人生の逃げ道(抜粋)
高森家が逃げるように引っ越した本当の理由は、優子にすり寄ってきたあの担任教師とのことではなかった。阿坂高校の倫理規定によれば女子生徒に手を出すというのは恥ずべき行為ではあるが、それはあまり厳しい非難を受けないし、辞職の理由になることもほとんどなかった。一方、セックスしてみたい、その相手が欲しいという気持ちを作文にして、しかもそれを発表してしまうというのは教員たちの理解を超えていた。校内でひそかに悪い評判がたったのも不思議はなかった。趣味の悪い冗談にしか聞こえないし、真剣だとしたらやりすぎだ。しかも優子の場合、それを真に受けた担任がいた。当の優子も自分の長年の秘密が周知の事実となってしまったことに多少の謙虚さを示すことはあったが、堂々としていた。言い訳めいたことを口にするときでもただ短く、奇抜なことを言おうとしたわけじゃないよ、あれは本当の気もちなのと言って、面と向かってひどい言葉をかけてくる同級生をびっくりさせていた。
行動範囲が狭く、新しい人間と会うのが嫌いな優子は引越しに抵抗したが、両親も兄もただ困った顔をしただけで優子の言うことは聞いてくれなかった。優子は知っている限りの人間に手紙を書いた。音楽が大好きな優子のことが大好きな音楽教師がけっこう頻繁に情愛のこもった手紙をくれるし、後輩の絵里は今でも電車内の痴漢に悩まされているとのこと(優子は近いうちまた助けてあげると書いた)である。お金をたくさんくれる祖父は痴呆が更に進んで耄碌しかかっていたが、絶妙の名文でつじつまの合わないことを書いて寄こす。また幼い優子の性知識の発信源だった高島は、髪が薄くなってはいるが未だに現役のAV男優である。彼は時折手紙にとんでもなくいやらしいことを書いては優子をきゃーきゃー言わせている。中学のテニスの試合で興奮した優子がラケットを投げつけて前歯を折った女の子も返事をくれる。彼女は今でも恋愛について相談できる大切な友達である。優子は何でも彼女に聞いていた。
後に変り種の女性運動家となる優子は、セックスと同様、男の子と深く付き合うこと、そういう人が自分にできるということについても死ぬまで正しく理解することがなかった。男の子と付き合った経験のない優子はデートしたり、一緒に暮らしたりということには頭がピンとこなかった。一般的に言う「くっつく」というのは、男の子が言い寄ってくるか、あるいは自分が言い寄るかするのだろう。でもその後は?キスしたり、つねったり、引っ張ったりとか?場所はまあいろいろで。
優子はその手の知識はさっぱりだったから、薫がいなかったら一生彼氏ができることなんてなかっただろうなと思った。
「物珍しかったからじゃないんだよ」薫が優子の肩に手をまわしながら言った。今の高校に移っても重量挙げを続けている優子は、小規模ではあるが、転校とほぼ同時に学校中の話題になっていた。優子は驚かなかったが、薫が声をかけてきたときには驚いた。二人で会うようになって、控えめな愛の告白めいたものをされたずっと後も、優子はなかなか打ち解けることができなかった。そして聞き役に回れる薫とは違って、優子は自分のことしか話すことができなかった。更に語り口も下手だった。
「分ってるよ」とだけ優子は言った。薫が緊張しながら優子に触っていたので、優子も緊張していた。
「君のこと好きだよ。何にしても」薫が言った。優子は目を丸くした。かくて必要なことは言ってしまったので、二人は服を脱ぎ始めた。広い公園の隅の方だったから、そこでなら誰にも見られないし、二人を知る人が通ることもないだろう。だんだん暗くなり、カラスもどこかで鳴き始めた。寝転がっている地面は硬く冷たく、文学的で、いやらしいことをするのも自然なように思えた。
「君が好きだよ」薫は念のためもう一度言った。二人ともまだお互いを十分に知るほどデートしてはいなかったが、運のいいことに二人とも早くセックスしてみたかったから、話も早かった。もちろん性行為の同意を求める意味での「好きだよ」は必要だったが、薄暗い中で彼の声はよく聞き取れなかった。薫は優子にキスをした。あまりにキスをしすぎて、また優子の服を脱がせるのに夢中だったから、複数の人影が近づいてくるのに薫はまったく気づかなかった。優子もあまりの嬉しさにぼやっとしていたので、まったく気づかなかった。視線を感じたとき、二人はその場に凍りついた。二人を見ていたほうも凍りついた。見ていたのはまだ小さな男の子たちだった。野球の帰りらしく、手にはバットやグローブを握っていた。彼らは二人からすぐ後ろの陰になる茂みの中に転がって二人が服を脱ぐのを見ていたのだ。男の子たちはバットを投げ捨てると、服を脱ぎ始めた。目の前の二人がボールを打ったり投げたりすることよりも面白いことをしていると勘違いしたらしかった。
またあるときは雨が降ったり風が強かったりで難儀させられた。高校生のころには二人きりになることさえ難しかった。何回も試みたものの、ついに二人は付き合ってから丸二年たつまでセックスにたどり着くことはなかった。ずっと後になっても、優子はその頃のことでぶつぶつ愚痴を言っていた。
家族は恋人よりも優先するものと優子は考えていた。しかし落ち着いた気性と常識を兼ね備えた家庭に生まれた優子は、今や家族の中で多少浮いて見えることがあるように感じていた。常識はある。そして、落ち着きはなかったが、頑固な意志の力があった。重量挙げをするときには、なくてはならないものである。しかし、優子は、どんな時であっても人間は意志が必要だと思っていた。意志とエネルギーである。優子はただ一人の兄にもエネルギーを持つように言っている。意見の対立による二人の内戦は徐々に緩和の兆しを見せていたが、時に激しい戦闘になることもあった。兄として武男は優子に武器の使用を条件付きで認めていたが、ある時優子が小柄な体でタックルを食らわせると武男は吹っ飛びタンスの角に頭から突っ込んで額を14針も縫った。武男は泣きわめき、優子も一緒に泣いた。優子が礼儀正しい子であることは家族全員が知っていたが、重量挙げ部でレギュラーである優子は、ほとんどの男の子よりも力が強くなっていた。優子が突然重量挙げをやると言い出した時には両親とも気が狂いそうなほど怒ったが、武男はただ顔をしかめただけだった。「おれに相談すればよかったんだよ」武男は妹が厄介事を起こすたびにそう言った。文句しか言わない両親と違って、武男は生まれた時から優子をかまっていた。けして優子の理解者とは言えなかったが、事実上の監督責任者だった。そして、武男が優子の監督責任者だとすれば、薫は優子の父親に近い存在だった。「心配屋さんだからね」優子は彼をよくからかった。しかし、よく付き合ってくれる気になったものだと優子は思う。優子は彼氏が欲しいと思っていたくせに男の子のことなど何も知らず、男の友達もいなかった。更に悪いことに、優子はこれぞと思った男の子の前でかわいらしく振舞うのがからきし苦手ときている。いつも椅子に両足をきちんと揃えて座っている優子は真面目そのもので、さあいらっしゃいといった感じはどこにもなかった。しかも、優子は男の子たちに混じって重量挙げなどというかわいくないスポーツをやっているのである。男の子は、誰が見ても可愛かったり優しかったりする子を好きになるんじゃないだろうか。そういえば私の名前は優子だけど。
周りの反応と違い、優子自身は女の子が男の子のスポーツをしていると意識することはあまりなかった。入部を申し出たときには優子も恥ずかしかったが、気のいい部長ががんばってねと言ってくれた。重量挙げ選手は細かいことにこだわらないのである。それなら、優子もそれに向いているのであろう。スポーツとして、優子は重量挙げに自分の天性を見つけた気分だった。中学でテニスをしていたときのように、重量挙げはやっていて面白かった。大学に入って優子は、面白いかどうかだけで判断を下してしまう嫌な癖がついている。
付き合う前、薫が重量挙げのことばかり聞きたがるのには優子も辟易した。大学に入った後、薫はフェミニズムに関するある論文を発表して話題になった。授業の課題だったのだが、仔細に読んだ教授が出版を勧めてくれた。新聞もこぞって記事を書き、若い女性運動家の名はたちまち有名になった。「黙した挑戦」と呼ばれるその論文の中で、薫は何度も優子と重量挙げに言及し、「少数派に甘んじることをよしとしない世界では、女性運動家であることは困難を極める」と書いている。
最初、薫は優子に自分の論文を見せなかった。優子は論文の中心人物だったが、そのことを知らせるのが恥ずかしかったのだ。しかし彼は見せた。
「悪くないんじゃない?文章がうまいんだね、知らなかった」
それほどよく書けた論文ではなかったが、男と女がそれぞれ理解すべきことが順序立てて整理されていた。自分が論文の中で引き合いに出されているのを知った時、優子は怒った。「男社会で正当な力を取り戻すための勇敢な挑戦」と薫は優子の重量挙げを定義していた。それが優子のカンにさわったのだ。
「なんで黙ってこんなことするの?頼んでないでしょ?私、みんなに自分のやってることを分かってほしいわけじゃないんだよ」
「ぼくは知るべきだと思ったんだ。知ってほしいんだよ。君のためにもなるし」
「ならないよ。もうそんなことしないでよ」
「何でそんなに怒るんだ?いいことじゃないか。自慢に思うよ」
「あっそ。それで何?とにかくもうしないで」
優子は言うだけ言うと立ち去ってしまった。しばらくは薫に会おうともしなかった。
「あいつのことは大目に見てやってくれよ」武男は電話で薫に謝った。優子が激しく怒ったのには薫も面食らったが、優子が重量挙げに単なるスポーツ以上の意味を持たせることが大嫌いな事はよくわかっていたから、一緒にいるときはできるだけ親切にしていた。
薫は優子が好きだったし、重量挙げを続けてほしいとも思っていた。
そして優子は一体何を考えているのか?優子は真夜中に薫に電話をかけ、出ないことを確かめると携帯電話の留守番電話サービスに息を吹きかけたり、猫が嫌いなのにけっこう上手に鳴き真似をしたりして朝起きたばかりの薫をイライラさせた。少なくとも自分が何をやっているか優子はよく分かっている。自分から会いに行って上機嫌に微笑みながら手を握って振り回して、これで優子としては仲直りしたつもりになっていた。
優子は皮肉を利かせるというのがどうも上手くなかった。大人気なかったと思ったが、薫が優子を首尾よく有名人にしてしまったことでは生涯薫を許さなかった。優子にまで出版の依頼が来た。いつの間にか写真が撮られ、それが痴漢撲滅のポスターに使われた。目が点になっている優子の脇に「自分らしくノーと言おう!」と大書されていた。優子はその言葉は嫌いだった。個人主義を極端に推し進めるもののように思えた。
反響も凄まじかった。薫の論文を通して優子の事を知ったどこかの誰かが手紙を出してきたのである。優子の嫌いな、個人主義を極端に推し進めるバカどもだった。
ウェイトの上で一発お願いします。何回でもいかせてあげますよ。
こんな手紙が何通も来た。優子はそれを薫に見せた。「こんなこと言ってる」軽蔑した様子もなく優子は言った。「気を付けないとね」薫は真剣だった。優子は別の手紙も見せた。
男とやりまくってんだろう!
「まだ一回もしてないのにね」いらいらしながら優子は言った。
「性的に女を貶めることが最も効果的であり、悪辣な手段である」と薫は書いている。
「ねえ、ホントに私たちまだ一回もしてないんだよ」
「そんなのどうでもいいことだよ。君は危険にさらされてるかもしれないんだぞ。まず大切なことは気を付けることだよ」
「それはそれ。他にも大切なことがあるでしょ?アレ買っておくとか…私にもちゃんと気をつけてくださいね?」
「どうでもいいけど、君ねえ…」薫は顔をしかめた。優子は笑った。
どうでもいいことかもしれないが、二人はとうとう結ばれた。ウェイトの上ではなかったが、確かにすごくよかった。あまり自然な成り行きとは言えなかったが、長いこと待ち望んだ末にやっと訪れた妄想の成就とあって、心が和むものがあった。あの手紙の差出人もこういう結果は予想していなかったに違いない。しかしカンの鋭い優子は、初めての経験から次の経験に行くまでそう長くはかからないだろうと思った。愛の行為はどんどん続いていくに違いない。別にどうでもいいけど。
そのようにしてやっと優子は長年の悩みの種から解放された。重量挙げ方にも集中できるはずだったが優子は段々練習に身が入らなくなってきた。セックスは楽しかったし満足できたが、重量挙げに必要な心の緊張感までなくなっていくようだった。
「こういうふうに考えればいいんだよ」武男が言った。「休憩の時期が来たんだよ。一回立ち止まって、考え直す時ってこと。しばらく重量挙げも止めてみろよ」
優子にはそれはあまりいい考えには思えなかった。今はどういうわけかセックスしかしたくなかった。それは重量挙げとはあまり関係がないような気がする。
今や優子は自分のエネルギーが消えてしまいそうになっているのが怖かった。小学生のころセックスを理解しようとしたあの時のように、優子は参考になりそうな本を片端からなめるように読んだ。最後には聖書にまで手を伸ばしたが、いい解決法は見つからなかった。
「読みすぎはよくないよ」薫は言った。優子が本来あるべき方向性を失い、とんでもない方へばらばらに乱れていくのが薫にはよく分かった。がむしゃらに知識を求めるのはあまりいいことではない。
「やりすぎはよくないよね」優子は下らないことを真面目な顔で言った。
「呆れたな、まったく」薫は顔をしかめたが、次の瞬間には微笑んでいた。優子の世話をするのがけっこう楽しいことに薫は気づいた。優子が好きな生物学の言葉を使えば、世話焼きの遺伝子が入っているのである。また、薫は生まれながらのフェミニストでもあった。フェミニストは、薫が言うには、共感と愛情に溢れていなければならない。
優子がふさぎ込んでいるのを感じると薫は優子を誘って二人きりになるようにした。
「どうでもいいけどね」優子は言った。目を見ればお互い何を欲しがっているか分かるようになった。優子が母親から教わった、古き良き「ここはいいけどそこはだめ」式のお触りのルールも前ほどは違和感がない。「どうでもいい」も今となっては、やってもいいよのサイン代わりである。
優子と付き合ってから、薫は自分の部屋でセックスをしていないふりをするのが上手くなってきた。そうすれば親には気づかれないだろう。また、例え気づかれても、薫の両親は気にしなかったに違いない。いくら女らしいとはいっても、薫は男の子なのだから。対照的に、優子の両親はけして二人を優子の部屋に二人きりにすることはなかった。娘を一人暮らしさせる気にもならなかった。年頃の娘の性生活に関するありきたりの不安が彼らから離れなかった。薫が無理やり性交を迫るような男の子でないことは彼らもよく分かっていたが、心配だった。例え両親が一緒でも、暗くなったら二人が目の前で何か始めてしまうかもしれない。
「どこに行くの?」優子の母が言った。
「公園。散歩してくるね」優子は言った。
「何言ってんだか」と武男。彼は笑いを堪えるのに必死だった。
「暗くなるのが早いからな」優子の父が言った。「車からよく見える服を着て行きなさい。防犯ブザーも」優子は言われた通りにした。
「車で送ってやろうか?」父が叫んだ。優子は無視した。
優子は必要以上に長く薫の部屋にいないようにした。何回か頑張るとしても、セックスにそう長くかかることはない。経験する前にはあれほど待ちわびていたのに、今では一度に一回で満足できるのが優子には驚きだった。言うことを何でも聞いてくれる彼氏も幸せそうに見えたので、優子も幸せだった。
「ずっとこんなふうなのかな?」優子は赤くなった。以前ならこんなばかな事絶対に聞かなかったはずだ。ああ、本当に彼のことが好きみたいと優子は思った。
「どういう意味?もちろんこんなふうだと思うけど。何が起こるか分からないっていつも言ってたじゃない。気になることでもある?」
「ううん。一緒にいれば楽しいし……」
「それで?君は大丈夫だよ。ぼくもね。気にする事ないよ」
最近薫は優子がよく使う「それで?」という言い方をするようになった。主導権が移りつつあるのを優子は感じたが、悔しくはなかった。優子はもう重量挙げをする気になれないことは話さなかった。志半ばで投げ出しているように見えるのは嫌だった。調子の悪い優子と違って、薫は女性運動家として結構楽しそうにやっている。薫が中性的な子で、女性に対しても男を感じさせないのは幸運な事だったろう。正確な言葉遣いと、プライバシーを許さない世界に対する順応性を併せ持つ薫は女性運動家としてはすでにプロの域に達していた。わたしはプロの重量挙げ選手になれるのかな?なりたいと思えば、なれるだろう。でもそれでどうなる?恋人とか、マネージャーとか、母親である方が(優子は妊娠した自分をどうしても想像できなかった)よっぽど簡単に違いない。じゃあ何が必要なんだろう?例えば結婚するのもいいかもしれない。結婚っていくらかかるのかな?
優子の父が言った通り、暗くなってきていた。薫の家からの帰り道、優子は自転車で大きな公園の中を通っていた。優子はつまらないことを考えながら自転車に乗るのが好きだった。結婚ってなんだろうともう一度考えたとき、右手に見えた何か小さなものが優子の注意を引いた。女の子だ!優子は思った。なんでこんな可愛い子が一人でいるんだろ?女の子は硬い地面の上でほとんど裸で横たわっていた。かなり寒かったが(優子は派手なピンクのマフラーを巻いていた)、女の子は息を切らせ、優子から離れようとした。何も言ってくれなかったが、優子のことを怖がっているのが分かった。優子も何も言わなかった。性行為がすでに行われた後だろうと優子はみていた。救急車を呼ばなくちゃ。先に警察かな?考えながら、優子は着ていたコートを脱いで女の子にかけた。辺りを見回す優子に、人影が近づいてきた。父親だろうか?
「娘さんですか?」その男は笑った。地面に横たわる少女を見て驚いた風には見えなかった。痛みを訴える様なかすかな声が女の子から漏れた。女の子は背を向け、咳をした。その時ようやく、勘違いをしていたことがわかった。致命的な勘違いだ。
「この子に何をしたんですか」
「まだ何もしてないよ。何も」ただの子供暴行魔ではない、今まさに獲物を得ようとしている子供暴行魔だ!優子は唇を噛んだ。
考えるより先に手が伸びて、男の肩を掴んだ。驚くべきスピードだった。そういう攻撃を予想していなかった男は避けることもできず、一歩よろめいた。優子は男にぐっと近づき懐にかがみ込んで、男の首と太股を掴んだ。極めて重いバーベルを想像しながら、優子は男を持ち上げた。男は優子より三つか四つ年上に見えたが、重量挙げ部で普段練習に使っている一番軽いバーベルより軽かった。五十キロもないに違いない。「なんなんだ、離せ!」男は叫び、優子の頭を殴ろうとした。
優子は持ち上げたバーベルを頭上で静止させることに関しては部内で一番だった。しかしこの変態バカには何をするべきだろう?優子のいる重量挙げ部では、選手はみんなバーベルを持ち上げた後のことは教わっていなかった。優子もどうすればいいのか分からない。
「問題を解決する一番いい方法が分からないのが彼女の弱点である」と薫は書いている。何か好ましくない変化を感じ取ることはできるが(地面に横たわる裸の少女)、それをどう処理していいかは分からない(結局、優子は女の子からできるだけ離れたところに男を放り投げた)。性犯罪のようにその場で撃ち殺されても文句の言えないくらいの犯罪人であっても、あんなやり方をすべきではなかったと優子は後で思った。重量挙げ選手にはそういうところがある。優子も自分を罰するか、罰してくれる人が欲しいと思った。しかし、周りの人間はけしてそうは考えなかった。パトカーが到着した時、警察官はまず容疑者を探そうとして、優子にいろいろと尋ねた。優子は予め彼女のコートのボタンをきっちりと留めて、少女の体が警察官に見えないようにしていた。その警察官は優子も強姦の被害者であろうと思っていた。彼の目には優子は怯え、痛みに耐えているように見えた。実際には自分でも思ってもみなかったことをして頭に血が昇っていたのだ。暴行魔を逮捕した勇気ある市民が優子だと知って彼は驚いた。
「大したもんだ!こんな世の中でねえ、大したもんだ」
近くの病院に行く間、その警察官はずっと優子を褒めちぎっていた。当の暴行魔も逮捕され、手錠をされて後ろの座席に転がっていたので、優子は女の子が怖がらないかと心配だった。子供はあまり好きではなかったが、優子は少女をきつく、しかし痛くない程度にしっかりと抱きしめた。体はもちろん心にもひどく痛い思いをしたこの女の子にとっては自分も他人だと思うと、できるだけ優しくしてあげなきゃと優子は思った。重量挙げの太い腕に抱かれている間女の子は一言も喋らず、時々咳をしていた。喋らないでほしいと思いながら優子は警察官を見つめた。
「署に来てくれるね?記録するから。身分証明書か何かあるかな。疑ってるんじゃないよ、あんたはヒーローなんだから、ねえ?」陽気な警察官は言った。優子は実際その言葉を聞いて嬉しかった。これこそ気づかずに待ち望んでいた言葉だったのかもしれない。しかしヒーローなんて言葉はこのかわいそうな女の子には慰めにもならないし、そもそも何の意味もないだろうと思うと優子は恥ずかしくなった。優子は少女の慰めになってやりたいと思ったが、同時に、彼女の重量挙げを単なる権利獲得の為の闘いとしか見ない周りの人間が協力してくれるのか不安だった。この世界がどういう風に動くのか知った今では、優子は全ての人間を信用する気にはなれなかった。
女性運動の敵!美人重量挙げ選手、少女を強姦魔から救う
翌日の新聞を見て、「やっぱり」優子はため息をついた。
「呆れたな」薫もため息をついた。これこそ優子の言う「想像力がない人たちの言葉の使い方」だった。あの恐ろしい事件をいとも気楽に、しかしドラマチックに盛り上げた記事が出回るとたちまち世間の注目が集まり、二人は嫌な気分になった。薫はフェミニズムを理解していない人に対して苛々していたが、優子が苛々していたのは別のものだった。強姦されかけたあの少女に会ってからは、優子は自分を理解していない人に対しても怒らなくなった。優子は、まるで美味しいものでも食べるかのようにセックスを楽しんでいた自分が恥ずかしかったのだ。優子がその場にいなかったとしたら、性の関心がまだ固まらないような幼いうちに性暴力を受けることになっていたであろうあの子のことを思うと。
優子の心の中に罪悪感が溢れた。共犯意識さえ芽生え始めていた。それは重すぎて、優子にも持ち上げて取り除くことが不可能なように思えた。突然優子は薫に電話をかけると、もうセックスはしないと一方的に告げた。以前はドキドキしながら待っていた薫からのお誘いにも一切応じなくなった。心を決めた優子は、もうお触りもさせてくれなかった。
「またすぐしたくなるんじゃないかな」武男は電話で薫に言った。
「すぐにね」
「何であの子もうセックスしないなんて言い出したんだろう?」
薫は言った。二人とも優子のことが心配だった。
「ん、多分他の人のことを考え始めたんだと思うよ」
「傷つけられて、今も傷ついている人たち?」
「そう。今まではそんなこと考えることもなかったんだ。いい兆候じゃないかなあ?」武男は言った。薫は何も言えなかった。
まるで麻薬のように、性行為が体にも心にも有害であると考えることによって優子が出口のない袋小路に入り込んでいることを二人とも認めざるをえなかった。何の理由もなく性文化に敵意を持つ人のように、今の優子は短気で偏見に満ち、話し合いの余地もなくなっていった。また子猫のように影響されやすくなった結果、優子はあらゆる不条理な出来事を正そうとし始めた。重量挙げ選手にはあまりいい傾向ではない。気持ちのバランスがとれ、人当たりもよかったのに、優子はそういういいところを全部隠してしまった。一方、薫は優子よりも人間として完成していたから、一時の感情に囚われることはなかった。優子と違い、薫はどこかで起こった性犯罪と自分の性欲を結び付けて考えたりしない。起こりうる犯罪に対して責任を感じることもない。性に対する情熱は誰にでもあるのだからと薫は優子に話したが、何も聞いてくれなかった。優子は朝晩二回あの公園の周りを走り、なんとか気を紛らわせようとした。どこかの新聞が取材に来て男性か女性どちらかの立場に立った意見を求められたときも、優子は大体断るか、頭にきたときには引き受けていた。
性犯罪についてあれほど思いを巡らせておきながら、自分がその被害者になりうることを優子が考えなかったのはおかしなことだっただろう。まるで警戒していなかったから、襲われた時にはすごいショックを受けた。優子はその男たちを知らなかった。大学からの帰り道、優子は幼い少女が暴行されかけたあの公園の中を通っていた。真っ暗だったので、優子は近づいてくる複数の人影にまったく気づいていなかった。自転車に乗った男たちが優子の側を通り過ぎた。何もおかしなところはない。優子は重量挙げを続けられるかどうか、他に自分に合うものがあるかどうか考えていた。天性のスポーツだと思っていたテニスも失敗したし、重量挙げも続けるべきだとは思っていたが、続けたくなかった。それに、今わたしは期待されてるんだし。優子は思った。男の子のスポーツをやることで、女性運動のためになるんだろうか。
あれこれ考えていたので、肩を掴まれるまで優子は接近に気がつかなかった。優子の目には、その男は見えないところから急に現れたように見えた。
優子が「何?」と言い終わる前に、男は優子のこめかみを激しく殴った。最大音量の拡声器を使って耳元で怒鳴られたように、耳がガーンと鳴った。気を失いかけ倒れそうになりながら、優子は思わず顔と胸を腕で守るように覆った。音を立てず、しかし素早い動きで男は優子の首を掴み、締め上げた。息ができず、抵抗することもできない。男は首根っこを掴んだまま優子を地面に押し倒すと、優子の上に覆いかぶさった。動けない。考えることもできない。体全体が麻痺していた。心臓が胸を叩くのが分かった。
「誰?」優子は切れ切れの声で言った。男の小刻みに動く顔は部分的に月に照らされていたが表情は分からなかった。目もどうにかしたみたい、と優子は思った。
「誰?」優子はもう一度言った。「やめて!」
男は何も言わない。優子は震えた。男は背が高く、大きく、そして強かった。もちろん、男の体はどんなウェイトより重かった。これが強姦なの?
優子は早々と望みを捨てて(しかし不思議に落ち着いていた)、自分の命を守ることだけを考えようとした。その時男が優子の体から離れ、滑るように逃げ去って行った。何も感じないまま地面に横たわっていた優子は、近づいてくる車のエンジン音を聞いた。ドアが開き、誰かが急いで駆け寄って来るのが見なくても分かった。優子は破れたブラウスをたぐり寄せて胸を隠した。頭の中ががんがん鳴っていた。体のどこかも痛かった。おそらくその部分は千切れ、なくなっているだろう。明らかに複数と分かる足音が迫って来る。
ああ、どうしてこんなこと……。半分感覚のない頭が鳴っている。またなんだ。今度はきっと輪姦だ。強姦ってこんな風に起こるんじゃないの?
不幸の連続は現実にはそうそう起こらない。それは公園内をパトロールしている警察官だった。その警察官は優子を病院に連れていくと、必ず犯人を捕まえてみせるとすぐに約束してくれた。優子は病院に連れて行かれる間、ほとんど何も感じていなかった。重量挙げに欠かせない状況判断能力は、両親が到着したときにやっと一部分回復した。両親は娘が泣いているだろうと思ったが、優子は落ち着いていた。優子の父はあれこれ聞きたい気持ちを苦労して堪えていた。優子も何も言わなかった。重量挙げを始めてからは、優子は大体そうやって両親に接していた。何も言わなければ、口に昇らせた途端に生々しくなってしまいそうなお互いに対する気持ちも抑えることが出来る。今の優子にはそれは特にありがたかったし、余計な事を考えずに済んだ。病院のベッドの上で、今は血が止まりかけている右足の切り傷(押し倒されたときに、尖った岩で切った)を眺めてみた。しばらくはしたくてもセックスはできないに違いない。看護婦がもうすぐ血は止まりますよと言ってくれた。でもわたしは忘れられないかも、と優子は思った。目を閉じるだけであのイヤな臭いがする。鼻につくセックスの臭いだ。
あの時、何も抵抗できなかったことに優子は今さらながら驚いていた。重量挙げの腕も役に立たず、体さえ硬直していた。あの女の子を助けた時と違って、予測も何もしていなかったからではないかと優子は考えた。でもそれがあの無抵抗の瞬間に対する答えの全てではないだろう。優子はあの男が怖かったのだ。それが大きな違いだった。殴られるのは怖くなかったけど、強姦されるのは怖かったんだ。自分がこんな人間だとは思わなかった。他の女の人もこうなのかな?
優子は強い人間だが、それほど強くもなかったから、自信を失い始めていた。気の進む進まないに関わらず、優子は女性運動家の書いた本や、時に強姦魔が書いた本を読んだ。退院した後も優子は何日も部屋にこもり、本を読み、どうでもいいことをノートに書き留め、また別の本を読んでいた。インターネットをしたり、強姦とは全く関係のないテレビを観ることもあった。両親は娘が意外なほど平静なのがかえって怖かったが、武男はテレビを観ている優子を見ていてほっとした。もう大丈夫だろう、と武男は思った。大丈夫でなかったら、きっと何か聞いてくるに違いない。来る日も来る日も優子は二人分の食事をとり、大好きなバナナを食べ、足が痛いのでせめて走る代わりによちよち歩いていた。重量挙げはもう随分とやっていない。
退院してから何日もした頃、もう足は治りかけていたが、優子はだらだらインターネットをしていた。どうやったら重量挙げを辞められるか優子は考えていた。優子の知ってる重量挙げ部の男の子に相談してみようか。彼らは友達だし、きっと力になってくれるだろう。でも彼らは男の子だ。今の優子はあまり男の子に近寄りたくなかった。
突然、優子は画面に映る自分自身を見た。優子は息を呑んだ。画面上の優子も、息を呑んでいるように見えた。画面上で、一枚の写真は優子の動転する顔を写していた。また別の一枚は血が流れ出る優子の足とまくりあげられたスカート、今にも下ろされようとしている下着に焦点を合わせていた。写真を撮った男は(女であるはずがない)、きっと腕のいいカメラマンなのだろう。しっかりカメラを固定しながら、優子のみを鮮明に写していた。その時辺りは暗かったはずだが、全ての写真はどこかから持ってきた灯りによって、興味深いぼやけが見られた。それぞれの写真の下には、説明らしきものがあった。例えば痛みに顔を歪ませている優子の写真の下には、
実に女性らしい
とあった。凌辱されている女性を指して女性らしいとする考えが単純な説明の中によく表れていた。彼らが欲しかったのが性的暴力だけでなかったことが優子にも分かった。誰も助けに現れなかったら彼らは優子を強姦したかもしれないが、そこは彼らにとって大切なところではなかった。まさに望み通りに、彼らは目指すものを手にしていた。
彼女は重量挙げの選手であり、先日子供強姦魔を逮捕した本人である
その後は比較的どうでもいい言葉が続く。そして最後に、
自業自得だよ。
女性を敵としか見ていない男なのだろうと優子は感じたが、同時に、彼らは女性かもしれないと思った。悲しむべきことに、助けるべき同性の足を引っ張る女性もまたいるものだからだ。優子はそういう点では男と女に大した違いはないことを知っていた。誰が言ったのか、水は低きにつくという言葉もある。
優子は気を取り直すと、薫に電話をかけた。薫は驚かなかった。薫も同じものを見たからだ。電話口で薫は声を出して泣いた。
「なんでこんなひどいことを我慢しなくちゃいけないの?」薫は泣いた。彼は優子にもうこれ以上誰も信じられないと言った。一緒にいてあげられればよかった、とも言った。優子は何も言わず、薫が話すのを冷ややかに聞いていた。
「悔しいよ」薫は言った。薫は動転してとても直接優子に会うことはできなかった。少なくとも、今は。重量挙げ選手であるせいか優子はすでにこれらの重圧に適応していた。
「周りの人に気を付けるんだよ。気をつけてくれよ、お願いだから!」薫は言った。優子は言われた通りにすると言い、自分もそうするように薫に言って電話を切った。薫みたいな彼氏でよかった、と優子は思った。自分の代わりに泣いてくれるなんて。泣きたい気分だけど、人が泣いてるのを見る方がいい。
優子の足の抜糸が済んだ頃になっても、優子を襲った犯人は捕まらなかった。優子は高校の時のように話題の的となり、新聞社が連日押し掛けたが、それも長くは続かなかった。最初はただ足踏みをしたり縄跳びをしていたが、本格的に外を走れるようになった頃には、ほとんど全てがおさまっていた。薫の言った通り、生まれながらの女性のように夜の闇には警戒するようにもなった。そして、結局重量挙げを続けることにした。あまり深く考えたことがなかったから分からなかったが、今は重量挙げが好きだと結論が出た。成人男性くらいの重さがあるバーベルを持ち上げながら誰かを追いかけるところを考えれば、きっと優子は永遠に犯人を捕まえることはできない運命なのだろう。しかし女性重量挙げ選手として、誰かに辛い経験や悲しい出来事が起きた時、それを持ち上げて取り除いてやることは可能なのではないか。
別の大きな変化として、優子は再び薫と寝るようになった。やれば楽しいことに気付いたからだ。惨めな気分にもなったが、どんなに痛ましい出来事に心がとりつかれているときでも性的な触れ合いは楽しめるものらしい。またこんなに早く気を持ち直すことができたのは、優子が重量挙げの世界に戻ってきたおかげだった。それは、昨日までは床から離れもしなかったウェイトを次の日には持ち上げることが出来うる重量挙げ選手特有の成長の早さであろう。優子はセックスが可能にする独特の快感をすぐに楽しむことができた。しかし、薫は回復にかなりの時間を要した。最初、薫は乱暴になったり、優子の上になったりすることのないようあらゆる努力をしていた。あの強姦未遂事件を思い出させまいとしているのは明らかだった。
「そんなことしなくてもいいよ。焦らないで。ねえ、焦らないでってば!」優子の方が命令口調になることさえあった。こう言うこともある。「リラックスしてね。体重かけてくれていいから。重たい君の方がゼッタイいいよ」二人は笑った。そうして薫もやっと落ち着くことが出来る。
今や優子は薫や他の人間に対しても愛情に溢れているように見える。天使の笑顔で誰に対しても優しくしているが、これも優子のいけないところだった。優子は度を越しがちな人間で極端から極端に走る嫌な傾向がある。物腰はソフトになったが、おつむの方もソフトになりつつあるようだ。しかし若い優子の人格がそう整っている必要はないのではないか。少なくとも優子はいつでも成長のための努力を欠かさないし、きらめく個性よりも良識を保って生きることの方がいかに難しいかを身にしみて知っている数少ない人間でもある。
今まではよく分かっていなかった恋人同士の愛情が何たるかがようやく分かってきた。エネルギーに溢れ、調子がいい時にはそれは最高の喜びである。一方気持ちが沈んでいるときには、それがとどめの一撃になってしまうことがよくある。しかし愛する人と一緒にいれば、何でもない事さえ面白くなるのは新鮮な発見だった。例えば、恋人にマフラーをかけてあげようとしてふざけて首を締めあげたりするのさえ、楽しい。もし今の優子がそれをやったらか細い薫は血を吐くかもしれないが、薫も特に文句はないだろう。愛し合っていれば、何が起きても今一つということはないのだから。
月日が過ぎ気温が下がり、雪が降るほどになると、薫と優子と武男は山に遊びに行くようになった。セックスはなしだったが、少し登ってみたり、酒を飲んだりすることができた。ほとんどいつも薫が車を運転し、時々武男が代わった。優子は車を運転することができなかった。前日ふざけて踊っているときに階段から落ちて、治ったばかりの足にまたもや包帯を巻いていたのだ。またしてもセックスができなくなり、優子は不機嫌だった。
山でたっぷりと遊びまわった後、帰りの車の中で優子は「今日にでも」を歌っていた。おそらくそういう気持ちでいるのだろう。包帯が取れたら、すぐにでもオーケーという気持ちだった。武男は何も言わないし、薫は優しくて、一緒にいるのが嬉しかった。ここ数カ月の間に優子には辛いことがたくさん起こったが、これからは心温まる生活を送ることができるだろう。いやらしい性格を直し、自分を責めることがなければ、大体のことには対応できるものだ。そして、もう優子は自分を責めることはなかった。重量挙げ選手にしては我慢が足りないが、彼女がセックスしたがっていることも、責めてはいけない。そして誰も自分を責めてはいけない。重量挙げ選手でもない限り、肩にかかる重みは少ない方がいいのだから。