四‐‐‐‐ 嫌悪
「しまった…」
深い暗闇の中。川瀬は後悔していた。
そこは幅2メートル、奥行き3メートルほどの狭い倉庫。
周りには棚や本、ダンボールなど、さまざまな物が置かれているため、より狭く感じる。
すでに施錠されているドアからはさまざまな武器でそれを破壊しようと足掻く音が響いてくる。
「どうするの?」
隣に座っている少女― 二宮有里と名乗った少女が不安そうな声を漏らす。
「どうしようもない状況だな…」
果物ナイフに付着した血液を紙で拭き取りながら川瀬は言った。
この倉庫の出口は一箇所しかない。しかしそのドアの向こうには、少なくともあいつらが6体はいるだろう。
ドアは鉄製だ。そう簡単には壊せない。
「はぁ… ここで何があったのか教えてくれ…」
川瀬は額に手を当てながら、有里に再度聞いた。
「本当にわからないの… 突然耳鳴りがして… 気絶して…… 目を覚ましたら……」
有里はまた泣き出した。
「みんな死んでたのっ…!」
「殺された…? あいつらに」
顔を手で覆いながら黙ってうなずく有里。
「なんなんだよ… あいつら…」
川瀬は有里を見た。
「同級生よ… あのナタを持ってたやつ…」
「同級生? 眼が赤かったぞ。化け物みたいに…」
「2組の山本君よ… あいつだけじゃない、ほかにも何人か… 男子も女子も… 化け物に……」
「・・・・・」
川瀬は言葉がなかった。
こんなこと現実にあり得るわけがない…。しかし、これは紛れも無い現実…。
みんなおかしくなっちまっただと? どうなってんだよ、ゲームの世界かここは?
「ハハハハハ…」
なぜか笑みが零れてきた。
こんな可笑しいことが現実にあっていいのか? ちくしょう…
有里が不審そうな目で川瀬を見ている。
「はあぁ…」
今度は深い溜め息が漏れた。
ドアからは、相変わらず物を叩きつける音と、不気味な笑い声が響いてくる。
ったく… こんなにも精神的に追いつめられたことが今まであっただろうか… 今にも気が狂ってしまいそうだ。
「ねぇ… 川瀬って、おじさんもしかして弥生の父親?」
涙声の有里が口を開いた。
「弥生…! 知ってるのか!?」
有里の肩を掴む川瀬。
「いたい…」
「…すまん」
川瀬はすぐに有里の肩から手を離した。
「クラスメートだもん、弥生は」
「そうだったのか… それで、弥生はどこにいるんだ!?」
「知らない。私が見た化け物の中にはいなかった… と思う…」
「そう… か…」
考えたくないが、現実この状況で弥生が無事でいる可能性は限りなく低い。
しかし、今考えるべきはこのピンチをどう切り抜けるかだ。やつらがあきらめるのを待つか、こちらから出て行き、やつらを一掃するか…
どちらもあまりいい方法とはいえない。いや、後者に関しては論外か… こちらの武器といえる物は果物ナイフ一本しかないのだから。この倉庫にも武器になり得る物はなさそうだし… それならどうすればいい? どうすれば…
「ぴぎいぃィいぃや゛あ゛あ゛ぁァぁァぁぁあアァ゛―――!!!!!」
「ひぎゅぅう゛ぁあぁァああアぁあ゛ぁああァあぁ゛―――!!!!!」
「ひびゃああァぁぁああ゛ぁあぁぁぁぃぁぃィぁぁぁ―――!!!!!」
「つっ…!」
突如ドアの向こうで凄まじい悲鳴が聞こえ、川瀬と有里は思わず耳をふさいだ。
「―――――――――――――――――――――――…!!!!!」
「―――――――――――――――――――――――…!!!!!」
「―――――――――――――――――――――――…!!!!!」
「・・・・・・・・・」
しばらくの大音響の後、悲鳴は聞こえなくなった。
「なんなんだ…?」
二人は恐る恐る耳から手を離した。
<ガチャ>
ドアが開き、突然の強い光に目がくらんだ。
「二宮、ここにいたか」
男の声が聞こえた。
「誰だ?」
目の前には懐中電灯を持った男が立っている。
男は、今度は自分の顔に光を当てた。
乱れた長めの髪に、アイドルのような顔立ち。しかし、その眼にはまるで感情がない、何か悲しみを感じさせる眼。
「河上君!」
有里が男に駆け寄った。
「無事だな。そっちのおっさんは?」
「ああ、無事だ。ありがとう。どうやって鍵を?」
川瀬はズボンの尻を払いながら立ち上がった。
「ここの鍵なら教員室にあったよ」
そう言って、人差し指に引っ掛けた鍵を見せる。
「この人、弥生のお父さんなんだって」
「川瀬の?」
「ああ、川瀬春介だ。弥生を助けに来たんだが」
「そうか、俺は河上卓郎。ところで、助けに来たって― いや、話は後か、ついて来てくれ」
遠くからかすかに聞こえるやつらの不気味な声で、卓郎は話を中断した。
「おい、そこにいたやつらはどうした?」
川瀬の質問に卓郎は黙って後ろを親指で示す。
よく見れば、白い粉が大量に舞っている。その中に倒れているそいつらの顔は粉で真っ白に染まり、後頭部からは血液が大量に溢れ出し、粉と混ざり合っている。
「なるほどな」
消火器で相手の目を潰してその隙に止めを刺す。なかなか頭が回るようだ。しかし…
「本当に殺してもよかったのか? もしかしたら元に戻せたかもしれないだろう?」
「殺さなきゃ、殺される」
それだけ言い、卓郎は倉庫を出た。
懐中電灯を照らす卓郎について廊下を歩く。
教員室、校長室、応接室と、さっき川瀬が走ってきた通路を逆戻りする。
あの時は真っ暗でよくわからなかったが、電灯で照らされたその廊下には、教員や生徒の死体が多数転がっている。
「う………」
川瀬は一瞬、吐き気をもよおした。
なんてことだ… まるで悪魔の巣窟だ。
有里は、卓郎と川瀬の腕にしがみつき、死体から目を逸らしながら歩く。
卓郎を見ると、まるで何も感じないかのように、平然と死体をまたぎながら歩いている。
川瀬は死体から目を逸らすわけにはいかない。もしかしたらその中に弥生がいるかもしれないからだ
女生徒の死体を見つけるたびに、川瀬の胃はねじ切れるように痛む。
来客用玄関の小ホールを通り、事務室の前にさしかかった時…
<バン!>
事務室のドアが勢いよく開き、中から事務員の制服を着た化け物が一体飛び出してきた。
「くっ…!」
不意打ちだったため、戦闘体勢に入ることができず、卓郎はそのまま首を締め上げられた。
川瀬はとっさに引き離そうとするが、卓郎を締め上げる腕はびくともしない。
なんて力だ…! 人間だったとは思えない…!
素手じゃ手におえないと判断した川瀬は、ポケットの果物ナイフを取り出し、事務員の肩に深々と突き刺した。
ナイフの先が骨に当たる感触とともに、もう一つ嫌な感触が伝わってきた。ナイフの刃が根元から折れてしまったのだ。
「びゃああああああ!!!」
激痛に悲鳴を上げ、事務員は卓郎の首から手を離した。
「げほっ!げほっ!」
無力に床に倒れ込む卓郎。
事務員は、怒りの顔で三人を睨みつけた。
やばい!
もう川瀬の手元には武器がない。とはいえ化け物の怪力に素手で対抗するのは危険だ。
「おっさん…!」
卓郎が咳き込みながら呼びかけ、床にナイフを放った。
川瀬はすばやくそれを拾い、首を絞めようと両手を突き出し迫ってくる事務員の額に突き立てた。
相手の勢いもあってか、刃渡り10センチはあるナイフも、思ったより簡単に刺さっていく。
一瞬で事務員の動きは止まり、床に崩れ落ちた。
「げほっ! げほ…! はぁ… はぁ…」
しばらくし、回復した卓郎が立ち上がり、床に転がるナイフを拾い上げた。
事務員の額に開いた長細い孔からは、ドロドロした血液が垂れ出している。
「・・・・・」
立ったまま呆然とどこかを見据える川瀬。
人を殺してしまった… 人を殺してしまった… 人を…
いくら防衛のためだとはいえ、人の形をした者の命を絶ってしまったことに凄まじい嫌悪感を抱いた
「殺さなきゃ… 殺される…」
綺麗に血を拭き取ったナイフをホルダーに戻しながら再び卓郎が言った。
「なぜそう割り切れる…? 君は人… 人の姿をした者を殺して… 何も感じないのか…?」
「感じないわけないでしょ。俺も人です。」
そう言い、座り込んでずっと泣き続けている有里の手を引き、立たせる。
「急ごう。歩いて移動する暇はない」
川瀬と有里は、小走りで卓郎の後を追う。
廊下の奥の生徒用玄関の前を左に曲がり、ロッカースペースの前を通り、突き当たりの扉にたどり着いた。
扉の上のプレートに『第二校舎』と書かれている。
扉の鍵を開けながら、卓郎が川瀬に言った。
「慣れなきゃいけないんだ。でないと生き延びれない」