二十九 始動
川瀬は卓郎の後ろについて1階の廊下を生徒玄関の方へ進む。
祐史、優哉、葵、由真も一緒についてくる。
外へ出るのかと思ったが、違った。
「ここがいいかな」
卓郎が1階の男子トイレを覗いて言った。
トイレを右側に見て正面には生徒玄関。スライド式の大きなドアは閉め切られている。
しかしどこからともなく、化け物達の高い声や足音が校舎内に入ってくる。
卓郎の後に続いて川瀬、祐史、優哉、葵、由真の順に男子トイレに入る。
入ると同時に独特のアンモニア臭が鼻に付く。右手に個室、左手に小便器が並んでおり、6人も入るとかなり狭い。
川瀬は半袖の袖で鼻を覆い、深呼吸した。
卓郎が奥まで歩いて行き、窓を静かに半分近く開いた。騒ぎ声が今度ははっきりと聞こえる。
笑い声、喘ぎ声、呻き声。この上なく気持ちの悪い組み合わせだ。
男子トイレの窓は位置からして、そこからはまっすぐに校門が見える。はずなのだが…。
「・・・・・!!!」
それを見て卓郎と祐史以外の全員が言葉を失った。
まさかこんなことになっていたとは…。
二百… 三百体以上はいるだろう。全校生徒のほとんどの数がそこに集まっている。
一番後ろの由真が、よく見ようと背伸びをする。
「祐史、さっき妙なこと言ってたな?」
一人窓の外を見ていない祐史に卓郎が言った。
「“何が起こるか気になる”って」
「……そのことか…」
「お前の言い方は確実に何か起こるというような言い方だった」
「・・・・・」
皆、窓の外を見ながらも祐史の次の言葉を待っているようだ。
「そう聞こえたか… 鋭いな…。何て言えばいいのか。感じるんだよ」
祐史が額を押さえる。次の言葉を考えているのだろう。
「あの時、呼ばれているって言ってたが、声が聞こえるのか?」
「声じゃない。言っただろ、感じるんだって。あの音が頭に響いてくるんだよ…。最初は音だけだったけど、今は感じる。何かが俺を呼んでいるんだ。気をしっかり保ってなきゃ、心を奪われる。俺にも何が何だかわからないけど、これから何か起こるっていうのは……」
そこで頷いて続ける。
「絶対だ」
「・・・・・」
絶対―― その言葉には恐怖を感じるのに十分な圧倒感があった。
これから起こるという“何か”は明らかにろくなものではないと、その場にいる全員が思っただろう。卓郎までも硬い表情をしている。
しかし、おかげで化け物が減ったというのも間違いない。今、校舎内に化け物はほとんどいないはずだ。そう考えると今のところは行動しやすい。あの喰屍鬼と遭遇しなければ。
「もうすぐ来る…」
祐史が窓の外を見た。
全員が唾を飲み込んだ。歯を食いしばり、食い入るように外を見ている。
途端に外が静まり返った。
大脇は皆が校長室を出ていった後、鍵を閉め、大きな黒椅子にもたれた。
キィ…と背もたれが後ろへ下がる。書類に目を通した後にこうやって一息つくのが日頃の楽しみの一つなのだが。
目を閉じた大脇は先ほどの事を考えていた。
馬鹿なやつらだ。自ら命を捨てに行くとは。馬鹿共の考えは理解し難い。
おかしいのは自分ではなく、あいつらなのだ。そう考えると笑いが込み上げてきた。しかしそれと共に押し殺せないほどの怒りも込み上げてくる。
創立7年の私立高校。7年前この学校を創設して以来、ずっと校長という職に務めてきた。それなのに…。
化け物め…。私の所有物をめちゃくちゃにしおって…。これじゃあこの先、私はどうしたらいいんだ?
6年前だってそうだ。創設し立てだっていうのに、あんな事件が起きた。まさかあの女が自殺するとは思わなかった。そのせいで我が校の評判はガタ落ちしたんだ。遺書は見つからなかっただろうから、まあいいが。数年経ってようやく信用を取り戻したところだったのに…。
「……なぜこの学校が…」
いや、なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか?
とにかく、あの者達を死なせるわけにはいかないな。私のボディーガードをしてもらわなければ…。
気付くといつの間にか外は静かになっていた。
いつも静かな時は、カチッ、カチッと時計の秒針の音が聞こえてくるが、今はそれもない。耐え難い、くっきりとした不安と孤独感。
まさか全員が出て行くとは思わなかった。せめて1人でも残っていてくれれば…。
大脇は横に目を向けた。
一人いたな。
長椅子に横たわる少女を舐め回すように見つめる大脇。
可愛い寝顔、盛り上がった胸、短めのスカートから伸びる色白の足……。
ふん…と鼻を鳴らし、椅子を180度回転させる。
窓を隠す白いブラインドに、自分と椅子の影が薄く写っている。手を上に伸ばせば影も真似をし、椅子の影から黒い手が伸びる。
背伸びをし、手に頬を乗せると、大脇は目を閉じた。
死なずに帰ってくることを願おう。ここにいれば私は安全だ。
そしてこのまま寝てしまおうかと思った時、後ろで物音がした。
安全な… はずだが…。
目を開けた大脇は凍りついた。蝋燭は後ろのテーブルに置いてある。しかし、さっきとは違い、目の前が暗い。
ブラインドに写る自分の影が別の大きな影に覆い隠されていた。
蝋燭の前に誰かが立っている。つまりは自分の後ろに…。
ガタンッと音をたてながら、大脇はオーバーリアクションで立ち上がった。
後ろには菜津稀が立っていた。
「……なんだ、君か…。脅かさないでくれよ…」
ドサッと腰が抜けたように椅子に座ると、くるりと後ろに向き直った。
「目が覚めたんだね。何があったのか覚えてるかい?」
菜津稀は何も言わずに、ただ校長の机の前に立っている。
最初は寝ぼけているのだろうと思ったが、どうやら様子が違う。
大脇は戦慄を覚えた。菜津稀は右手にカッターナイフを握っていた。
「私の怨みを…」
菜津稀の第一声は恐ろしいものだった。
「6年間の私の怨み… ここで…」
カチカチッ…とナイフの刃を出す音。
「まて…! 何のことだ!?」
だが、菜津稀が発するその声には聞き覚えがあった。
「6年… まさか、君は……」
大脇はこれまでにないくらいの恐怖を感じた。
一人の人物の顔が頭の中いっぱいに広がった。
「竹下佳世…」
竹下と呼ばれた菜津稀がふふふ…と笑った。
少女は面白くないと言いたげな表情で細い足場に立っていた。すべてを見下ろすように。
「音が止んだわね。もう始まるわよ」
「・・・・・」
「心配しなくてもあなたはまだ死なないわよ」
「……もう… やめて……」
もう一人の少女は、涙を流さず泣きじゃくっていた。もう涙が出ないのだ。
「こうなったらもう止められないわよ」
「いや……」
「何人生き残ると思う? ふふふふふ……」
「やめ…… ――っ…」
何かが始まった。