四十三 復讐
屋上への最後の階段を駆け上がる頃には、戦う体力は皆無になっていた。体力の限界はとうに超えている。腹が減っては軍はできぬ、とはこのことだ。片足を上げるのも億劫になる。
3階から屋上へつながる階段の途中には、簡単なつくりの柵のような扉が道を塞いでいた。
設置されて間もないのであろう扉には南京錠が取り付けられていて、開けることも、よじ登って越えることもできなかったが、いつか手に入れていたドライバーを使って蝶番を外すことで解決した。もちろん、『立ち入り禁止』と書かれた張り紙は無視した。
もしかしたら俺も操られていたのかもしれない。俺だけがこの先に行けるように…。
すぐそこに“弥生達”がいる。
気付けば武器を持っていなかった。だが引き返す気はない。そこの扉を開ければいるのだ。
俺の娘達が――
鍵のかかっていないドアは、川瀬を最後の舞台へといざなった。
第一校舎屋上――
風はないが、冷気が肌を刺す。しかし、それがさほど気にならないのは、走ってきた川瀬の体温が上昇しているおかげか、高揚した精神のおかげか。
薄っすらと明るい舞台に、二人の少女が立っていた。
奥の一人は弥生。そしてもう一人は――
弥生……
いや、顔も髪型も、容姿は弥生と瓜二つだが別人だ。まるで弥生を真似てつくられたような姿の少女。
弥生は川瀬に背を向けて、コンクリートの塀から呆然と外側を見ている。もう一人の少女は川瀬を見つめて微笑んだ。
「花月…」
川瀬はその少女の名を呼んだ。
――あの日、妻の若奈を産婦人科へ送り、川瀬は待合室で診察が終わるのを待った。
1月に入ったばかりで、窓の外は雪がちらついていた。
「ありがとうございました」
妻が一礼して診察室から出てきた。
出産予定は今年の3月。「順調に育っている」産婦人科の先生にそう言われたと、帰りの車の中で喜んで話していた。
「名前は考えてくれた?」
そう言われ、川瀬は曖昧な返事を返した。妻が子供を産み、夫が名をつけるという約束だった。
「呆れた…。父親になるんだから、ちゃんと自覚しなきゃ」
「いやぁ、すまん。そうだなぁ、予定日が3月だから…」
赤信号で止まったとき、川瀬は言った。
「“弥生”はどうだ?」
「いいじゃない。で、もう一人は?」
「そうだなぁ、もう一人は――」
――少女は少し驚いた表情をした。
「花月? それが私の名前なの?」
「ああ… そうだ…」
今度は少し嬉しそうな表情。
「花月… そう……。よかった。これで一つ… 私の目的は達成されたわ」
名前を知ることが… 目的の一つか。
「何が本当の目的なんだ? ……弥生をどうする気だ?」
「もう姉さんは反応しないわよ。完全な抜け殻状態。大勢の友達が死にゆく様を観て、友達や好きだった人を自分の手で殺したのだから」
「お前が弥生の体を使っていたんだろ!?」
「そうね。でもその間、姉さんには自分が何をしているのか、ちゃんとわかっていたのよ」
殺させた……。葵… 優哉… みんな……
「……許さない。お前の罪は…」
俺は許せない。花月は皆を殺した。この罪は… どうやっても消すことはできないんだ。
「消せない罪? アハハ。いいのよ消さなくて、いえ、消さないでほしいわ。私の目的は…」
「・・・・・」
「復讐だから」
冷たい風が吹いた気がした。体が冷たくなって固まっていく感じがした。
……なるほど…。俺への復讐というわけか…。
川瀬の心に迷いが生じた。すべてを破壊した元凶である花月への復讐心が薄れていく。
「どうして私を捨てたの? お父さん?」
「・・・・・」
花月の言葉はナイフのように川瀬の胸を突き刺した。
川瀬は目を瞑った。約16年間も押し殺してきた罪悪感。
仕方なかったんだ――
――無事産まれた赤ん坊は、双子で、二人とも女の子だった。
幸せな家庭を築ける。そう確信して疑わなかった。
だが――
若奈は死んだ。
特に体が弱いというわけでもなく、健康体だったはず。なのに退院から数週間後、突然倒れて再び入院。
「過度の疲労が原因です」と医者に言われた。
川瀬は仕事が忙しく―― 忙しいわりに給料は少ない―― 育児や家事はすべて若奈に任せきりだった。
俺が働かないと家族は生活していけない。どうすればよかったんだ?
俺のせい… なのか…?
「ごめんなさい… ごめんなさい…」
ベッドの上で若奈は謝っていた。
若奈は回復の兆しを見せることなく、他界した。
残されたのは川瀬と二人の娘、姉の弥生と妹の花月。
川瀬は悩んだ。自分独りで二人も子供を育て、養っていけるのか。
施設に預けるのも手だが、経済的余裕は全くなく、実家に頼ることもしたくなかった。遠いし、あまり親と仲が良くなかったからだ。
そのときに思い出した。
秋澤神社……。
神主の秋澤さん… 淋しい人…。家族を… ほしがっていた――
「――あの人なら… お前を自分で育て、大事にしてくれると思った」
川瀬は泣き出したい気持ちを必死に押さえていた。
たしかにこの子は俺の娘だ。弥生の妹だ。だが俺は… あの時の俺には…。弥生一人だけなら、何とか育てていけると思っていた。一人だけなら…。
「だから私を神社に捨てたのね?」
「違う… 違う…! ちゃんと… 余裕ができたら迎えに行くつもりだった…!」
「でも、私は死んだ。その日にね」
「俺は何も知らなかったんだ…! 秋澤さんが死んで… お前の行方もわからなかった…!」
まさか死んでいたなんて思わなかったんだ!
川瀬は心の中で必死に訴えた。花月に理解してほしかった。決してお前を裏切ろうとしたわけではないと。
「本当なんだよ…」
俺は薄々わかっていたのかもしれない。ここへ来て、こんなことに巻き込まれたとき、嫌でも16年前のことを思い出した。いくらその可能性が濃くなっていっても、考えたくなかった。自分のあやまちを。
「……契約をした私は、成長しながらずっとこの地にいた。本当は、最初はもう一度お父さんに会いたかっただけ…。優しく笑いかけて、抱きしめてほしかった…。ここに高校が建って、姉さんが通い始めたのは偶然よ。そんな偶然がなければ、私に復讐心は芽生えなかったでしょうね…」
どうして私だけが幸せになれなかったの? 花月はそう言っているようだった。
「だから、今度は復讐のために、再度契約を交わしたの」
双子なのに、どうして姉さんだけが幸せになるの? と…。
「最初から… 俺だけを残すつもりだったのか…?」
俺一人がここへ辿り着いたのは偶然ではない。隠れん坊の本当の鬼は、俺一人だけだったのだ。
「正確には途中から。まさか、生き残るなんて思わなかったもの。できれば、ここを―― 私を見つけてほしかったけどね…。それに… お父さんと、遊びたかった…」
なるほど… ということは、全員が死ぬことを前提として、この復讐という遊戯を始めた。果たしてこの先のシナリオは用意されているのか?
「お前は、けっきょく全員を殺すつもりなんだな?」
「……そうね…」
花月が手で弥生に何か指示を出した。
弥生は黙ってコンクリートの塀に足をかけ、その上に立った。
「まて…! やめろ!」
今にも闇に身を投げ出しそうな弥生。川瀬は自分の足が動くことを思い出した。
そんな終わりは認めない!
弥生に飛びかかろうとした川瀬は、ドアの開く音に動きを止められた。
後ろのドアから歩み寄ってきたのは卓郎だった。
「卓郎…!」
今の川瀬には彼は救世主に等しい存在。花月を止められるかもしれないと思えてきた。
絶対に止める。川瀬は意気込んだ。
「花月… たしかにすべての原因は俺だ。親としても人としても最低だった…」
許されないかもしれない。だがわかってくれ! 俺はお前を愛しているんだ!
……こんなのは違う…。死ぬのは弥生ではない…。俺だ…! 死ぬべきは俺なんだ!
「そうだよ…。あんたのせいで祐史は……」
その声に全身の毛が逆なでされたようだった。
花月ではない…。声は後ろから―― 耳元から……。
腕が動かせなくなった。ものすごい力で両腕を背中で絞められ、うつ伏せに床に押し付けられた。
「あんたのせいで祐史は… あんたのせいで祐史は… あんたのせいで――」
なにも理解できなかった。
狂ってしまった…… すべてが……
“生きる!”卓郎が刻んだ言葉。それは皆の絶対的な目標だったはず。誰も死にたくはないし、誰にも死なれたくはない。生き残った全員が、生きようと足掻いていた。必ずなんとかなると信じていた。
なのに…! 俺達はオモチャにすぎなかったのか…!? 自分の運命を自分で切り開くことなんか、初めからできなかったっていうのか!?
川瀬をねじ伏せた卓郎も泣いていた。涙が川瀬の頬をかすって、一滴、二滴、三滴……。
「あんたのせいで祐史は死んだ……」
魂の抜けた人間のように、そればかりを繰り返していた。憎い… 悲しい… 悔しい…! そう叫ぶように。
「心が壊れた人間を操るのは簡単ね。ふふふ…」
人間というのは、ひ弱で、もろい生き物なんだ…。
「やめろ……」
人の力は強くなんかなかった。止めることなんか…… できない…!
「これで終わり」
「やめろおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
弥生の体は闇へ――
繰り返される卓郎の嘆きも、花月の高笑いも、川瀬の悲鳴にかき消されていた。
そしてエピローグへ――