三十二 窮地
昇の死体が喰屍鬼の餌食になっている。
川瀬は苦悶の表情のままの昇を哀れみではなく怒り―― 昇をこんな姿にした者への怒りの眼差しで見つめていた。
体育館の扉を開いた三人が真っ先に目にしたのは昇の変わり果てた姿だった。
背中に杭のような物が刺さっている。誰がこんな酷い殺し方をしたのか? 昇の顔を見るのが辛くなって思わず目を閉じた。
目を閉じても、肉を引きちぎり骨を砕く音が頭に痛く響いてくる。
さっきまで生きていたのに…。さっきまで喋って、動いて… 確かに生きていたのに。なぜこの子がこんな最期を迎えなければならなかったのか。一人で行動させたのが間違いだったのだ。自分もついて行ってやればよかった。激しい後悔が川瀬の心に渦巻いた。
「ごめんな……」
もう何も感じたくなかった。
いくら後悔しても意味がないことはわかっている。後悔しても何も変わらないことはわかっているのだ。なぜこれほどまでに悲しいのか、人間特有の感情が恨めしく感じた。
「ああぁああぁぁっ!!!」
ガシャン!とガラス割れる音と男の低い悲鳴が川瀬の時を戻した。
一瞬にして自分達が今やるべきことを思い出し、川瀬は目を開けた。
「ぐふぅっ…!」
監視室から男がガラスの破片と共にドサッと落下してきた。大脇校長だ。
痛みに悶える大脇を監視室のガラスの無くなった大窓から見下すように女が立っている。
「あの人…!」
祐史が女を見て叫んだ。
卓郎が懐中電灯を向けると、女はスーと消えていった。
一瞬だけだったが顔が見えた。あの卒業アルバムに載っていた女教師の写真。6年前に自殺した竹下佳世、その姿だった。
昇をむさぼり食べていた喰屍鬼と、どこかで他の死体をむさぼっていた喰屍鬼が、産まれたての子鹿のように必死に立ち上がろうとする校長に気付いたようで、その新鮮な肉に飛び付いていった。
「あぁあぁぁ!!! やめろ!! やめてくれ!! 来るなあぁ!!!」
助けを乞う大脇を見て、川瀬は前へ走り出ていた。
「怪物野郎!! こっちだ!!」
「グウウゥゥ…」
2体の喰屍鬼が低く低く唸り、動きを止めた。
その時になって川瀬は後悔した。なぜあの校長のために自分は命を張ったのかと。なぜかわからないが助けなければいけない気がしたのだ。それは人としての意地なのかもしれない。
喰屍鬼はすぐに飛びかかってくる。川瀬はそう思った。しかし、喰屍鬼は2体共動きを止めたまま。
大脇と川瀬を交互に見ている。どうやら品定めをしているようだ。
どちらも新鮮な肉に変わりはないが。どっちにしろもう1秒後には殺されるかもしれない。
そうだ、光を!
懐中電灯は全部で2つあったが、1つを校長室に置いてきた。つまり今ある発光器具は、卓郎の手元にあるもう1つの懐中電灯と、川瀬のポケットの中のペンライトだ。
「頼む! 光を――」
言うまでもなかった。川瀬が口に出すのと同時に、卓郎が懐中電灯を喰屍鬼に向けていた。
2体いるが、丁度並んだように立っていたので一つの懐中電灯で十分に対処できていた。
「グァウッ!」
グールが大きな目蓋を閉じ、短い腕で顔を隠した。
「大脇さん! 早く!!」
「あ、ああ…」
大脇は半ば4足歩行で窮地を脱した。
「走れ!!」
川瀬は尻をつく大脇の腕を肩に回し、無理矢理に引っ張って走った。
卓郎達のところまで逃れると、卓郎は懐中電灯を喰屍鬼に向けたまま後ずさる。
祐史は川瀬に手を貸し、反対側の腕を担いで走る。
「よし! 閉めろ閉めろ!」
第二体育館のやつよりもずいぶん鈍いらしい。それが幸いした。
最後に脱出した卓郎の合図で扉を閉鎖した。
「死ぬかと思った…… 死ぬかと……」
ぶつぶつ言う大脇を三人がかりで引きずり、その場から離れた。一刻も早く逃げなければ扉を破って追ってくるかもしれない。
しかし、すでに数十メートル離れた扉からは何も音が響いてこなかった。
新鮮な肉はあきらめたのだろう。しかたなく昇達の死体を…。
悲しみが抑えきれないほどに迫ってきた。川瀬は涙で悲しみを洗い流した。
優哉は重たくなる目蓋をこすった。
どんな状況でも眠気はお構いなしに襲ってくるものだ。肌寒いうえ、気疲れしているので尚更だ。
校長室には優哉の他に、葵、由真、菜津稀がいる。誰一人として喋らない。獲物を求めて外を徘徊する喰屍鬼に気付かれないようにするためでもあるが、皆どことなく眠そうな目をしている。
しかし、ほんの数時間前まで皆気絶していたはずなのに不思議なことだ。
体力も精神力も限界まできていた。何日も眠っていないような感じだ。
今、この女子3人を守れるのは僕だけだ。本当なら理枝も一緒に守ってやりたかった…。
最後に見た理枝の顔を思い出すと息が苦しくなった。
あそこで喰屍鬼が現れなかったら僕は… 僕は理枝を殺せただろうか? たぶんあのまま逃げることもできずに理枝に切り刻まれていただろうな…。
「あ…」
そこで優哉は、重要なことに気付いた。
武器がない…。
そういえば木刀を2階の廊下に捨ててきてしまった。とんでもないミスをしてしまった…。 守ろうにも優哉には戦う術がない。襲われたら逃げるしかない。しかし、手ぶらで外へ出たら死ぬ。
卓郎に爆弾入りのかばんを預かってはいるが、使うわけにはいかない。帰ってくるまで身動きしないのが得策だろう。
ぺた… ぺた… ぺた…
大きな生物の独特な足音が、たった今その主が窓の外を歩いていることを知らせる。
いつ窓を割ってやつらが入ってくるかわからない。さっきまでの眠気が一気に消え去った。
ぺた… ぺた……
足音が近くで止まった。
喰屍鬼と自分達との距離は壁を隔てて4メートルもないだろう。恐ろしい人喰い怪物がそこに存在している。
「・・・・・」
歩き出さない…。入ってくる…? ヤバイ、入ってくるぞ!
そこにいる全員が戦慄している。
無理だ。抵抗なんかできない。
「グウゥゥ…」
窓の外から、まるで耳元で唸っているかのように聞こえた唸りが、今から飛び込んで食い殺してやる。と言っているようだ。
「グォウゥゥ…」
来るっ!!!
ぺた… ぺた… ぺた…
――足音は遠ざかった。
緊張感が解け、激しい脱力感。
脅かすなよ… バカヤロウ…
コツ…
今度は扉の外の廊下から足音がした。
おじさん達かな?
校長を探しに行ったにしてはやけに早い気がする。
<カチッ…>
手動ロックのつまみが勝手に回った。
え? 鍵を開けた? どうやって? 誰も鍵なんて持っていないはず…。
解けたばかりの緊張が再び襲ってきた。
誰なんだ…?
<ガチャ…>
音を立てないようにか、ゆっくりと扉は開かれた。両開きの片方の扉が完全に開かれ、そこに男がいた。
「皆いるな」
卓郎だった。
そうか… 校長が鍵を持ってたんだな。ノックの音すらも命取りになるし。
後ろには川瀬、祐史、校長もいる。
「場所移動だ。食堂まで来てくれ」
卓郎がひそやかに声をかけた。