二十二 意志
昇と優哉を保健室に残した川瀬は、2階への階段を慎重に上っていた。
底無しの恐怖で足は震え、段差を踏み外してしまいそうだ。
この状況で恐怖しない人間なんているのだろうか? 死を恐れない人間なんているのだろうか? もう先へ進むのは嫌だ。いっそのことじっとしながら死んだほうがマシだ。
そんなことを考えながら一段一段踏みしめるように階段を上る。
今、川瀬の背中を押すのは娘を助けたいという強い思いだけ。しかし、その娘ももはや生きているという保証はない。
先ほどまで射していた一筋の希望の光も、今はもう薄れて見えない。
逃げ出してしまいたかった…。
苦もなく死ねたらどれだけいいだろう? 死んでしまえば過去のことにも弥生のことにも、もう苦しまずにすむ。
川瀬はそんな思いを振り切り、邪魔な感情を押し殺す。
俺は死ねないっ!!!
そうだ、強い信念がないとここでは生きていけない。気の迷いはいざという時に判断を鈍らせる。
大切な人の命と自分の命とどちらが大切かなんて、そんな質問は意味がない。
答えは『両方大切』に決まっている。どちらも失いたくない。結局、人を生かしたいということも自分自身の欲望なのだから…。
2つ目の階段…。
この階段を上れば2階だ。この先に何がある? これ以上の地獄が待っていないことを願おう。
上から騒々しい物音が聞こえる。一体先には何体いるのだろう?
今、手元に明かりはない。頼りはこの出刃包丁一本か… くそっ…。
他の持ち物は、首に卓郎に渡されたホイッスル。右ポケットにはダイナマイトとライター…。左ポケットにはドライバーと… 鍵……?
ああ、忘れてた。
発電小屋の鍵と一緒に適当に他の鍵も持ってきたんだ。何か使えそうなのがあるかもしれないな。
えぇと… 3つか…。
『資料室の鍵』…いらないか…?
『体育館の鍵』は、いらない。
あとは『生徒ロッカーのマスターキー』
……ロッカーのマスターキーか、これは使える。
たしか卓郎達と第二体育館へ行く時、ロッカースペースに通りかかったな。生徒用玄関のすぐ近くだ。
そこまで考え、川瀬は引き返すことにした。
他人のロッカーをあさるのは好ましいことではないが、高校生だからそれなりに使えそうな物を持っていそうだ。やっぱりまずは準備が必要だな。
川瀬は上ってきた階段を下り、1階の廊下を歩いていった。
理枝… 僕は……
保健室に昇と二人残された優哉は、椅子に座って机にひじを突いている。
昇はベッドに横になって何も喋らない。もっとも仲がいいわけではないので、普段の学校生活でもお互いに会話はしない。
今自分の気を紛わしてくれるのは揺れ動く蝋燭の炎だけ…。
僕はどうしたらいいんだ?
優哉には一つだけどうしても気がかりなことがあった。
それは一人の女の子… 栗色の綺麗な髪の女の子…。
「理枝…」
吉田理枝― 優哉の彼女だ。
高校2年生になってようやくできた恋人と呼べる存在。
優哉は彼女を一生守り抜くと誓った…。
しかし…
理枝… 君は死んでしまったのか…?
『生き残ったのは2年3組のメンバーだけらしい―』
卓郎の言葉が、鉛のように重く優哉の胸にのしかかる。
そう、理枝は同学年だが、優哉とは違うクラスなのだ。
今にも潰れてしまいそうな心…。
胸が苦しい…。誰かに心臓を握り締められているような感じ…。
怖い…。彼女を失うのがとてつもなく怖い。
もう彼女の笑顔が見れない… 彼女と話ができない… 彼女との思い出だけが虚しく胸に残る…。
形のない思い出なんてまっぴらだ!
おじさんと一緒に行動していればもしかしたら見つかるかもしれない。
おじさんが保健室を出て行って3分ちょっと… 2階へ向かっただろうから今ならまだ追いかけられる。
優哉は胸を押さえ、床を踏みしめる。
行くんだ…!
優哉が立ち上がった音で、小さな寝息をたてていた昇が目を開けた。
「どうした?」
「……おじさんを手伝ってくる」
そう言って優哉は木刀と懐中電灯を手に取り、ドアの前に立った。
どんな現実であっても… 僕は耐えられるかな…?
<カチッ…>
鍵を開け、ドアノブを握ると、金属の冷たさが余計に恐怖を誘う。
優哉は恐怖を握り潰すように、振り捨てるようにノブを前へ押した。
ここを出たら数秒後には死んでいるかもしれない。
・・・・・
それでいいじゃないか…
死ぬ時は… 死んでやるさ…。
「はは……」
狂気に満ちた空間が再び優哉を迎え入れた。