エピローグ
昼前、病院前で車を降りた植山は、足早に病院出入り口の自動ドアを通過した。
薬などの病院独特の臭いが、植山は嫌いだった。さっきまで苛立っていた植山にとって、これほど鼻につく臭いは―― いや、さっきまでのあの悪臭から解放されただけマシなのだろう。そう思うことにした。
「警部ー 待ってくださいー」
警部。自分を呼ぶ男の声を無視して植山は受付へ。
車を駐車場へ移動させていた一人の部下が走って追いついてきた。
「病院の中で、走るのは好ましくないぞ。それと、ここで警部と呼ぶのもよくない」
すいません…。とキョロキョロしながら謝る部下を隣に、受付へ着いた植山は、黙って警察手帳を出した。
「お待ちしてました。すぐに――」
「お待ちしておりました。こちらです」
受付のナース姿の女性が立ち上がろうとした時、受付の隣のドアから白い服を着た男の医師が出てきた。警部と呼ぶ声が聞こえたのだろうか。
二人は医師の案内で、エレベーターに乗り込み、5階へ昇った。
ナースステーションの前を通り、何度か廊下を曲がり、突き当りの部屋。
個室の入り口に『川瀬春介』と名前が入ったプレート。
ここで間違いないな。
植山は気を引き締めた。
<コンコン…>
しばらく待ってくれるようにと言って、案内をした医師がノックをして先に部屋に入った。
中には患者以外に誰かいるようで、話し声が聞こえる。
「意識が戻った、と連絡があったはずですよね?」
苛立ちをみせる植山に、部下が話しかけた。
「ああ、そのはずだ」
携帯に連絡が入ったのは約20分前、すぐにそれまでいた現場から部下を連れて、できるだけ車をとばしてきた。馬鹿みたいに忙しいのにだ。わざわざここへ来たのは、それだけ重要なことだからだ。
そう、我々は忙しいのだ。1分1秒だって無駄にはしたくない。
数分後、医師が二人に入室を許可した。
さあ、この人物にはいろいろと聞かなければならないことがある。
室内には、女性医師と男性医師、さきほど案内してくれた医師は、二人に道を譲って、ドアの前に立った。
計6人。3人の医師と、植山と部下。それと患者。
「あなたが警部さんですか?」
女性医師が、入ってきた植山に聞いた。
「警部の植山です。こっちはわたしの部下」
部下が挨拶した。
「川瀬さん、目を覚ましたんですか?」
川瀬はベッドの上で上半身を起こして、窓の外へ顔を向けている。
心地よい日差しが川瀬を温めるように、降り注ぐ。
「川瀬さん。お話を伺ってよろしいですか?」
「・・・・・」
答えない。いや、反応していないようだ。
植山はもう一度、少し声を張って言った。
「川瀬さん。聞こえてますか?」
「警部さん」
女性医師が止めた。
川瀬はやはり何の反応も見せない。
「目を覚ましているのでしょう?」
「ええ、昨日の夜に。ですがこのとおり、何の反応も見せません」
「どういうことです? 目を覚ましたと言うから我々は――」
どうなってんだ? 今この男は…。
嫌な予感がした。
たしかに、川瀬が目を覚ましたら、至急連絡をしろと言った。だがそれは――
「正確には、起き上がっただけで、目を覚ましていません」
それまで川瀬を診ていた男性医師が立ち上がって言った。
「わたしは精神科の医師ですが、こんな重度の患者を診るのは初めてで…。」
男性医師が首を振った。
意識がない…。と言っているのか? ふざけるな! この男だけが頼りだというのに…!
「川瀬さん! 目を覚ましてください! あそこで―― あの学校で何が――」
二人の医師を押しのけて川瀬の体をゆする。
「警部さん! 刺激を与えないでください!」
「警部!」
男性医師と部下が植山を川瀬から引き離そうとする。
植山はそれを振り払って怒鳴った。つのっていた苛立ちが爆発する。
「あんたら今回の事件がどんなものなのか、わかっているのか!? この男がどれほど重要な存在かわかっているのか!?」
「警部!」
「この男は――! ……いや… すまない…」
川瀬春介。この男が発見されたのは3日前。町内の私立高校。大脇高校の屋上。この学校で、唯一生存が確認されている男だ。
ひどい有様だった。まるで校内で殺し合いが起こったような、凄まじい光景。
かつてない規模の、無惨で奇怪な大量殺人。全校生徒の半数以上が行方不明。そして何人もの生徒が惨殺されていた。それぞれが武器を持った状態で…。
校内で激しい乱闘があったとしか考えられない。その他、目撃者などもいない。昼間にも関わらず、そのときの校内の様子を知る者はいなかった。
唯一の生存者として発見されたのが川瀬なのだ。
なんとしてもこの男に話を聞く必要がある。しかしその男さえも…。
「よほどの精神的ショックを受けたのでしょう」
「……意識はもどりますかね?」
「なんとも言えませんね…。この患者の場合は……」
「・・・・・」
強いショック。植山にはとうてい想像できないだろう。あの血生臭い現場を思い出すだけで吐き気がする。
「……彼の娘も… 死体で発見されたんです。屋上から落下したようで…」
この男も屋上で見つかった。こうなったのは娘の死が原因なのか…?
「そうでしたか…」
全員の視線が川瀬にそそがれた。だが、やはり川瀬は反応することはない。
この事件は普通ではない。今の警察はかなり混乱状態にある。3日経ってもマスコミや生徒の親族にすら詳しいこを公表できない状態なのだ。
「川瀬さん… 闇を恐れるんです」
女性医師が言った。
「恐れる? 意識がないのに… ですか?」
「ええ、しかし、目は開けていますし、瞬きもしています。つまり、起きていながら、眠っている状態なんです」
「……わけがわからない…」
「少しでも部屋を暗くすると、発作を起こします。現状を知らせようと、とりあえずお呼びしたのですが… 今は安静にしておくべきですね…」
どちらにも手を出せない状況か…。まいったな…。
「そうですか… わかりました…。また何かあれば連絡ください」
植山は部下の胸を叩いて病室を出た。
迷宮入りという言葉が頭を悩ませた。
あの男はどんな夢を見ているのだろうか?
植山には川瀬は笑っていたように見えた。
せめて良い夢を―― 植山は願った。
楽園のように明るい草原。その真ん中の小さなログハウス。
家の前の花畑で、幼い二人の女の子が遊んでいる。
川瀬は木の階段に腰掛けて女の子達を見守っていた。楽しそうな二人の笑い声。静かで平和な楽園。
その声を聞いていると、自分も楽しくなってきた。
一緒に遊ぼう。そう思った時、家の中から声が聞こえた。なぜか懐かしい、愛おしい声だった。
川瀬は笑って叫んだ。
「弥生ー! 花月ー! お母さんがおやつ作ってくれたぞー!」
「はーい!」
双子が元気に返事をした。
『完』です。
ここまで読んでくださった方に感謝します。
開始から「漆黒の遊戯」一筋でがんばってきました。
これからは他のジャンルにでも挑戦しようと思っています。
本当にありがとうございました。