二‐‐‐‐ 不安
同日:PM 1時20分
男は静かな町の中を自転車で疾走していた。
短髪で歳は40代くらい。
運転の荒いその男は、度々通行人にぶつかりそうになるが、謝る素振りも見せず、ひたすら自転車を走らせる。
呼吸が苦しくなってきた。最近は車慣れしているせいで少々運動不足になっているようだ。
くそっ! こんな時に!
男は混乱していた。何が起こっているのか理解できなかった。
もうすぐだ… もうすぐ着く…!
男の名前は、川瀬春介 四十五歳。建設会社に勤めているが、収入は至って少ない。
なぜ、川瀬はこんなにも焦っているのか。
10分程前、自宅に電話がかかってきた。
久しぶりの平日休暇で、のんびり昼寝をしていた川瀬は、眠そうな声で電話に出た。
しかし、受話器の向こうの声を聞き、途端に眠気はふっとんだ。
電話は娘からだった。
切羽詰った娘― 弥生の泣き声は、身の危険を知らせるものであった。
ただ「助けて!」と繰り返し、ひどく混乱しているせいか、こちらの言葉はさっぱり通じていないようだった。
そして、電話は切れた。
川瀬はしばらく受話器を持ったまま呆然としていた。
寝起きと、突然の出来事に頭が回らなかった。
今、弥生は学校にいるはず…。学校で何か事件が起こったのか?
数十秒後、川瀬は動いていた。テーブルの上にあった果物ナイフを、長ズボンのポケットに押し込み車へと急いだ。
車庫のシャッターを開け、車のドアに辿り着くまで20秒もかからなかった。
弥生は無事なのか? ついさっき聞いた弥生の声が、頭から離れない。
まさか、男子生徒にレイプされているのでは…?
なにか重大な事件に巻き込まれている可能性もある。
弥生は、川瀬にとって娘以上の存在である。妻は弥生を産み、早くに他界した。この17年間、娘と二人で力を合わせ生活してきた。
何があっても弥生を失うようなことは―
ふと、ドアを開けようとした手が止まった。
車のドアはしっかりとロックされている。
……キーはどこだ…? ズボンのポケットにキーは入っていない。家の中に忘れてきたのか…。
今日は一度も車を使っていない。家のどこかにあることは間違いないが…。どこにあるんだ? 昨日着ていた上着の胸ポケットか? 俺の部屋の机の上か? もしかしたら、ベッドの上にあるのかもしれない…。
片っ端から探す時間は無い。
車の窓をぶち破ってロックを外すか… いや、それでもキーがなければエンジンをかけられない。どうする?
川瀬は周りを見回し、車庫の隅に一台の自転車が置かれているのに気付いた。娘がたまに使う自転車だ。
川瀬は自転車に駆け寄り、タイヤに空気が入っていることを祈りながらスタンドを外す。
大丈夫だ。空気は入っている。
ここから娘が通う学校まで、急げば15分もかからないはずだ。
川瀬は自転車にまたがり、娘がいる『大脇高校』へと急いだ。
学校は気味が悪いほどに静まり返っていた。
授業中なのか? しかしおかしいほどに静かだ。人の気配が全くない。
周りにパトカーなどは見当たらないな。事件というわけでもなさそうだ。
大脇高校は小さな学校で、警備員などは一人もいない。侵入しようと思えば楽々侵入できてしまう。
秋澤神社か…
川瀬はポケットのナイフを確認し、校内へと足を踏み入れた。
来客用玄関の前まで来た時、川瀬は立ち止まった。
空気が重い…。いや、濃いと言ったほうが合っているだろうか。とにかく、何かとてつもなく嫌なものを感じる。
入ってはいけない! 本能がそう叫ぶ。
しかし、入らなければいけない。弥生をここから救い出さなければいけない!
川瀬は強い思いで本能の叫びを振り切り、その得体の知れない空間へと踏み込んだ。
静かだ…。
中に入ればそうでもないと思っていたが、外にいるときよりもずっと静かだ。
耳の奥がキーンとする。
数歩進んだところで何かが視界に入った。
玄関の小ホール。そのすみの方に白い塊…。 人…?
人が倒れている!
白い夏用のセーラー服に黒のスカート。女子生徒のようだ。
「おい!どうした!」
川瀬はすぐに女生徒に駆け寄った。
茶色がかったショートヘア。弥生ではない。
「おい!大丈夫か!?」
ゆすって頬を何度か叩くが反応はない。
一体ここで何があったんだ? 弥生は無事なのか?
川瀬に耐えきれない不安が押し寄せる。
ふと、立ち上がって背後を見た。
そこには受付の窓口がある。普段は事務員が座っているはずなのだが…
「なんだ… これは…?」
事務室を覗き込んだ川瀬は愕然とした。
部屋の中には教師や事務員が数人、女生徒と同じく、皆、床に倒れている。
「どうしたんだ! 大丈夫ですか!?」
呼びかけるがやはり反応がない。
皆どうしたんだ!? どうなっているんだ!?
川瀬は再び女生徒に駆け寄った。
まだ死んでいると決まったわけではない!
呼吸の確認をしようと、女生徒の口元に頬を近づけたその時、突然ものすごい耳鳴りに襲われ、川瀬は仰け反った。
何だこれは… うるさい…!
周りの音が何も聞こえず、自分が倒れこみ、もがいていることも分からなかった。
だんだん自分のうめき声も聞こえなくなる。
すべてが無になったと感じた時、ふいに何か聞こえたような気がした。
子供の声…。「ふふふ…」と笑う女の子の声が…。
川瀬は自分の意識が無くなっていくのを感じた。