二十一 殺意
何なんだ、この人は? いつの間に後ろに?
その女はまたあの微笑を祐史に向けた。
相変わらず悲しみと憎しみに染まった微笑み。
「聞こえるのね? この音が」
女が再び聞いた。
「この音って… この音…?」
祐史は鳴り止まないその音に耳を傾ける。
「聞こえちゃいけないんですか…?」
女は答えない。さっきと違って無表情で祐史の目を見つめている。
心を見透かされているような感覚…。
心臓の鼓動が早くなる。
「あなたは… 誰なんですか?」
声を低くし、今度は別の質問をする。
しかし、これにも女は答えない。
「何か知ってるんでしょ!? 教えてください!」
あまり大声を出すと、化け物共に気付かれる。それはわかっている。しかし何も答えずに自分を見つめているその女に、祐史はしだいに腹が立ってきた。
何なんだ!? この人は何がしたいんだ!?
もうわけがわからない。この女が人間ではないことはわかっている。人間だったら殴り飛ばしたいところだ。俺は何人も人の姿をした化け物を殺したんだ、もう化け物を殺すことに罪悪感なんてものはない。
無意識に右手がベルトの刃物へ動く。
……!? 俺は何を考えているんだ?
すでに中指が包丁の柄に触れている。
今、俺は… 何をしようとしていた?
急いで刃物から手を離し、拳を固める。
祐史は怖くなった。自分の自制心が薄れていることに。
俺はこの女を殺そうと考えていたのか…?
しかし女はそんなことを気にも留めていない様子で、祐史を見ている。
怒りを抑えろ…。自分を見失うな…。
祐史は自分に言い聞かせた。
「気をつけなさい」
女はやっと祐史から目を逸らし、また微笑んだ。
「闇へ導かれないように…」
そして、女は祐史の目の前から姿を消した。
「導かれる…?」
どういう意味だ? あの人は俺に忠告しに来た… のか…?
<ジャァーーー…>
「おっと…」
出しっぱなしになっていた水を止め、通路の暗がりを見た。
タクのやつ遅いな… 様子を見るだけじゃなかったのか?
途端に不安が波のように押し寄せてきた。
「タク…!」
んー… やっぱり暗いな…。
卓郎は目を凝らし、ホールを上から下まで眺める。
もしもまだおっさん達が言う怪物がいたらまずは明かりは点けないほうがいい。むやみに点ければ気付かれるだけだ。
しかし、見たところ動くものはない。
卓郎はそっと懐中電灯のスイッチを入れた。
……何もいない…。
天井も壁も明かりで照らすが、何もいない。
床には大きな電球が転がっており、その破片が周りに散乱している。
奥まで行ってみるか…。
できる限り足音を消して、散らばったガラス片に気をつけながら館内を歩く。
左手で懐中電灯を持ち、ナイフを握った右手を前で構える。
どこにいる? もしかしてもういないのか…? そのほうが都合がいいが。
さほど広くないので、ゆっくり歩いても奥までたどり着くのにそう時間はかからなかった。
倉庫… おっさん達はこの中は調べてないと言っていた。どうせだから調べてみるか。
卓郎は扉の取っ手に手をかけた。
3回ほど深呼吸をし、扉をゆっくり手前に引く。
キィ… という軋む音を耳元に聞きながら、頭を中に入れる。
次に電灯を持った左手を…。
あれ…?
倉庫の中には剣道の防具や竹刀、柔道着などが整理されて置かれているが、一つだけおかしな物も視界に入った。
「え… ロープ…?」
ロープ―― それはその場に有るまじき物だった。
普通にロープが床に置いてあるだけなら卓郎も驚きはしないだろう。しかし、そのロープは明らかに異様だった。
まるで絞首台のロープのように輪になって、それが天井から垂れ下がり、風も吹いていないのにゆらゆらと左右に揺れている。
「なんで…?」
「シャァァぅーーーー…」
突然、頭上から聞こえた喉を潰したような声。
時間が止まった気がした…。
こんなところに… 隠れていたのか……。
すばやく空気を切る音が聞こえ、慌てて身を屈めると何かが髪をかすった。
そのまま前方に転がり、後ろを振り向く。
卓郎が立っていた場所の真上に一つ目の怪物が吊り下がるようになっている。
こいつが…?
くっ…! しまった… 完全に倉庫の中に追いやられた…。
「シャァうーーーーー…」
また怪物が唸った。
そしてそのまま開いた扉を塞ぐように卓郎の前に立ちはだかる。
閉じ込められた……。
そうだ、光を当てれば… いや、狭い室内でそれはまずいか…? 暴れられたらどうなるか…。
「タクっ!」
「ヒャァァぁぁーーーー……!」
祐史の叫び声の後に怪物の悲痛の声が響いた。
「祐史…!?」
「こいつ…! とっととどけぇ!!」
<ザシュッ!>
<ザシュッ!>
祐史が何度も包丁を怪物に突き刺す。
「シャヮァァーーー……!!」
さすがにこれには耐え切れなかったのか、怪物は壁を飛び跳ね、天井に張り付いた。
卓郎の肩や腕に血液が滴る。
<ガタン…!>
倉庫の扉を閉めた後は、ひたすら全力疾走。
「助かった!」
卓郎が走りながらお礼を言うが、返ってきた言葉は手厳しいものだった。
「お前ほんとは馬鹿だろ! 馬鹿だよな!?」
「・・・・・」
反論できない自分が悲しかった…。