④目的地のないバス。
その夜は布団にもぐりこんだ後も、なかなか寝付けなかった。まぶたを閉じても、浮かんでくるのは梶間の顔ばかり。消化不良のもやもやとしたいら立ちを押さえることができずに、何度も起き上がってしまう。
担任の小言を聞きながら、ひらひら手を振ってきた彼の大きくて細い指先。あたしを見つめる、色素の薄いグレイッシュブラウンのひとみ。
「待って」視線の先をぐるぐるさまよわせながら、サイドテーブルに放りっぱなしだったフリースを引き寄せる。
「あの目、見覚えがある……気がする。でも、違うのかな。あの子の名前は、梶間なんかじゃないもの」
小学生のころ、近所にヒデと呼ばれる子が住んでいた。病弱で線の細い、小鹿のようなかわいらしい雰囲気をまとった男の子だった。同い歳だったこともあって、ずいぶん仲よく遊んだものだ。
「最後に会ったのは、たしか……」
六年前、小学二年の夏のこと。彼の家では両親が離婚して、親権を争って裁判にまで発展した。結局、経済力を加味された父親が親権を獲得し、それを不服に思った母親が息子を誘拐してちょっとした事件になった。
「そうよ、上林英嗣」
あれだけ仲がよかったにもかかわらず、事件のごたごたのせいで最後にどんな別れ方をしたのか、はっきりと思い出せない。
「あんな猿みたいな男といっしょにしたら、ヒデちゃんがかわいそう」
争いごとを嫌い、いつもどこか泣き出しそうにみんなを見上げていた彼のひとみには、世界はどんなふうに映っていたのだろう。
「とにかく! もう寝ないと」
宣言するも、もう一度ベッドに半身を起こす。目覚まし時計をセットし直していると、本棚の隅に突っ込んであった小学校の卒業アルバムが目に付いた。一年の入学祝いの集合写真を探し出す。
「よく見えない……でも、これかな? これは……」
ぶつぶつこぼしながら豆粒の中に指先を這わせていると、玄関のカギをがちゃがちゃ開ける音が聞こえてきた。深夜まで働きづめの父さんが、ようやく帰宅したのだ。慌てて電気を消して布団をかぶると、どかどか短い廊下を歩く音が近づいてきて、無遠慮にドアが開け放たれた。
「花梨? もう寝たのか?」
わずかな間があって、再び部屋は暗闇に沈む。あたしが用意しておいた夕飯を、レンジで温めずにそのまま食べているのが、もれ聞こえる音で分かった。そのあとは、冷蔵庫の奥に隠しておいたビールを探し当てたのだろう、鼻歌交じりに台所を歩き回っている。栓を開ける音が響いたのを合図に、あたしは夢の世界に落ちていった。
短い夜の間にあたしが見たのは、行き先のかかれていないバスに乗る、いつもの夢だった。