四十二 遊戯
寒い…。食堂と廊下では温度差があるのだろうか?
川瀬は腕をさすった。
それまでは肌寒い程度にしか感じなかったが、今は冬に突入したのかと思うくらいだ。心の中が寒くなったせいだろうか? それなら気合でなんとかするしかない。
あいつを探そう。
あの悪魔から弥生を取り戻す。そしてこの狂った世界から脱出する!
食堂の扉に背を向けていた川瀬は、左に体を回した。保健室にいる優哉を呼びに行かなくてはいけない。まずは全員をそろえて作戦を立てたほうがいい。
コンコン…
ノックしてからドアを開け、中へ入った。
鍵をかけないなんて無用心だな。とは思ったが、気を抜くなと言われても、気抜けしてしまうのは仕方のないことだ。
「優哉、寝てるのか?」
「・・・・・」
ベッドを囲むカーテンに向かって呼びかけたが、返事がない。
寝ているのか…。
川瀬はカーテンを横に開いた。
「あれ?」
いない。暗いが、ベッドに誰かが寝ている影はない。
どこか行ったのだろう。と思いつつ、懐中電灯をベッドに向けた。
そこにはやはり誰も寝てはいない。ただ真っ赤に染まったシーツがあるだけ――
は……?
シーツに信じられないほど大量の血―― 大きな血溜りがある。
ぽた… ぽた…
シーツに、音をたてて赤い滴が一滴、一滴と早いペースで滴り落ちる。
今度は天井に光を移動させた。
一瞬、天井に大の字が描かれているように見えた。しかしそれは服を着て、靴を履いて、顔がある…。口と、目もそれに負けないくらいに大きく開いた、優哉の苦悶の顔が…。
首に深々と刺さったハサミをつたって血は滴っていた。
川瀬は呼吸をするのも忘れ、腰が抜けて尻餅をついた。意識がどこかへ飛ばされたように、ただ漠然と、ベッドに溜まっていく血だけが視界に入っていた。
どうして… 優哉が…? ……誰に…?
「・・・・・」
あいつしかいない!
悲しみよりも怒りの感情のほうが大きくなった。
「許さない…!」
もう一度、懐中電灯を手に取り、上に向けた。
天井ではなく、ベッドが着けてある壁の上のほう…。そこには血で書かれたであろう文字があった。
『ニカイ トイレ』
2階トイレ…? さっきどこかで聞いたような……。
頭の中で再生されたのは優哉の言葉だった。
『2階のトイレにいます…』『独りにしてくれと…』
あの時、階段から下りてきた優哉が言っていたことだ。
思い出した川瀬は、すぐに腑抜けになった足に力を叩き込んで立ち上がった。
その途端、ビチャッ!と優哉の体が天井からベッドの血溜まりに落下した。
どうやって天井に接着されていたのか。疑問がよぎったが、考えることもせず、胸の上まで跳ねてきた赤い液体にも気を止めず、勢いをつけてドアを押し開けた。
2階のトイレには南がいる! 絶対死ぬな! 死ぬんじゃないぞ!
2階のトイレまでは本気で走ってすぐだった。
迷うことなく女子トイレに入ると、一つだけ閉まっているドアに手を伸ばした。
ここを開けて本当に南が死んでいたらどうしよう? また優哉のように… あんな姿で死んでいたらどうする?
川瀬はとりあえず呼吸を整えた。
何が隠れん坊だ! あいつは全員を殺すつもりなんじゃないか!?
どうしようもなく、狂ってしまいそうなほどの憤怒にさいなまれた。このまま自分を忘れて壊れてしまうのではと思ったとき、脳が怒りにブレーキをかけた。
頭の熱が下がり、冷静な思考ができるようになって、ようやく個室の中から小さな息づかいが聞こえていることに気付いた。
「南! いるのか!?」
「……おじさん…」
中から声が返ってきた。
葵が生きているとわかって、とりあえずは安心してドアを押した。
葵は便座式のトイレの前に立っていた。何かあったのか、立ったまま震えて涙を流している。だが外傷はないようだ。ちゃんと、生きてそこにいる。
「南…」
川瀬から安堵の息がこぼれた。
「おじさん……」
葵の声が震えているのは、他ならぬ恐怖によるものだと思った。
安心しろ。俺が守ってやる。
川瀬は葵に手を伸ばして肩に置いた。
葵は何かを伝えようとしていたようだが、それはここを出てからでもかまわない。落ち着かせてから話を聞けばよいのだ。
『こ』『な』『い』『で』
そう口が動いているように見えたのも、光を当てたとき、彼女の首のところで何かが細く光ったように見えたのも、気のせいだ。
動かない葵を連れ出そうと、彼女に近づいたとき、その考えがどれほど愚かだったかを思い知った。
川瀬の足に足元で細いものを切断した感覚があった。
<ヒュンッ!>
何かが空気を切る音。
足元を見ても何もない。気になったのは顔の数センチ前を漂う赤い糸。それは空中に浮いたまま横へ伸びていた。
それが見えない糸をつたう真新しい血の粒だとはすぐにはわからなかった―― 数秒後にそれと気付いた頃には何もかもが手遅れで、葵の固まった表情が、血の糸にピントを合わせた川瀬の眼にぼんやりと映っていた。
「ミナミ――」
首の定位置からずれていく葵の頭部。果てない恐怖を感じたまま視界の下へ消えていく。ただ川瀬の顔だけが虚しく苦笑していた。
<ベシャベシャッ!>
生臭い液体を帯びた肉が固い床に衝突する音は、川瀬の耳にも聞こえていたが、川瀬は反応しなかった。
個室内に張り巡らされていた糸は、何らかの条件で凶器となって葵の体を切り刻んだ。糸は凶悪にも葵の頭部だけではなく、両手、両足ともを胴体から切り離していた。五体を失った体は、血を吹きながら川瀬の足に寄りかかっている。
川瀬は糸に触れようと手を近づけた。川瀬の手は空を掴み、それまで幻覚でも見ていたかのように、そこに糸はなかった。
これで終わりのはずはない。また何か手掛かりを残しているはずだ。
川瀬は、自分を取り囲む壁、便器、天井を照らした。しかしどこにも手掛かりのようなものはない。
何か目的があったはずだ。これは… そういう“遊び”なんだ!
これまでにないほどの凄まじい感情が込み上げてきた。怒りに似ているが、それを超えるほどの強烈な感情――
「殺してやる…」
――復讐心。
必ず見つけ出して殺してやる。
頭の中でフラッシュバックしたのは、仲間達の死に顔。誰もが苦痛や悔しさをまとったまま死んでいった。化け物となった生徒や教師達も同じだ。
それまで目を向けることすらできなかった足元の葵へとようやく視線を移した。
胴体からもうほとんどの血液が流れ出たのだろう。川瀬のスニーカーは血の海に浸かっていた。
足に寄りかかった胴体を優しく床に倒してやってから、転がった頭部の開いたままの目を閉じてやった。
『コウテイ』
胴体の背に、赤い文字が殴り書きされていた。
次は校庭か。あいつはそこにいるのか? それともまた誰かが犠牲に…?
……考える余地はない。川瀬はすぐに指定された場所へ向かった。
卓郎は… 祐史は無事だろうか?
川瀬の復讐心は走るたび―― 足を前に出すたびに少しずつ膨らんでいった。
無事なはずだ。あの二人は――
生徒玄関から出て部室棟を抜けた先に校庭はある。校門とは逆の方向だ。
一周500メートルのだだっ広い庭。そのどこに次の手掛かり―― もしくはあいつがいるのかはすぐにはわからない。
校庭の入り口から一通り見回す。すると角のほうで大きな木が目に留まった。
あそこか…?
そう感じた川瀬は、一直線にそこへ走った。
この木はたしか、秋澤神社の頃の神木…。しかし、後に伐採されたと聞いたが…。
風のない世界で、その大木は枝を揺らしていた。何かの記憶であるかのように…。小さな神社の土地を取り込んで建てられた学校、心無い人達によって伐採された神木。それが目の前に蘇ったかのように……。
過去のあの場所に戻った気がした。
手の届く距離まで近づいた川瀬は、神木に手を触れた。そう命令された気がして、川瀬はそれに従ったのだ。
神木から何かが腕を伝って全身に流れ込んだ。そのエネルギーのようなものは全身を駆け巡って川瀬を身震いさせた後、脳に音のない映像を送り込んできた。
古い神社。赤い鳥居。ご神木。すべてがあの時のまま…。
これは何かの記憶…?
白い塊が神木の前に置き去られていた。
川瀬は第三者目線ですべてを見渡していた。
白い塊は生き物であることがわかるが、まるで死んでいるように動かない。いや、死んでいるのかもしれない。
しばらくして老人がやってきた。
懐かしい男の顔だ。秋澤神社の神主。
今となってはとっくに他界した人物。川瀬がこの人物に対して抱いていた印象は“淋しい老人”だった。家族がいないらしい。そういう噂を聞いたことがあった。淋しそうな風貌をしていても、誰にでも愛想の良い人物だった。
そう、だから俺はこの人に――
老人は、白い塊を驚いた表情で抱き上げた。
次に映ったのは、神木の下に作られた石のだるま。
これは死んだあの子の…?
死んだ…? 死んだ… のか…?
映像は途切れた。
川瀬は神木から手を離した。
……すべてがわかった。すべての謎が解けた。
「……花月…」
ふと第一校舎の屋上を見ると、赤いものが光ったように見えた。
最後はあそこか…。
もう川瀬には驚きも、恐怖も、疑いもなかった。
俺がすべてを終わらせなければならない。すべてがそれを暗示している。
待っていてくれ、弥生。
もう少しだけ、形のある幸せを望んでいたのかもしれない。
両親を失った卓郎は、6年間、家族の思い出に苦しまされていた。あれから毎晩寝る前は、楽しかった頃を思い出して涙し、眠りについてもあの事故の悪夢に苦しんだ。以来、卓郎の人格は大きく変わった。
たまに、涙って何だろう? と疑問を感じるようにもなった。
事故から2年で一生分の涙を流し、悲しみという感情を心の奥に封印した。
なのになぜ…? この感情は何だ?
「ったく… お前は馬鹿だよ……」
卓郎は、冷たくなった親友の傍らに座っていた。
あれから探索を再開した卓郎が、第二体育館への渡り廊下で目にしたのは、うつ伏せで血を流している祐史だった。すでに生命活動を停止した体は、寒い屋外で冷えきっていた。
祐史の足からは、後方へ5メートルほど、苦しみ這ったであろう痕跡。
痛くて苦しかったはずだ。それなのにお前は――
「幸せそうなツラしやがって……」
祐史は笑っていた。
なぜ皆先に逝っちまうんだ? 皆、俺を独りにしやがって…。
また、思い出が卓郎を苦しめた。
俺… ほんっと… 素直じゃなかったよな…。マジで… お前には感謝していたんだぞ…。
目の前が霞んだ。
祐史… お前は皆と違って楽しく死ねたんだよな? そうだよな?
頬を伝った涙は温かく、しょっぱかった。
「なんだ。お前でも泣けるじゃん」
祐史が語りかけてきたように思えて……
「うるせぇよ……」
卓郎は悲しい笑いを返した。