三十‐‐ 実情
「音が聞こえなくなった」
そう言うなり、祐史が窓の外を見た。
気持ち悪いほどの静寂に川瀬は耐えていた。
誰も喋らない。
瞬きもしない。
何が起こるか。頭の中はそれだけだった。
「人間狩りの始まりね」
校門の向こうに広がる深い深い闇。その闇に縦に一本の真っ直ぐな赤い亀裂が入った。
途端に空気が重くなる。
その亀裂が、まるで目蓋が開かれるかのように大きなレモン形に広がった。
血のように赤い大穴の出現。
強い光で、闇が一瞬にして赤く染まる。
「ブラッドホール…」
そう言ったのは卓郎だった。
誰もがその様子に見入っていた。
凄まじい。としか言いようがない。SF映画の非現実的な映像のような出来事が目の前で起こっているのだ。
そして同時に、外が騒がしくなった。
化け物共が再び騒ぎ出した。と思えば、一斉に校門の外―― 赤い闇の中へと行進を始めた。
何が起こっているのか。なんてのはどうでもよくなっていた。
<ゴゥオオおおおオオォォォ…!!!!>
足音とは違う音も聞こえる。聞き覚えのあるあの轟音。
「喰屍鬼……?」
川瀬が呟いた。
「びゃああァぁ……!」
「ぎぇぁああぁ……!」
どうなっているのかわからないが、時折、雑踏の中で化け物の悲鳴が聞こえる。
あいつらはホールの中に誘い込まれているのか。
祐史は震えている。もしも自分があの群れに加わっていたら… と考えているのだろう。
あの赤い入り口の向こうには何があるのだろうか?
数分後――
そこには数体の化け物だけが残っていた。
それらは哀れにも行進中に体勢を崩したのであろう。そのまま他の化け物に踏み付けられたようだ。
苦しそうに地を這っている奴、ぴくぴくと痙攣している奴、すでに動かなくなっている奴。
<ゴォゥオオオおおぉォォ…!!!>
ホールの中から5体ほど影が現れた。
ずんぐりとした蛙のような。
「あいつだ…」
苦い顔で優哉が言った。
喰屍鬼が倒れた化け物に次々と食らいつく。
逆光で影しか見えないのがせめてもの救いだ。
そこで卓郎が窓を閉めた。
想像以上に大変なことになった。
「見たかよ…?」
「怪物が増えやがった」
「あり得ない…」
祐史、卓郎、葵が口々に言う。
これからの敵は喰屍鬼か…。
そう思うと生き残るという可能性は絶望的になる。
「急ごう。あいつらすぐにでも入ってくるぞ」
卓郎の言葉に異論はない。
入る時と同じ順番で全員がトイレを出た。
それから10歩と進まない内に、先の校長室の扉がバンッ!と開いた。
中から大脇校長が左腕を押さえ、血相を変えた様子で飛び出てきた。そして、そのまま川瀬達に気付かずに反対側へ走っていった。
そしてその後から出てきたのは……
「柴崎!」
駆け出した祐史の腕を卓郎が掴まえた。
「まて祐史! 様子が変だ!」
そう、菜津稀は右手に血の付いたカッターナイフを持っている。どう見ても正常ではない。
そんな馬鹿な…。祐史はそんな顔をしている。
こちらの存在に気付いた菜津稀が、ゆっくりと振り向く。
眼が赤い…。
いや、気のせいだ。見た目はともかく、その眼は正常そうだった。
<カチャン…>
小さな金属音。
カッターナイフが床に落ちたかと思うと、菜津稀は一気に力が抜けたように床に倒れた。
外から咆哮が聞こえる度に気が気でなくなる。
菜津稀を校長室に運び入れ、長椅子に寝かせると、数分で目を覚ました。
「私…… 何を…?」
震えながら菜津稀が言った。
長椅子に座る菜津稀に全員の視線が注がれる。
そのまま立っていたり、座っていたりと、姿勢は思い思いだ。
「何でもないんだ。気にすることはない」
自分が人を襲ったなんて知りたくないはずだ。
川瀬は気をつかって嘘をついた。だが…。
「私、校長先生を殺そうとしてたの」
菜津稀の放った言葉は意表をつくものだった。
「覚えていたのか?」
「全部見えてたの。私がやっていること…。でも、体は私のものじゃないみたいで、止められなかった。あの女の人が…」
「あの女?」
祐史がなぜか興味深そうに食いついた。
「校長先生は確か… 竹下佳世って…。6年前に何かあったみたい」
6年前…?
川瀬には何か引っかかった。思い当たる節があるような…。
思い出そうと頭を捻っていると、祐史が先に手を打った。
「6年前! そうか、確か女性教師が首を吊って自殺した! 第一発見者は校長だとか」
ああ。と川瀬も手を打った。
生徒会室にあった教頭宛の手紙…。関係ないと思ってよく読まなかったが、竹下とかそんな名前が書いてあった気がする。
「で、それがどうしたんだ?」
「うん。その竹下っていう人が私の中に…」
「憑依していた?」
菜津稀が頷いた。
否定できない話だ。十分にあり得る。もう何でも信じることができる。
「それでね。その時その人の心の中を感じたの。その人… この学校が創設された時に就任して、それでそれから校長先生に…。いろいろとひどいセクハラされてたみたいなの。弱みを握られて辞めることも、告発するもできなかった…」
セクハラ…。あの真面目そうな校長が?
川瀬は、にわかには信じられなかった。しかし、真面目な人ほど裏で何をやっているかわからない。社会を経験した川瀬は、そういう腐った世の中を知っている。
「それを苦にこの学校で自殺して、遺書を書いたんだけど、それも第一発見者の校長先生に廃棄されてしまった」
「ひどいな…」
祐史が拳を締めた。
まさか、自分の学校の校長が…。そういう気持ちなのだろう。
「ちょっと待ってよ。それは本当に本当なの?」
ただ一人、葵が食ってかかった。
どこからのことを聞いているのか。憑依されたというところか? セクハラのところか? 全部なのだろうか?
「わからない…。ただ私は…」
泣きそうな菜津稀。
「一体何なの? 化け物の次は幽霊?」
「南さん、落ち着いて…」
由真が葵をなだめるが、葵は腑に落ちないようだ。
「化け物の次が幽霊か…。どうせならこの二つは繋がってるんだろう」
卓郎はいつの間にか校長机の傍の本棚のところで何か本を手にしている。
「祐史、お前が見た女はこの人か?」
手にしていた本をテーブルに置いた。
丈夫な革表紙の卒業アルバム。第一期生の時の物だ。
艶のあるページの『教員一覧』と書かれている下に、その頃の教員の写真が載せられている。校長の写真には、今よりも若干若い大脇校長が。そして一番最後の写真。卓郎の示す写真には…。
「この人が竹下佳世…?」
竹下佳世。名前の上に眼鏡をかけた女性の写真。そこそこの美人だが、笑顔に違和感がある。作り笑顔を隠しきれていない。
「この人だ。あの時の女だ」
まじまじと写真の女を見つめる祐史。
「間違いないな?」
「間違いないよ。まさかこの人が…」