四十一 接吻
弥生は竹下を完全に圧倒していた。
力だけではなく、覇気も、何もかもが竹下を上回っている。
「さあ、そんなことよりも、あなたはなぜ、今だここに残っているのかしら?」
“先生?”弥生の言い方は皮肉たっぷりだ。
「あの子達を… 見守るためよ」
「見守る? 結末を見守るという意味かしら?」
「必ずしもあなたの思い通りになるとは限らない。あの子達には、あなたの思想を打ち破る力がある」
「ふふふ… たしかに、大きく予想外なことはやってくれたわ。でも、この後は… どうかしら?」
「やっぱり、あなたは危険すぎる…」
竹下の声は更に低くなった。
「危険なのは先生も一緒…」
「あなたと一緒にされたくないわ!」
「一緒よ、あなたも私と同じ契約者」
「あなたのように卑怯じゃない。そこまで人を利用して、何を望むの?」
「……私の望み? 私の望みは――」
「・・・・・」
「ふふふふ… あははははは…!」
今度は狂ったように高笑いして、後ろから刃物を取り出した。
「あははは…! あなたには関係ないし、あなたはもう用済みよ。ま、けっきょく何の役にも立たなかったけどね。これも誤算と言えば誤算ね」
直前に何かを傷つけたような、生々しい鮮血にまみれた包丁。
「ちょっと―― まって――」
「さよなら。馬鹿女」
弥生が揺れるロープを包丁で切断した。ロープは、スパッと紙を切るようにたやすく分断した。同時に、竹下の首のあたりに線が入り、そこから血のように漆黒の闇があふれた。
「あなたの思い通りには―― ならな―― い――」
竹下は闇に包まれ、消滅した。明るかった空間は、照明が落ちたように暗くなり、その中では弥生一人が微笑んでいた―― あざけ笑っていた。
ハハハ…… 情けないな……
手を前に伸ばしても、誰も助け起こしてはくれない。
下腹の傷口から流れ出る大量の血。体を動かすとそれは勢いを増し、叫ぶほどの痛みをともなって襲いかかってくる。
止血が必要だ…。俺がこんなことで死ぬわけないだろ――
――もしかしたら、この“遊び”は永久に続くのかもしれない。
第二体育館と第二校舎をつなぐ渡り廊下を進みながら、祐史は真面目にそんなことを考え始めていた。
馬鹿げてるかな? タクに言ったら殴られそうだ。
竹下と話をして、知りたかったことは、ほとんど教えてもらえなかったが、だいたいのことはわかった。ただその話で、弥生が本当の悪党である可能性が更に深まってしまったことは、否定しようもない事実。しかし、弥生のことは今でも好きだ。彼女がどんな悪党であっても、そうではなかった頃の彼女をよく知っている。たとえそれが偽りの姿であっても。
いや… もしかしたら今の彼女は……
祐史は、些細な可能性を信じようと思った。
よし!と声を出して気合をいれると、途端に卓郎や他の皆と早く合流したくなり、歩調を速めた。
<カチャ…>
吹抜けのところまで来たとき、数メートル先の第二校舎の扉から化け物が姿を現した。
「動いてるやつもいるのか…!」
腕や制服を血で染め、顔を下に、長い髪を前に垂らした状態のその女生徒を前に、文句を言って包丁を突きつけた。相手は血にまみれた姿だが、武器を持っていないように見て取れる。
俺は殺人に対して、妙な興奮を覚えていた…。それは竹下佳世の言う邪悪な魂になりかけていたということだろう。あのときまでの俺はどうかしていたんだ…。もう殺したくないが、やむ終えない。さっさと殺してしまおう。
女生徒は、2歩前に進むと、重たそうに頭を持ち上げた。
点々と、赤黒い斑点が散ったその顔は――
「か… かっ…」
驚きのあまり声を出すが、その声は言葉にならない。
化け物ではない。いくら血で染まっていようと、その顔を見間違えるはずがない。愛する川瀬弥生の顔。
祐史は、包丁を前に向けたまま、握る手にいっそう力を入れた。一つの可能性に期待を込めて…。
「川瀬、お前は……」
額から口元に流れてくる冷や汗を噛みしめて、赤く充血した弥生の眼をまっすぐに見た。人の良し悪しを表すのは、顔ではなく眼だと、いつか本で読んだことがある。
校門前のときのような恐怖はその眼からは感じ取れない。
「森崎君……」
弥生の目から涙がこぼれた。
よたよたと、弥生が祐史に近づく。
大丈夫だ。そう思ったとき、祐史から緊張が消えた。包丁をベルトに差し込んで、後ずさりはせず弥生を待ちかまえた。
「森崎君っ…!」
「川瀬…」
弥生は甘えるように、血塗られた腕を祐史の首に回して泣いていた。
彼女をこんなにも近くに感じたことはない。もうこのままどうなってもいいと思うほど、祐史は幸福だった。
「私… 私…」
弥生はしゃくり上げながら何度も謝った。祐史は弥生の頭に顎を置いて、髪をなでてやる。
汗と血の臭いしかしないが、関係なかった。まさに永遠に続いてほしい時間だった。シチュエーション的には最悪だが、気持ちを伝えるには最高のチャンスだと思った。
「……俺な… 前から川瀬のこと…」
今までずっと言いたかったことを今―― 好きだ、と。
しかし、その言葉を口にすることはできなかった。気迫がなくなったわけではなく、寸前に口がふさがってしまったのだ。
全身を包み込むような、温かみとやわらかい感触。二人の唇と唇は熱く重なり合っていた。
どれくらい続いただろうか。祐史にとっては短い時間だった。嬉しさ以前に、驚きしか感じなかった。
弥生は祐史の口から唇を離すと言った。
「ごめんなさい。ありがとう…」
「いや…… こちらこそ……?」
脳が、溶けたかのように正常に働かなくなっていた。だから気付かなかった。ベルトから包丁が抜かれていることに…。
包丁は弥生の手にあった。
え…? 川瀬…?
弥生はまた涙を流した。
「さよなら……」
殺される! そう思い、悔しさと泣きたい気持ちを抑えながら、後ろへ回避行動をとった。
だが違う。弥生が両手で握り、振り上げた包丁の刃先は、なぜか下を向いている。
「おい……」
そのとき悟ったのは、さよならの意味。あれは祐史の死を示していたわけではなかった。
包丁は、弥生自らの腹に向かって空気を切った。
<ザスッ…>
包丁は肉を裂いた。
「馬鹿かっ…!」
「森崎君…」
包丁が刺さったのは弥生ではなく、祐史の右腕だった。
「お前が死んでどうするんだ…!?」
深々と腕に刺さった包丁の根元から、じわじわと血が湧き出てきた。刃が抜かれて血液が噴き出しても、強い痛みは感じない。弥生を救いたくて必死だった。
俺は川瀬を救いたい! 救いたいん―― だ……。
弥生は笑っていた。
そして、気付いた。自分の下腹に包丁の刃が半分以上埋っていることに。それは皮をすりぬけ、筋肉を破り、内臓にまでも達しているようだった。
「くっ… あぁっ…!?」
激痛で声が出ない。
目を見開いて弥生の顔を見ながら、祐史は崩れた。
それを見下す弥生の眼は……
「くそっ… お前は誰っ… だ……」
祐史はうつ伏せのまま精一杯、弥生を睨みつけた。
「ふふふ、さよなら森崎君」
一瞬、意識が遠のいた間に、弥生はいなくなっていた。
「ぐぅっ…! つ――…」
情けないぜっ…! 情けないっ!
「ううっ!」
でも、これで些細な可能性は確実なものになった。
あれは川瀬弥生ではない!
間違いない。眼の色が変わった。途中で別の何かとすり替わったんだ。
傷口を押さえても指の隙間から血は流れ、脳が機能しなくなり始めている。
男って、どのくらい血が減ったら死ぬんだっけ?
余計なことばかりを考えてしまう。それが更に血液の流出を促進しているような気がした。そしてそれを補うかのように呼吸が激しくなる。
「あうっ…!」
痛いな、ちくしょう…! 苦しんで死なせるように腹を刺しやがったな…?
「はっ…! はっ…! はっ…!」
くっ! 今度は眠気が……。よくあるパターンだ。ここで寝たらもうあの世だよな…。俺じゃぁ… 悪魔は契約を持ちかけてはこないんだろうな…。
次に目を閉じたら死ぬ。そう自分に言い聞かせる。
まだ死ねない…。川瀬を助けるために…。早く皆のところまで――
「――どうした祐史?」
面倒くさそうな、いつもの卓郎の声。
朝の教室はいつものようにいろいろな話が飛び交っていた。
「ねえ、それでそれで?」
弥生が興味津々に話の続きを求めた。
「あ、ああ、それで先輩がさー、それを触ってみたんだって。そしたらそれは太い胴体をくねらせて逃げたんだ」
「ハッ、また、からかわれたな」
卓郎がそっぽを向いて鼻で笑った。
「まったくよぉ、ほんっとうに感動のないやつだなー」
いつものたわいのない、笑いにあふれたやり取りだった。
あとほんの少しだけ、お付き合い願います。