三‐‐‐‐ 狂喜
暗い廊下の床で、奥川巧は目を覚ました。
「・・・・・」
ここはどこだろう? 家… じゃない… 学校…? なぜこんな所で倒れているんだ?
…これは夢?
手を動かすと、床が冷たいことに気づく。
巧はそのまま起き上がり、辺りを見回す。
まだ九月なのに妙に肌寒い。さっきまで倒れていた部分が周りの床と対照的に温かい。
だんだん意識がはっきりしてきた。
廊下か…。3年生の教室が並んでいる。3階の廊下のようだ。
何があったんだろう?
巧はしばらく考え込む。
2年3組の教室に戻ろうとしたら、突然すごい耳鳴りがして… それから…。 よく覚えてない。
外は真っ暗だ。こんな時間まで気絶していたのか?
巧は腕時計を見た。針は1時12分で止まっている。
そういえば、耳鳴りがして気絶したのもそれくらいの時間だった…。倒れたときに壊れたのか?
でも変だな…。気絶していたのなら、なぜこんな所に? 廊下の真ん中で気絶していたら、誰かが気づくはずだ。そのまま置き去りなんてあり得ない。
突然、背後で足音が聞こえた。
考えるのは後だ。とにかく家に帰りたい。
足音は階段を上がってくる。
おそらく見廻りの先生だろう。たぶん怒られるな…。
ま、でも理由を説明すれば…。
階段は、少し先の角を曲がったところにある。ここから階段は見えない。当然向こうはまだ僕の存在に気づいていないだろう。
どうしようか、びっくりするだろうな…。
「あのー、先生」
巧はまだ見えぬ相手に小声で話しかけた。まずは、自分の存在を相手に知らせなければならない。
「誰かいるのか?」そういう返事を期待していたのだが…。
足音は止まったが、返事はない。
「あのー… 先生…?」
巧は再度話しかけたが、やはり相手から返事はない。
普通の人なら、幽霊かもしれないと思うものであるが、あいにく巧はそういう類を一切信じない。
仕方ない、こっちから行くか。
巧は相手に話しかけながら階段へと向かった。
「すいません、先生。実は―」
角を曲がったところで何か音がした。
「バキッ…」という何かが耳元で砕ける音。低く、鈍い音が…
あれ……? な… に… が……?
何も考えることができなくなった。
ぼやけた人影が赤く染まる。視界全体が赤く染まっていく…。
「ああああぁぁあぁぁあぁぁぁぁ…!」
命が尽きる寸前、巧は自分が叫び声を出していることに気づいた。
その後は、もう何も分からない…。
川瀬は遠くから響く叫び声で目が覚めた。
辺りは暗い。すばやく起き上がり、なぜここにいるのか、なぜ倒れたのかを思い出す。
「弥生…」
そうだ、娘が助けを求めている。
この学校で何が起きているのかはわからない…。だが、弥生が危ないことは確かだ。
そういえば、あの子は?
倒れていた女生徒は、いつの間にかいなくなっていた。
「生きていたのか…?」
川瀬は呟きながら立ち上がった。
悲鳴…。そういえばどこかから悲鳴のような声が聞こえた…。倒れてからどれくらい経ったんだ? 時計は止まっている…。だが、外も内も真っ暗だ。もしかしたら、弥生はもう…
川瀬は首を振った。「そんなわけない。そんなこと考えるんじゃない」と自分に言い聞かせる。
「いやああぁぁぁぁ…!」
突然、沈黙を破るかのように響いてくる甲高い女性の叫び声。さっきよりもはっきりと、しかもわりと近くから聞こえた。
「弥生?」
川瀬は、悲鳴が聞こえたほうへ走り出した。
小ホールから左右に分かれる廊下を左に曲がり、教員室の前を通り抜け、その奥の階段を登る。
時折何かにつまずき転びそうになるが、そんなものを気にしている場合ではない。
悲鳴からは弥生かどうか断定できないが、とにかくここで何が起きたのか、何が起きているのかを知りたかった。
一階から階段を駆け上がり、2階へ―
<ドンッ!>
「きゃっ…!」
突然胸に重いものがぶつかった。
「うわあぁぁぁ!!」
「きゃああぁぁ!!」
そして、そのままバランスを崩し、階段を転げ落ちた。再び一階へ。
「いっ… つつっ…!」
「いったぁぁぁ…!」
幸い頭は打たなかったものの、肩甲骨を強打してしまった。
「なんだ…?」
隣を見ると、少女が跪いて左腕を押さえている。どうやらこの子がぶつかってきたようだ。
「君は…」
「いやあぁぁ!」
「まてっ!」
川瀬はとっさに、逃げ去ろうとする少女の腕を捕まえた。
「放してぇえ!やめてえぇぇ!!」
少女は必死に振り払おうとするが、さすがに男の大人とでは、力の差がありすぎる。
「まて!どうしたんだ!? 何があった!?」
「え…」
川瀬の言葉を聞き、途端に少女は大人しくなった。
「なぜ逃げるんだ?」
「・・・・・」
少女は答えない。ただ川瀬の目を見据えている。
「…あなた… 人間?」
何を言っているんだ、この子は?
「俺が悪魔にでも見えたか?」
川瀬は少女の腕を解放した。
「ううううぅぅっ…!」
泣きながら川瀬に抱きつく少女。
茶色がかったショートヘア… やはりそうだ。この子はあの時、小ホールで倒れていた女生徒だ。
「教えてくれ、一体何があった?」
「…こっちが聞きたいわよっ…! みんな… みんながぁ…ぁ…」
みんな…? みんなって―
コツ… コツ… コツ…
「ん?」
誰かが階段を下りてくる。
「逃げないと…」
少女は川瀬の手を引き、逃げようとする。
「まて、逃げるって?」
コツ… コツ… コツ…
足音の主はどんどん近づいてくる。
「はやくっ! はやく!!!」
「誰から逃げるんだ!? 誰がいるんだ!?」
引っ張る少女の手を振り解きながら川瀬は問いただした。
コツ… コツ……
足音が止まった。
ふと階段を見上げると、そこには男子生徒が立っている。
しかし、暗くてよく見えないがその生徒の白い夏服には、べったりと黒い影が染み付いている。
しかも右手には……… ナタ…?
そいつの右手には黒い影― 血が滴るナタが握られていた。
「・・・・・」
川瀬は沈黙した。
なんだよ、こいつ… 頭がいかれているのか? この少女はこいつに怯えていたのか?
コツ…コツ…コツ…コツ…
男は再び階段を下り始めた。さっきよりも速く… まるで獲物を見つけ、狂喜しているかのように…
「はやく!」
再び手を引かれ、我に返った川瀬は今度は逃げることに異論はなかった。
逃げなくてはいけない!
しかし次の瞬間、その思いも叶わぬと悟った。
さっき川瀬が走ってきた廊下の先にも、うごめく影が3、4つ。それぞれが武器を振りかざしている
背後にも通路があるが、そちらのほうも2人いる。
「やばいな… 囲まれた…」
それぞれの影がだんだんと近づいてくる。
「ひ… ひひひひ… ひひひひひひひひひひひひひひ…!!!」
ナタ男が突然奇妙な笑い声を発した。
それにつられるかのように、ほかの影たちも一斉に同じように笑い出す。
人の声ではない。人の発声器官から出せるはずのない奇妙な声。
頭が痛い…
「倉庫!」
少女が叫んだ。
指差し示した方向、教員室の隣にドアがあるのが見えた。丁度ぎりぎり捕まらずに入れる位置だ。
川瀬は少女の手を引き、迷わずそのドアを開け、中へ滑り込んだ。
<ガンッ!>
ドアが閉まる直前、隙間へとナタが入り込んできた。
「くっ…!」
必死に閉めようとするが、ナタがしっかりと食い込んで閉まらない。
「ひひひヒヒひひィひひひひヒひひィィひひひひひィ!!!!!」
ナタ男が隙間から中を覗き込こんでいる。
「!!!」
間近でその顔を見て、思わず力が抜けてしまった。
黒みがかった顔に飛び散った鮮血。そして、眼はその血痕よりも深く重い赤。
<ガッ!>
一瞬力を抜いたせいで、ナタがより奥まで入り込んできた。ナタを握る手が目の前に見えるほどに。
そうだ…! たしか…!
川瀬はすばやくポケットを探り、果物ナイフを取り出し、ナタ男の手に思い切り突き立てた。
「ィびャあ゛ぁあァァァ…!!!!」
気味の悪い悲鳴を上げ、ナタ男の手が引っ込むと同時に、ドアを勢いよく閉める。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
ドアに鍵を掛け、川瀬は力なくその場に座り込んだ。