三十六 猟人
一回目の爆発の後、二回目の爆発が起こった。ワゴン車のガソリンに引火したようだ。
燃え盛るワゴン車を、川瀬は駐車場の車の陰から眺めていた。
二度の爆発で、車内とすぐ外にいた喰屍鬼は間違いなく死んだだろう。だが、また尊い犠牲が出てしまった。菜津稀の命と引き換えに死んだのが喰屍鬼2体だなんて…。
川瀬は炎に向かって黙祷した。
煙は星のない闇の空へと吸い込まれていく。
やっぱり俺は無力だ。誰も守れやしない。
俺は―― 俺は弥生さえ見つけることができれば、それだけでいいと思っていた。大切な命さえ守ることができれば、それだけでいいと思っていた。
「俺はバカヤロウだ…」
身近な命すら守れないじゃないか…。今は周りのすべてが、俺にとって大切な命だというのに…。
「おじさんは悪くないよ…」
由真の慰めさえも、屈辱だった。
一刻も早くこの悪夢に終止符を打たなければ。
「二人はここに隠れているんだ。いいな?」
返事を待たずに、川瀬は駆け出した。
卓郎は車の運転席で、じっとその時を待っていた。
助手席の爆弾のタイマーは30秒にセットした。デジタル数字が『30』と表示している。後部座席にはガソリン入りのポリタンク。
人生最大の賭けだ。失敗した時のことなどは考えない。必ずこれで終わらせる。
何度も何度もクルーズコントロールの手順を確認する。
「まだか?」
あと2体こちらへ近づく喰屍鬼がいる。
ガソリンの臭いが、卓郎の心を少しばかり落ち着かせてくれる。
卓郎はバックミラーとサイドミラーを覗いた。川瀬の姿がない。
それにさっきの爆発は…?
校舎の白い壁がオレンジ色に染まり、黒々とした煙が立ち昇っている。
運転席側は祐史が。車を挟んで反対側に葵。その隣は優哉が守っている。
「グウオオォォ!!!」
喰屍鬼2体が車の前で左右に別れ、1体は祐史、1体は葵と優哉に襲い掛かった。
卓郎のすぐ横で戦闘が始まった。
喰屍鬼の引っ掻きを、祐史はバックステップでかわす。卓郎に気を使ってか、車から喰屍鬼を遠ざけるように戦っている。
「はぁっ、すまん! 手間取った!」
川瀬が窓をノックして言った。卓郎は窓の開閉スイッチを押した。
「何があったんだ?」
「いや、ちょっとな…。後で話す…」
その表情からは、悪い知らせしか浮かんでこない。
「わかった。後で…。フォロー、お願いします…」
自分でも声が裏返っているのがわかる。思っている以上に緊張している。
2体の喰屍鬼は片づいたようだ。ホールまでの道も開かれた。
卓郎はドアを開けた。
アクセル… スイッチ… 脱出……。アクセル… スイッチ脱出……。
ブレーキペダルを踏み込み、チェンジレバーに手を置いた。
おっと、その前に爆弾のタイマーを作動させないとな。
「あっ……」
駄目だ。また1体現れた。
ホールの中からまた影が1つ。大きな、大きな影…。
「おい… 何だあれ…」
川瀬が後ずさっている。
「グアアアァァアァアアアァアアァァッッ!!!!!!」
窓ガラスが振動するほどの雄叫び。そしてヘッドライトも気にせず、すばやく移動し、次の瞬間にはもう車の正面に立っていた。
身長は2メートル以上ある。今までの喰屍鬼よりも明らかに大型だ。ごつごつとした濃い緑色の表皮だが、形は人間に近く、腕も足も長い。目も二つある。まるで喰屍鬼になり損ねた、または、なりかけの人間のよう――
「なっ… こいつ…!」
二つの赤い眼が忙しく動く顔。その顔は―― その顔の面影は――
「相沢だ… あの野郎…」
緑色になりつつある顔が、見覚えのある薄ら笑いを浮べた。その怪物は、間違いなく幸司だった。
そこまでして邪魔をしたいのか…! 狂人め…!
幸司の長い腕がフロントガラスを突き破った。しかし、その腕の先の鋭い爪はギリギリのところで卓郎には届かず、卓郎はすぐに外へ脱出した。
「タク、無事か! 相沢め! 生きてたのか!」
「人間の感情は死んだみたいだけどな…」
卓郎は地面に唾を吐いた。
その場の全員が立ちつくしている。
「こいつをどうにかしないと、車を動かせない」
「どうする?」
「ゴアアァアアァァ!!!」
笑っているような幸司の咆哮。皮膚が固まりかけた顔も、引きつりながら笑っている。
「――! がっ…!」
卓郎の前にいた祐史が一瞬でなぎ倒された。
「祐――」
弾丸のように素早い幸司の攻撃は、すぐにターゲットを卓郎に変え、襲いかかった。
卓郎が倒された。続けざまに川瀬も無力に殴り倒され、怪物、幸司の次のターゲットは葵。
よく見知った怪物の顔を、葵は恐ろしく臭い生ゴミを見るような目で見た。
「グググッ…」
先ほど倒した喰屍鬼が苦しそうに喘いでいる。
こいつらは一回火炎瓶をぶつけても死なない。二回ぶつければ、死にはしないものの、起き上がれないまでにダメージを与えることができた。でも、そこにいるのは2メートルを超える相手だ。
葵は幸司の動き一つ一つに目を凝らしながら、ゆっくりと後ずさりした。
一瞬でも隙を見せてはいけない。三人も倒されるのを見た葵は、その攻撃がどのような凶悪なものかがよくわかった。
<カチャン…>
足が火炎瓶のプラスチック箱に当たった。警戒しながら視線を下げると、一本だけ残った瓶が目に入った。
幸司は、葵が瓶を掴み上げ、ライターを発火させる。その行動を楽しげに見ている。
「本当に怪物なのね…」
葵は灯油のしみ込んだ布に、恐る恐る着火した。
<パリン!>
目の前で嫌な音が鳴った。
手に持っていた火炎瓶は、上半分を残してあとは綺麗に無くなってしまった。もとい、邪悪な爪によって横へ吹き飛ばされた。
幸司は右腕に降りかかった灯油を一舐めし、葵を睨んだ。
明らかに楽しんでいるのだと、葵にはわかった。自分の顔がだんだんと恐怖に染まるのを。
「……変態的なところだけは変わらないみたいね…」
平然な表情を作りながらも、葵の心は恐怖でいっぱいだった。
どうして日本って国は、銃社会じゃないのかしら? ああ… この国では自分の身さえ、ろくに守れないのね…。
最悪な状況に陥ったときは、そんなことばかり考えてしまう。
「このっ!」
優哉がこぶし程の大きさの石を幸司にぶつけた。石は首筋に当たったが、幸司は痛そうな顔をせず、ただ不機嫌そうな顔で優哉に向いた。
今よ!
握っていた割れた火炎瓶の口には、まだ小さな火がくすぶっている。葵はそれを幸司の右腕に押し付けた。
小さな火種は、ボゥッと、腕に付着した灯油に燃え移り、緑色の腕は瞬く間に炎に包み込まれた。
早くこいつから離れなければいけない!
間合いが近いと不利になる。かといって敵のリーチも長い。そう、こちらにはなす術はない。できることといえば、逃げるか優哉のように石を投げることくらい。どちらが意味のある行動か、一目瞭然だ。
腕の炎にうろたえる幸司に背を向けて逃げ出した。
どこまで追ってくるかしら?
校舎の中へ逃げよう。やつは体がやたら大きいから、狭い場所なら自由に動けないはず。最も無難な考えだった。考え自体は…。しかし、葵はこの怪物の恐ろしい執念深さには気付かなかった。
バキッ!と耳の奥に響いた音と、頭に響く激痛。幸司の硬い凶器部分のどこかが後頭部を襲ったことは刹那にわかった。だがそれ以上思考することはできなかった。受身もとれない状態で、硬い地面に派手に転がった。
「うー……」
葵は唸りながら無意識に敵へ目を向けていた。
視界がひどくぼやけ、物の形もはっきりしない。それどころか周りの音も聞こえない。
幸司は片手で誰かを持ち上げているようだ。
それは人形のように、抵抗もせず…。すでに事切れたようだった。
誰かが殺された。
でもどうでもよかった。今の葵には、すべてが無関心だった。
自分の“死”に対しても…。