七‐‐‐‐ 疾走
「うっ… うっ… うっ…」
小さな泣き声が倉庫の中にこだまする。
体育館の器具置き場。その隅に置いてある飛び箱の中に、柴崎菜津稀はいた。
目が覚めたら突然、友達に殺されかけ、ずっとここに隠れている。
何がどうなったのか理解できない。
ただ、現実から目を逸らし、泣くことしかできない。
遠くから奇妙な笑い声や悲鳴が聞こえてくる度に、菜津稀は現実に引き戻される。
嫌だ、こんな現実認めたくない!
ただ、この悪夢が早く覚めますようにと、願うだけ。
「何で覚めないの…? なんで… どうして……?」
菜津稀は頭を抱えた。
「覚めてよ… 覚めてよ… 覚めてよ… 覚めてよ… 覚めてよ!!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を塞いだ。
「いやだよぉ… うっ… うっ……」
<がらら…>
一瞬息が詰まった。突然、器具置き場のドアが開いたのだ。
気づかれた…!?
菜津稀は泣くのをやめ、黙って耳を澄ました。
足音が菜津稀が隠れている飛び箱に近づいてくる。
だめっ… 来ないでっ!
菜津稀は神に祈った。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が苦しくなる。
来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで…!
「川瀬…?」
え…?
「川瀬、いるのか?」
明かりが飛び箱の中に差し込んだ。
化け物じゃ… ない?
菜津稀はゆっくりと飛び箱の蓋を開けた。
痩せ型で中背の男。その人物の短めの黒い髪が、周囲の闇に溶け込んで見える。
「森崎… 君?」
声に驚いたように、男は飛び箱に懐中電灯を向けた。
「ん? 柴崎さん?」
体育館には生徒の死体が大量に転がっている。
休憩時間に体育館を利用する生徒がけっこういるのだ。
バスケをしていたと見られる男子生徒、そしてそれを見学していたであろう女子生徒。
しかし、今は皆死んでいる。
祐史は必死に吐き気を堪えながらその中を歩いた。
見たことがある男子生徒も大勢いる。何度か話をしたことがある者もいる。皆あの時までは元気に遊んでいたのだろう…。
そう考えると、どうにもやり切れない気持ちになる。
祐史は、できるだけ死体を見ないように歩いた。
その時だった。どこからか女生徒の声が聞こえてきた。
川瀬…?
体育館の器具置き場。祐史の目の前には、カチューシャをしたロングヘアの女子生徒がいる。
柴崎菜津稀。祐史と同じクラスの子だ。
生存者がいたことは嬉しいが、弥生ではなかったということが祐史を少しばかり落胆させた。
祐史の顔を見て、菜津稀が飛び付いてきた。
「ちょっ…」
女の子に抱きつかれるのは、初めての経験。祐史は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「よかった… まともな人がいた」
菜津稀は、しばらくの間祐史の胸で泣き続けていた。
「ひ… ひひひひひひひひひひひひひひひひひ…!!!」
あの笑い声が体育館に響いた。
見ると、体育館奥の外へと通じる扉が開きっぱなしになっている。そして、そこから化け物が2体こちらへ向かってくる。
「来た…! 行こう!」
祐史はまだ泣いている菜津稀の手を引き、体育館の出入り口へと走り出した。
出入り口からまっすぐ行くと、保健室と食堂がある渡り廊下へ出る。目の前の角を左に曲がれば第二校舎へ行けるのだが、直前で祐史は足を止めた。その角からも、1体こちらへ向かってくるのが見えたからだ。
後ろにはやつらがすぐそこまで迫ってきている。意外と足が速い。
2体と1体なら当然1体を相手にする。しかも相手は武器を持っていない。
祐史はベルトに挿してある包丁を抜き、懐中電灯を菜津稀に渡した。
「おおおおおおおおおおお!!!」
そして、両手で包丁を構え、敵に突っ込んだ。
「ひひひひひひひひひひひひひ…!!!」
祐史の声と、化け物の笑い声が交わる。
<ドスッ!>
包丁は、見事化け物の腹部に刺さった。
「びびゃあああああああぁああぁぁぁあああ゛!!!!!」
笑い声が悲鳴に変わり、祐史は勝利を感じた。
「柴崎さん! 走れ!!」
菜津稀に呼びかけた瞬間、祐史は息ができなくなった。
「森崎君!」
目を下に持っていくと、自分の首に重傷を負ったはずの化け物の左手がかかっている。
「が… あ… ぁ…」
もう遅かった。すでにそいつの手は祐史の気管を押さえつけていた。
ものすごい力だ…! 片手だけの握力とは思えない…!
腕が痺れ、包丁を床に落としてしまった。
腕が上がらない… 力が入らない… 体中の力が抜けていく…
祐史を覗き込むように睨みつけるそいつの赤い眼からは、明らかな憎悪がうかがえる。
指が祐史の首にじわじわと食い込む。
くそ… やろう… こんなやつに……
視界が真っ白になり、自分の世界が消えていく…
ごめん… 川… 瀬……
「びぎゃィああああぁぁああああああァあ゛あ゛…!!!!」
次の瞬間、化け物の二度目の悲鳴が大音響で聞こえてきた。
気づいた時には祐史は床に倒れていた。
「…柴…崎…?」
菜津稀が化け物の胸に包丁を突き立てている。
「森崎君! 立ってぇ!」
いつの間にか、後ろから追ってきたやつらが祐史に腕を伸ばしている。
祐史はとっさに振り払い、ふらつく足で立ち上がった。
「行くぞ…!」
掠れる声で叫び、何とか二人はその場を脱した。
もう少しだ! すぐそこの扉を開ければ第二校舎だ!
走って角を曲がり、第二校舎の扉を目指す。
「ああ… ちくしょう…」
第二校舎の扉の前には、スコップを持った男子生徒と、角材を持った女子生徒がいる。
こちらを振り向いたそいつらの眼は暗闇で赤く光っている。
扉には鍵がかかっているはず…。
内側からならキーがなくても指一本でロックを解除できるが、外側からは別だ。ポケットの中には卓郎から受け取った第二校舎の合鍵がある。しかし、武器を持った2体を相手にしながら鍵を開けるなんてことはさすがにできない。
遠回りするしかないか… 考えてる猶予はない!
「こっちだ!」
祐史は、廊下を反対側へ走り出した。
校長室や教員室が並ぶ廊下。やはりそこにも、化け物が3体ほどいる。
その中の2体は武器は持っていない。全力で走れば捕まらないか…?
祐史は、菜津稀が握り締めている包丁を受け取り、もしもの時のために戦闘体勢に入った。
「全力で走るよ、柴崎さん」
黙って頷く菜津稀。
敵はまだこちらに気づいていない。敵の動きに合わせて確実に逃げ切る…!
今だ!
東渡り廊下を目指し、全力疾走する。
祐史の後ろからは菜津稀の足音が聞こえてくる。しっかりついてきているようだ。
近くの2体が足音に気づき、振り返った。
しかし、敵が攻撃を仕掛けるまでに二人はすでにそこを走り抜けていた。
あと30メートル… 20メートル… 10メートル…
残りの一体を逃れ、無事渡り廊下に着いた。
「はあ… はあ… ははは…」
やった! 逃げ切ったぞ、ざまー見ろ!
安堵から祐史はただただ笑うことしかできなかった。
「柴崎さん、無事か?」
祐史は後ろを振り返った。
「…柴崎…さん…?」
しかし、そこに祐史の後をついてきていたはずの菜津稀の姿はなかった。