三十三 待望
少女の顔がホールからの光で赤く照らされる。
少女は楽しそうに笑った。
「ここまで8人も生き残りがいるなんてね。なかなかのものよ」
独り言のように少女が言う。
「……どうして…? 何が目的…?」
「ふふっ、当ててみたら? あ、でもあなたは何も知らないんですものね?」
「え…?」
「ここで起こったこと」
少女はまた笑った。
嬉しくて笑うのか? 楽しくて笑うのか? それとも嘲けて?
鮮血を浴びた悪魔のような面持ちからは、そのどれも感じられないように思える。
「それじゃ。そろそろ会いに行ってくるわ。あなたは我慢して待っててね?」
「・・・・・!!」
卓郎が校長室に身を潜めていた優哉達を呼び出し、食堂へと移動させた。もちろん川瀬もそれに従った。
食堂は保健室の隣にある。食堂という言葉を聞いて、川瀬はまだここを調べていないことに気がついた。
期待をしてはみたが、弥生はいなかった。
だが、死体や化け物がいなかったのは救いだった。
食堂には川瀬、卓郎、祐史、校長、優哉、葵、由真、菜津稀。現在確認されている生存者全員が集まった。
室内に補助灯はない。校長室から持ってきた蝋燭に照らされたそこは、食堂にしては狭い空間だった。縦長のテーブルが2つずつ平行に並べられ、それぞれ周りを椅子が囲んでいる。
「ここのほうが安全そうね」
葵が多数ある椅子の一つに腰掛けた。
そうかもしれない。ここの窓は中庭に面している。喰屍鬼がうろつく外へ面した窓の校長室よりもいくらかは安心だ。しかし、卓郎は安全のためだけにここへ移動させたのだろうか?
当の本人である卓郎はさっそく厨房のほうでカチカチと何かを集めている。ガラス瓶が擦れ合う音みたいだ。
「何をしてるんだ?」
と聞くと、
「ちょっと考えがあってね」
それだけ返ってきた。
すごい子だ。この状況で常に冷静でいるのは彼だけだ。今更だが、こういう子が生き残ってくれていたのは幸福なことだったのだ。
大人である川瀬は恥ずかしながらも安心していた。
「校長、車のキー、持ってますか?」
厨房のカウンターから頭を出した卓郎が校長を見て言った。
「……? 持ってはいるが…」
校長の返事に卓郎は満足そうな顔をして再び頭を隠した。
「俺は… 弥生を探しに行く」
卓郎の行動に疑問を抱きつつ、川瀬は弥生の捜索を続行する決心をした。
「じゃあ、俺も」
祐史が川瀬に付こうとすると、
「いや、悪いけど祐史にはこっちのほうを手伝ってもらう。おっさんも今はやめたほうがいい。死にますよ」
「そうかもな。だが行くよ。弥生はどこかで生きてるんだ」
どこにいるんだ、弥生…。
先走りしそうな気持ちを我慢しながら廊下へ出た。
弥生を見つけた。葵のその言葉を信じて、川瀬は探索を続ける決心をしたのだ。
「お前はどこにいるんだよ…?」
目に見えぬ娘に話しかけた。
誰も死んじゃいけない。
生きていた頃の昇や有里の顔と声が浮かんできた。
それを薬に、恐怖を紛わせた。
1階から2階へ――
ペンライトの光で
閉ざされた非常ドアに手を伸ばした。
優哉達はここで喰屍鬼に襲われた。
「・・・・・」
川瀬は音を消しながらノブを回した。
脱出口確保のため、非常ドアを全開にし、開けっ放しにする。
もう川瀬に恐怖はない。
もうすぐ弥生に会える。なぜかそう確信していた。
自分が自分じゃないような感覚。自分の行動が他人事のように感じる。
何かに引っ張られるかのように歩を進める。
興奮状態にあったのか、背後から近づく敵に気が付かなかった。
一瞬甲高い笑い声が聞こえ、川瀬の首に冷たい手が襲いかかった。
「ひひひひ…!!」
「うっ…!」
喰屍鬼ではない…。まだ化け物が残っていたのか…!
川瀬は後ろに両腕をまわし、敵の右腕を掴んだ。細い腕。おそらく女性であろう。
しかし川瀬に考える余裕などなかった。
「あああぁっ!!」
そのまま上体を前に倒し、力の限りその腕を引っ張った。
背中に人を背負う感覚。同時に化け物の握力が弱まる。
一本背負をまともに受けた化け物は、川瀬と目を合わせるように床に落下した。
その時聞こえた、ぐしゃっという音は床に衝突した打撃音ではない。化け物―― 女生徒の腕が関節部分から逆方向に折れ曲がった音だ。
「ぴぎゃあぁあぁァァ!!!」
痛々しい悲鳴を上げながら女生徒がのたうち回る。
長い髪を振り乱す姿を見て、一瞬ヒヤッとしたが、弥生ではなかった。
ちゃんと痛みを感じるんだ。可愛そうに、こいつらも巻き込まれただけなんだ。と、改めて思い、この被害者に哀れみの目を向けた。その姿を見ると、とうてい止めを刺す気は起こらなかった。
再び立ち上がらないうちに手早く調べてこの場を退散しよう。
川瀬は小走りに廊下を進んだ。
相変わらず絶叫する女生徒の声を背後に、それがまだ立ち上がっていないことに安心した。
「あァぁあァぁあああ――」
ドキッとして川瀬は立ち止まった。
悲鳴が途切れたのだ。それも少しずつ小さくなってから、ではない。明らかに不自然に。途中でスイッチが切られたように…。
後に聞こえるのは硬い物を噛み砕く音。
なぜ非常ドアを開けっ放しにしてきてしまったのか。川瀬は自分を呪った。良かれと思ってしたことが裏目に出てしまった。
……やつしかいない…。喰屍鬼だ!
振り返るな! このまま前へ逃げるんだ!
「グオオォォオオォゥ!!!」
そう思った時、咆哮が響いた。川瀬は思わず振り返ってしまった。
さっきまで女生徒に食いついていたはずの喰屍鬼が川瀬目がけて猛突進してくる。ペンライトの光も物ともせずに…。
その油断で判断が鈍った。やっと逃げ出そうと足が後ろへ動いたが…。
「ぐふっ…!」
腹部に強い衝撃。180度回転しようとした川瀬の体は、喰屍鬼の突進頭突きによって弾き飛び、背中から突き当たりの教室のドアに激突した。
衝撃で呼吸ができない。立って左へ走れば逃げられるのに…。
3秒ほどで肺は復活した。しかし、逃げる気力が湧かない。
意識がもうろうとする。死ぬ直前というのは不思議と楽なものだ。怖くもない。
これですべてを終わりにしよう…。
命の終わりを感じた。
「グオオォ!!」
本能的なものか、無意識に持ち上げられた川瀬の左腕に喰屍鬼が食いかかった。
「あ゛あ゛あ゛っ…!!」
腕に走る激痛で川瀬は現世に引き戻された。
まだ死ぬな。ってかよ…!? くそっ!!
血生臭い息が川瀬の顔に浴びせられる。近くで見ると喰屍鬼の黒い歯は牙ではなく、人間の前歯に近い形だ。肉を切断するのには持って来いなのだろう。噛み砕くための奥歯もあるようだ。
こんなのに腕を持っていかれてはたまらない。
腕をかじらせたまま横目で武器を探す。出刃包丁は近くに見当たらない。頭突きを食らったときに落としたに違いない。
「あ゛ああぁ!!!」
川瀬は喰屍鬼のごつごつした頭を右拳で殴った。しかし、その外皮は見た目どおり硬い。石を殴ったみたいだ。
その間にも喰屍鬼の切歯は川瀬の腕の筋肉に食い込んでいく。
くそっ! ボディが駄目なら…!
目の前の大きな赤い眼に川瀬の顔が映りこんでいる。自分の顔が真っ赤に染まっているようだ。
まだ、俺は染まらない!
「あぁああぁぁ!!!」
左腕の激痛に耐えながら再度振るった右拳は、喰屍鬼の眼に直撃した。
「グオォァッ!」
大きな口を開けて叫ぶ喰屍鬼。ヌルッとした感触で拳は横に逸れたものの、それなりのダメージは与えられたみたいだ。
解放された左腕にかまう暇はなく、川瀬は次の行動に出た。
右手でウエストバッグのファスナーを開け、中からスプレー缶を取り出す。ロッカースペースで手に入れた護身用の催涙スプレーだ。
再び川瀬に向かって見開かれた眼にそれを噴射した。
「グオアァオォオォ!!!!」
さっきよりも凄まじい轟音が近距離から耳を劈いた。
両手で目を覆う喰屍鬼を足で蹴りどけると、川瀬は逃げるために立ち上がった。
左へ逃げれば階段がある。そっちが一番確実で安全な道だろう。
左へ逃げる。左へ逃げる。左へ――
「――――!!!」
選択を誤ったな。声が聞こえた気がした。
ああ、俺はいつも選択を誤る。しかし、今日まで命に関わる誤りを起こしたことはなかったはずだ。神は俺をどうしたいんだ?
本気で神を憎んだのは今日で2度目だ。
仲間の叫びを聞きつけたのだろう。もう1体、喰屍鬼が階段を上ってきていた。今にも獲物に飛びかかろうと足をしならせている。
反対側に逃げるんだ!
脳が筋肉に命令を下す間もなく、川瀬は取り押さえられた。
「くっそっ!」
腕と足を使って食われるのを阻止するが、至極苦しい抗争だ。
結局、ここで死ぬことになるのか…!
「お父さん!」
半ばあきらめていた川瀬に少女の声が届いた。毎日聞き慣れていたあの声。川瀬が必死に捜し求めていた日常…。
「弥生…?」
……幻聴だ…。けど… 最期に娘の声が聞けてよかった…。
川瀬は全身の力を抜いた。
「お父さん!!」
「グオオアァァァッ!!!」
川瀬の額に生暖かい、ドロドロした液体が垂れた。
幻聴じゃない…?
落としたはずの出刃包丁。それが喰屍鬼の真っ赤な瞳孔に刺さり、鈍く光を反射していた。
重傷を負った喰屍鬼は、跳び上がって川瀬から退き、最初の1体と同様に混乱したように暴れまわった。
川瀬は息を切らして、自分をかばうように出刃包丁を構えている人物にピントを合わせた。
「大丈夫? お父さん」
「……あぁ…」
この瞬間をどれほど待ちわびただろう?
ありがとう。神様……
そして、命を救ってくれた愛娘に感謝した。