三十四 動揺
「弥生… 今までどこに…」
「それは後で。逃げよ!」
「あ、ああ」
とっさに、落ちていたペンライトを拾い、弥生の手を引いて破壊された防火シャッターの孔をくぐり、近くの階段を駆け下りた。
とにかく娘と二人で話がしたい。川瀬の頭の中はそれだけだった。
資料室――
1階、トイレ側の階段横にあった小さな埃っぽい部屋。
ドアを閉めると、2階の喰屍鬼の悲鳴も聞こえなくなった。
一呼吸おいてから額に垂れていたネバネバしたゲル状の液体を拭い捨てた。
「ああ… 弥生… よかった…」
川瀬は改めて娘の顔を見た。
今朝、見送った時と変わらない、弥生の顔だ。
「よかったっ…!」
娘を力強く抱きしめると、この喜びを噛み締めた。
俺はこのために戦ってきたんだ。もう絶対に離れない!
後はこの世界からどうやって脱出するかだが…。
「いって…」
川瀬は左腕をペンライトで照らした。
喰屍鬼に噛み付かれた左腕は、流血こそしていないものの、内出血で、大きな赤黒い歯形がくっきりと残っていた。
もう少しで、あの生臭い口の中に持っていかれるところだったな…。
本やプリントなどが大量に詰め込まれている棚にもたれて、あぐらをかいた。弥生は隣で両足を立てて座った。
二人の息づかいの音が小さく混じる。
川瀬はあることを思い出し、ウエストバッグを探った。そして飴玉を2つ取り出すと、一つを弥生に渡した。弥生は、ありがとう。と、それを受け取ると、包みを剥がして口に入れた。
しばらくは飴玉を口の中で転がす音だけが響いていた。
「今までどこにいたんだ?」
落ち着いた頃、最初に口にした疑問をもう一度問うた。
「……ずっと3階に隠れてたの。お父さんの声が聞こえて、思い切って出てきたんだけど…」
3階…。先にそっちを調べるべきだったのか…。
「でも… 生きていてくれてよかった」
一瞬でもあきらめた自分が馬鹿に思える。
聞きたいことはいくらでもある。しかし、現実、今この子に伝えるべきことは…。
「……今、どういう状況なのかは… わかってるな?」
そんなことは誰でもわかる。
どう言っていいのか、わからないせいで、間抜けな出だしになった。
それでも真面目な顔で頷いてくれる弥生。
「俺はお前の電話を受けてここへ来た。そこで河上という生徒に助けられたんだ。彼のことは知っているな?」
とりあえず経緯から順を追って説明することにした。
弥生が頷くのを見てから続けた。
「助けられて、知らされた。人間として生き残ったのは… 俺と、あと一人校長を除いて2年3組―― お前のクラスのメンバーだけらしい」
弥生は口で飴を転がしながら斜め下を向いて黙っている。
「それで……」
できればこの先は言いたくない。仲の良かった友達が死んでいったなんて…。中には親友と呼べる者もいただろう。だが、いずれは知ることになる。
川瀬は舐めていた飴玉を噛み砕いた。
「今現在、生き残りは、たった7人だ。俺とお前を入れて9人…」
クラスメイトのほとんどが死んでしまった。
川瀬も皆の死を思い出したくなかった。
「・・・・・」
しかし弥生に驚いた様子はなく。素直にこの辛い現実を受け入れているようだった。
ただ、無意識に流れ出たような一筋の涙は別として…。
「皆食堂にいるんだ。後で一緒に行こう」
川瀬は慰めるように静かに言った。
それからは二人ともただ黙っていた。
「ねえ、お父さん。知ってる?」
しばらく川瀬の肩に寄り添っていた弥生が話し始めた。
「ん?」
「この学校の噂」
「噂…」
「この学校が建てられる時にね…。小さな子供の骨が見つかったんだって」
「骨…」
急に悪寒がはしった。全身から汗が吹き出てくる。
「そうなのか…」
「そういう話、知ってた?」
「知らない… それがどうかしたか?」
「ううん。そういう話聞いたから…」
「・・・・・」
相変わらず悪寒が消えない。
子供の骨…? 骨…? 子供の…?
「うぅ…」
今度は激しい目眩が襲ってきた。
弥生はおだやかな顔で、川瀬の横顔を見つめている。
そんなわけ……
そんな… ある… わけが……
目が眩み… 深い闇に沈んでいった……
『おやすみ。お父さん』
『じゃあね……』
気が付いた時、川瀬は変わらず資料室の冷たい床に横たわっていた。
赤黒い歯形が残った左腕の痛みで、もうろうとした意識が次第とはっきりしてきた。
「……弥生…」
急いで起き上がった川瀬の隣に弥生の姿はなかった。
「弥生……」
またなのか…。またお前は俺の前からいなくなってしまったのか…?
「弥生っ…!」
どうしてだ? どうして…! どこに行ったんだ!? どうして…?
「なぜなんだ…!」
何のために姿を見せたんだ? お前は何なんだよ? 弥生…!
『おやすみ。お父さん』『じゃあね……』
薄れていく意識の中で最後に聞いた娘の声だった。
再び消えたのはお前の意思なのか?
悔しくてしょうがなかった。床に、壁に、棚に、八つ当たりしたくなるが、その気力もない。
「お前は何なんだ…? なぜなんだ…?」
なぜいなくなるのか? この地獄世界と弥生は何か関係があるのか? そればかりが頭の上を回り続ける。
「落ち着け… 冷静に考えるんだ…」
自分の意思で消えた…?
しばらく床に額をあてがって考えた。
「……あれは… 弥生だったのか…?」
頭がこんがらがってきた。
まてまて、だとしたら誰だっていうんだ?
一瞬、川瀬の脳裏に一つの影が浮かんだ。
「……馬鹿馬鹿しい…」
なぜなんだ…。
頭を悩ませていた川瀬は、車のエンジンをかける音でハッとした。
外からだ。
何事かと資料室を出て来客用玄関へ――
ちょうど玄関の前をヘッドライトを光らせた一台の軽自動車が走り抜けるところだった。
「卓郎…?」
車は校門前の広いスペースの入り口に止まった。そして車の運転席のドアを内側から開けたのは、卓郎だった。助手席には祐史が乗っていたようだ。
「何をしてるんだ?」
川瀬は車から降り立った二人に駆け寄った。
「あ、おっさん」
「車なんか持ち出して何をする気だ? ていうか車の運転もできるのか」
「さっき校長に教わった」
「簡単に教わっていきなり走り出すからな… 死に直面することには、いい加減慣れたけど…」
祐史がふらふらと卓郎の横に歩いてきた。
「これ校長の車なんだよ。ちょうどオートマチック車だったからな」
「何を始めるんだ?」
そう、それが一番の疑問。
卓郎が少しだけ微笑んで言った。
「うーん、悪あがき」
校門の向こうのレモン形に広がっている赤い世界から、複数の大きな影が近づいてきていた。