三十九 休戦
2階の廊下――
優哉は単独、ある人物を探していた。
川瀬弥生が現れ、校舎内に“隠れた”後、生存者達は各々が思い思いの行動を取った。
感情に任せ、場を去る者、先のことを考える者、目的があり、独りどこかへ行く者と、それぞれだが、共通しているのは、誰も隠れる者を探そうとしないことだ。
もちろんそれは最終目的で、皆がそのことを忘れているわけではない。ただ、一時休戦という形をとっているだけなのだ。
あれ以来、校内は況して静かになった。1階の廊下に、土塊の山が一つできていたことから、どうやら喰屍鬼は全滅したようだ。静かになったことから、人の化け物もいないのだろう。
まだ99パーセント危険だというのは承知しているが、追われる立場から“鬼”という追う立場になれたことは、なんとなく心が楽になる。
優哉は耳を澄ませた。
「・・・・・」
あっちか…。
顔を上げて廊下を更に進んだ。
もうここへは来ないと、固く決めていた優哉の足取りは重かった。友人を自らの手で葬った場所であり、恋人を失った場所。できる限り目を瞑って歩いた。しかし…
ここに死体は無かった。天井や壁、床に無数に散った血痕はそのままだが、死体が無い。
「生贄…」
弥生の言葉を思い出した。
生贄とはすなわち、神や悪魔に捧げる生きた貢物…。生贄は悪魔の餌となる…? 皆、やつらの餌となったのか…?
「悪魔め…」
今度は僕が葬ってやる。
2階女子トイレ――
個室から誰かがすすり泣く声が聞こえる。
優哉は深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
「うっ… うっ… ぐすっ…」
「・・・・・」
個室の閉じたドアを前に、なかなか言葉を出せなかった。
中にいる者は、優哉に気付いていないようで、ただ一心に泣いている。
「……南さん…」
勇気を出して発した言葉に、中にいる者は、はっ、と泣くのをやめた。
「……何よ…? あんた…」
少し上ずった声で、中の葵が返した。
驚かせてしまったようだ。いきなり話しかけるのは失礼だったか。と、そのとき後悔した。
「ちょっと… ここ、女子トイレよ…?」
「わかってる…。南さん… 話があるんだ」
「由真のことなら… 謝らないでよ…?」
「え…? あぁ… いや、僕にも責任があるし…」
図星だった。優哉がここに来たのは、由真のことで葵に話を聞いてほしかったからだ。
「そうね… でも由真は… 死んだのよ」
「・・・・・」
「馬鹿よ… 隠れてればよかったのに…… 馬鹿よ…」
「……ごめん…」
「謝らないでって言ったでしょ? 誰も悪くはなかったの。言ってみれば私が悪かった…。あの子、私をかばって死んだんだから…」
葵はべつに優哉を責めてなどいなかったと、優哉もそれをわかっていた。ただ辛かった。守れたかもしれない命が失われてしまったことが。そしてそれによって悲しむ人が近くにいることが。
見たことのない葵の悲しむ姿が、余計に優哉を困惑させていた。
「ごめんなさい…。あなたは悪くなかったのに…。ごめんなさい……」
「いいよ。僕も悪くなかったわけじゃない…」
助けようと思えば、助けられたかもしれない。あとほんの少しの勇気と、ほんの少し、自分に勝つ力があったならば…。
「ごめんね……。ちょっと… しばらく独りにさせて…」
「うん… 気をつけてね…」
誰かを失った悲しさは、底なし沼のように自分をどこまでも溺れさせてしまう。その沼から這い上がる精神力を持たないと駄目なんだ。
理枝が何かをささやきかけたようだった。それは、再びトイレから響く、葵のすすり泣く声であった。
階段を下りたところに川瀬がいた。
どこかへ向かっていたらしく、歩みを止めて優哉に向いた。
「よお、南はどうした?」
「2階のトイレにいます… 独りにしてくれ、と」
優哉は疲れていた。葵と話ができて、彼女の口から、恨んでいないということを聞けて緊張が解けたのだ。優哉には今はそれだけで満足だった。
今はゆっくり休みたいと思った。
「わかった。気を抜くなよ」
「わかってます」
短い会話を終え、川瀬と別れた。
保健室に入った優哉は、すぐにベッドに寝転んだ。
怖くてたまらないはずなのに、独りになりたい。優哉も葵と同じ気持ちだった。
遊びの続きは… 後でいい…。
眠るつもりはない。ほんの一瞬だけの休息を…
しばらくして、ドアの向こうで足音がしたが、気にはならなかった。
川瀬は、保健室の前で優哉を見送った後、その隣の食堂へ入った。
入ると、青い炎が厨房のほうに見えた。
「何してるんだ?」
卓郎が厨房のコンロでヤカンを火にかけていた。
相変わらず落ち着きのある、頼もしい背中。卓郎はヤカンから川瀬へ目を移した。
「コーヒー、おっさんも飲みます?」
「……ああ、もらうよ」
卓郎がコーヒーを作っている間、川瀬は椅子に腰掛けて弥生のことを考えた。
「ブラック? 砂糖は?」
と、時々卓郎が話しかけてくる。
「ミルクなしで、砂糖を頼むよ」
川瀬はそう答えて再び考えにふけった。
悪魔との契約。契約の生贄。隠れん坊。そして何よりも、弥生のこと。あんな弥生は見たことがなかった。いつも大人しく、優しい弥生しか川瀬は知らない。
認めたくないという気持ちと共に、とある過去の出来事が頭をよぎった。
「秋澤神社…」
忘れられないその名前。昔、この地に建っていた神社だ。
あれこれ考えているうちに、卓郎がテーブルのところへやってきた。
卓郎は、川瀬の前にコーヒーを置くと、向かいの椅子に座った。
「ありがとう」
熱いコーヒーを少しすすると、幾分ホッとする。
卓郎が、ミルクの入っている自分のコーヒーを一口飲むと、言った。
「おっさん。悪魔って、信じます?」
「悪魔… ああ、信じるよ… 今は」
「悪魔との契約… あいつはそう言ってたな。契約によって力を手に入れた、と」
「俺にはわけがわからない…」
やっと謎が一つにまとまりかけている。だがその答えは… 川瀬にとってあまりに酷なこと。
「はぁ… やっと俺がここにいる理由を理解できた」
「気を落とすことはないよ。きっと、川瀬は…… ああ、あいつがあんなことをするはずがない」
「ありがとう……」
コーヒーの苦みが心地よかった。
「さて、困ったあいつを探さなきゃな」
呟きながら卓郎は、木製のテーブルの、空になったカップの横にナイフで何か彫っている。
「君はどこに隠れたと思う?」
「校内のどこか… 特殊な場所じゃないか? 校庭… 体育館… 屋上…」
暗闇で喋る卓郎の顔には、恐怖の色は全くうかがえない。冷静にこの遊びの真理を思量しているようだ。
「……なあ、どうして君は、そんなに冷静でいられるんだ?」
その問いに、卓郎は一瞬、ナイフを動かす手を止めた。
「冷静か…。そうだな、俺の人生って… おまけみたいなものなんだ」
川瀬は首を傾げた。
「6年前… 俺は死ぬはずだった」
そう言うと、持っていたナイフを手の平に乗せて、柄の部分をじっと見た。
そこに『T』という文字が刻まれている。
「河上卓馬… このナイフは俺の父さんの形見なんだ」
「形見って…」
「俺の父さん、警察でさ。警部やってたんだ。なかなか固い人でさ、いつもごたごたに巻き込まれて…」
卓郎の表情が変わった。過去を思い出し、まるでその時の幸せに浸っているような。
「そんな性格だから、ある暴力団とも深いところまで関わってたんだ。それであの日―― 6年前、父さんと母さんと俺、親子3人で旅行に行こうと山道を走ってて、その時大型トラックが俺達の乗った車に突っ込んできた。そのままガードレールを破って崖下に…。俺には何がどうなったか、わからなかったけど、目が覚めたら病院のベッドで…。俺だけが生きていた」
その部分を語る卓郎の表情は、少し曇っていた。
「人目につかない道路だったし、そのトラックも逃げていて…。犯人は捕まってない。でも後で父さんの友人だった刑事から聞いたんだ。この事故は偶然じゃなく、おそらく父さんが関わっていた暴力団の仕業だと。いろいろ邪魔だったんだろ、父さんの存在が」
「……すまない。嫌な話させて」
「いや、もう昔のことだし、今は祖父母が親代わりだし…。『強く生きろ』『自分の身は自分で守れ』が父さんの教訓だったから」
話し終えると、再びテーブルの上でナイフを動かし始めた。
「……そういえば、それからかな…。俺が泣けなくなったのは…」
カリカリと、ナイフで木を削る音だけが、数十秒間、響き続けていた。
“生きる!”
動きを止めた卓郎の手元には、力強い文字が刻まれていた。その文字に励まされたような気がして、気力が湧いてきた。
川瀬は勇んで、両足の裏で床を踏みしめた。
その頃、祐史は第二体育館の扉の前にいた。
持ち物は懐中電灯と包丁。武器は念のために構えておく―― それが癖になってしまったのかもしれない。
周りには援護してくれる者も、ピンチになったとき助けに来てくれる者もいない。だが祐史はなぜか確信していた。ここは安全だ、と。
祐史が独りで行動したのには理由がある。
どうしても、あの人ともう一度二人で話をしたかった。しなければいけないと思ったからだ。
「あの人はここにいる」
誰に対してでもなく頷いていた。
いよいよ終わりが近づいてきました。