、桂馬くんは二年前ここに来たばかりだ。自分以外の家族全員、交通事故で亡くなったのが引き取られることになった理由らしい。家族が交通事故に遭った日、桂馬くんは全国模試の会場にいたんだそうだ。
桂馬くんが初めてウィングの玄関に立った日、わたしたちはどんな人なのか確かめるため陰に隠れて桂馬くんの顔を盗み見ようとしていた。多分、辛そうな顔をしてるんだろうなあ。そう決め付けていた。しかし、入ってきたのはひょろりと背が高くて、髪が肩につきそうなほど長くて、鼻梁が通った鼻に銀のフレームの眼鏡が似合っていて、そして、冷ややかな顔。とても最近家族を失ったようには見えなかった。その顔がわたしのほうに向けられた。きっとどんな熱い炎でも一瞬で凍らしてしまう、そんな目で見られるんだと思って身構えた。だが、予想に反して、なんと、わたしたちに歯を見せて笑ったのだ。擬態語で表現すると「ニカッ」が適切だろう。
呆然としてしまった。将棋の駒の「桂馬」のように、他の駒とは違った「二列目の右か左」という動きをする、不思議な人だなあと思った。このとき、わたしは人は見た目ではないことを改めて教えられた。だけど、それでも「桂馬兄ちゃん」ではなく「桂馬くん」と呼んでしまうのは、ときどきあの冷たさが桂馬くんの周りを取り巻くからだ。距離を感じてしまう。
「お前の部屋に、誰かいるよな?バスタオル渡さないといけねえし」
「うん、いるよ。あ、でも変態と勘違いされないようにね」
そう言うと、わたしは走ってお風呂場へ向かった。後ろのほうで幸介兄ちゃんの「バカか」なんていう小さな罵声が聞こえた。
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