三十七 神風
川瀬は、車を支えにして立ち上がった。
「くそっ…」
頭の痛む部分を指で押さえた。側頭部を殴られたようだ。
ああ… よかった。血は出ていない。
「……おっさん…」
傍らで、倒れたままの卓郎が川瀬に話しかけた。
「おう、大丈夫か?」
「ああ、祐史は?」
祐史も卓郎と同じで、そばに倒れている。呼吸はしているようだ。
「大丈夫。生きてる」
「よかった…」
友人の無事を聞いて多少元気になったのか、卓郎も立ち上がって頭のヘルメットを取った。
「あいつを殺さないと、また犠牲が出る…」
少し離れたところの幸司を見ると、ちょうど掲げていた死体を投げ捨てるところだった。
幸司の体に隠れて見えなかったが、誰かが餌食になったのだ。
「でも、今なら… 車を発車できる」
そう、もう行く手を阻むものはない。ホール前は静まっている。
「グオオオ!!!」
幸司はまだ満足していないようだ。おそらく、この場の全員を殺しても満足はしないのだろう。
人間的な選択は――
二人は顔を見合わせ、同時に走った。どう戦うか。そんなことを考える暇はなかった。
車の陰に独り残された大脇は、不安で落ち着かなかった。
気がついたら隣に由真の姿がなかったのだ。どこかへ逃げたのだろう。
……怖い……
巨大な影が暴れまわっている。そんなもの見たくもなかった。
「こっち向け! のろま!」
川瀬と卓郎が巨大な影を挑発した。
「やめてくれ…」
大脇は二人のその行動に対して、激しい怒りを覚えた。
毎回毎回、なんて無茶苦茶な連中だ! あいつらは何がしたいんだ!? あいつらが死んだら本当に私独りになってしまう! それに、計画はどうしたというんだ?
大脇は卓郎から、計画の大筋を簡単に説明されていた。
車に爆弾を積んで校門の向こうへ突入させるなんて、これもまた無茶苦茶な計画だ。しかし、もっといい計画を考えられるのか、と言われても何も言い返せない。
無茶苦茶な計画だが、乗ってみようと決めたのだ。
それに… あいつらには借りもある。
大脇は、身を屈めて車の陰に隠れながら移動した。
巨大な怪物を相手に、川瀬と卓郎は戦っている。間合いを取りながら慎重に。戦っているというよりも、誰かを守っているようだ。
二人のおかげで、怪物は大脇の存在に気付いていないようだ。
大脇は中腰のまま自分の車へ向かった。
車の近くに祐史が倒れている。
震えながら呼吸をしている祐史を、引きずって車から遠ざけた。
「ううー…」
祐史が目蓋を絞って呻った。
落ちていたヘルメットを被り、エンジンの音に雑じって運転席のドアを開けると、ガシャン!と、どこかのガラスが割れた。続いて近くから聞こえた咆哮に驚いて、隠れるように慌てて座席に座った。
タイマーは、すでに30秒にセットされていた。
使い方などは聞いていないが、キッチンタイマーのスタートのボタンで作動するのだろう。
大脇はフロントガラス越しにホールを見た。
真っ赤な光は、まっすぐこちらを照らしている。遮るものはない。
何度も深呼吸して心を落ち着かせる。
なぜ私はこんなことをしているのか…。まったく、笑える。
大脇が行動に出たのは、大人としてのメンツでもある。自分も何かに貢献しなければ、生きて帰っても堂々と胸を張れないと思ったのだ。
もちろん借りもある。助けてもらったことに感謝している。
ドアが全開になっていることを確認し、思いきってタイマーを作動させた。
デジタルの数字が『30』から『29』へ変わり、すぐに『28』と、どんどん時間を減らしていく。それを見ると、せっかく落ち着きかけていた胸の鼓動が、再び激しくなった。
すぐにブレーキペダルを踏み込み、『P』の位置にあったチェンジレバーを『D』に入れた。
クルーズコントロールの機能は一度も使ったことがないが、絶対に失敗はできない。説明書で読んだ、クルーズコントロールの手順を思い出して、アクセルペダルに右足を置いた。
タイマーは『25』を表示した。
「あ…?」
突如、車内に冷気のようなものが流れ込んだ。
<パタン…>
全開だったはずのドアが、勝手に閉まり、勝手にロックがかかった。
大脇の周りで渦巻いていた冷気は、一箇所に集まり、目に見えて人の姿に変わった。
その瞬間、大脇は何かを悟った。脳裏の奥の奥に押さえ込み、必死に考えまいとしていた事。
隣には―― 助手席の爆弾を透かして、一人の女がどこからともなく入って、そこに座っていた。
「お前……」
かろうじて口に出た言葉は一言だけだった。
竹下…!
金縛りのように体が動かなくなっていた。精神的なものではなく、本当に動かない。ハンドルを握った手も、ペダルに置いた足も…。だた一箇所、首だけは自由に動かすことができた。
あきらめの悪い女だ。腐った性格の醜い女!
「もう邪魔はないわ」
大脇にとって、もはやこの女は、死の象徴となっていた。
「くっそぉ…!」
竹下は、満足そうな顔で大脇を見ている。
大脇は思いつくかぎりの暴言を心の中で吐いた。
何も抵抗できない。右足が勝手にアクセルペダルを踏み込んでいくのをわかってはいても、抵抗できない。完全な操り人形と化していた。
車は徐々にスピードを上げ、あっという間に時速50キロを超えた。
校門が迫り、目の前が赤一色になった。しかし大脇の足は容赦なくペダルを踏み込む。
明白なまでの“死”の感覚。
そこはもう、すでに死の世界だった。
『9』『8』『7』…
生存者達の希望は、あまりにも非情に、一定のリズムで大脇の死のカウントを表示させている。
「さよなら、校長先生」
「うああぁああああぁああぁぁ!!!!!」
車は赤い光の中へと消えた。
さあ… どうするか…。
幸司の長い腕が繰り出す攻撃を、十分な間合いを取って避けながら、卓郎は考えていた。
普通に考えて勝てる戦いではない。こんなことはただの時間稼ぎにしかならないのはわかっている。
気を失っている葵をかばいながら、とにかくこれ以上の犠牲を出さないように、川瀬と二人で幸司を挟んで、両側から注意を引く。
ははっ、こんなことでいつまでもつかな…? 早く何か考えないと…。それに…
卓郎は校門前に停車してある車に目を遣った。
早くあれを動かすんだ! ホールから敵の応援部隊が飛び出してくる前に!
「卓郎!!」
「はっ…!? があっ!!」
焦りのせいで注意がおろそかになっていた。喉元を片手で高々と吊り上げられてしまった。
「卓郎!」
<ガシャン!>
まるでそれを待っていたかのように更に不幸が降り注いだ。
校舎内に残っていた喰屍鬼が、2階の窓から現れた。
窓ぐらい開けろよ!
地に降り立った2体の喰屍鬼は、すぐに川瀬を囲んだ。こうなっては不幸を呪うほかない。
「神よ… 極上の不幸をありがとよ…!」
窒息を逃れようと、抵抗する腕の力も弱まり始めた。
幸司は卓郎を横に振り回し、1階トイレの窓枠に押し付け、首を絞める力を強めてくる。
「ぐぐっ…」
「シね…! シネぇ…!!」
目を見開いた幸司が恐ろしい、低い声を出した。
しかし、卓郎の耳には届かなかった。だが、唯一、残された希望。オートマチック車の発進音だけは、しっかりと耳に入っていた。
車は急発進し、黒い矢のように赤い世界へと放たれていった。
爆発音は聞こえなかった。
感じ取れたのは微かな空気の振動と、幸司の力が緩まる感覚。
途端に、川瀬を囲む喰屍鬼が、トランペットを吹いているような高い声を出して、土で形成されていたかのように、ぼろぼろと崩れ始めた。
その土塊が地面に山を作ったとき、核爆発のように、ホールが一瞬赤い強烈な光を発し、一本の筋になったかと思うと、闇に溶けるように消え去った。
それまで赤く染まっていた闇は、再び漆黒を取り戻した。
ざまーみろ… やってやったぜ…! これであとは……
ホールも喰屍鬼も消えた。だがそこには、まだ幸司は存在していた。存在して、変わらず卓郎の首を絞め上げていた
なぜこいつは消えない? 人間と怪物の中間だからか?
だが十分な隙はあった。
腕が少し下げられたおかげで、片足のつま先を窓枠に引っ掛けることができた。
「タク!」
いつの間にか目を覚ました祐史が、銀色の物を卓郎に向かって投げた。
ああ、かましてやるよ。
「くたばれ。クソッタレ!」
目の前で、キャッチしたダイナマイトの導火線に火をつけて見せると、それの意味がわかったようで、幸司は卓郎を手離そうとした。
もう遅い。
火花を散らすダイナマイトの尻を幸司の口に突っ込み、更にそれを思い切り蹴り込んだ。その力で、そのまま後ろの窓ガラスを破り、中に転がり込むと、トイレの個室に身を隠した。
<ドォンッ!!!>
予想通りの爆発の後、ガラスの破片と、赤い肉片がいくつも転がってきた。
これであいつは確実に死んだな。
苦しみから解放され、吐き気よりも笑いが腹の底から湧き上がった。
相沢… 死んでも、てめぇの罪は消えねぇよ…。
すべてが崩れ去り、この悪夢が現実を取り戻してくれることを卓郎は願った。
「・・・・・」
……まだ夢は醒めてはくれないようだった。