⑯彼女が、来ない。
梶間の頭に、桜の花びらが降る。ゆらゆら、ひらひら。心持ち歩幅を緩めて、わざと彼に追い抜かれてみた。話しかけようと何度か唇をもごもごさせると、ようやく心を決めて、声をしぼり出す。
「あの……あの、さ、うん」
振り返った梶間のまゆに、細いシワが寄った。それがたちどころに消えて、満面の笑みに変わる。
「なに?」
それがかえって拒絶されているような気がして、慌てて首を振る。
「ううん。なんでも、ない」
思い出させてしまったのだ。単なる想像でおびえていたあたしなんかより、もっと、ずっと、深く……深く傷ついたのだろう彼にとって、あの一連の出来事は消し去りがたい辛い記憶なのだ。
「あのね……」
梶間の視線が、あたしの上を滑る。
「あの、うん……」それ以上、コトバにはならない。言えるわけない。あたしなんかが何を取り繕っても、薄っぺらい。あたしは……ずっと自分の不幸だけを呪って生きてきたあたしは、傷ついている人をなぐさめるコトバひとつ、知らない。
「梶間~!」男子らの一団が、にやにや笑いながら、追いついてきた。中のひとりが、涙目になっているあたしを一瞥して、梶間の肩を小突いた。
「ちげぇよ」と小突き返すのをぼんやり見つめていると、彼らはどんどん先に行ってしまった。
もっと優しい人間になりたい、と願った。
自分のことだけに一生懸命なのではなく、もっと周りの……たとえば、自分を心配してくれた人を何気ない会話で傷つけたりしないような、そんな人間に。
胸が、きゅ、とした。
桜並木が、目に痛い。緑に紛れた桜色が、くるくる宙に舞う。むせ返るような、春の匂い。まぶしすぎて、目がくらんでしまう。
「花梨!」沢村ミズキの声が、やけに近くから聞こえた。驚いて首をめぐらせると、古い桜の大木の陰から、本人が顔を出した。印象的な切れ長の目が、ぎら、と輝いている。
「……びっくりした。なんでそんなトコにいるの?」
何気ない会話を普通に交わせる相手がいるということが、こんなにも幸せだなんて。豆粒ほどになった梶間の後ろ姿にもう一度視線を投げてから、沢村ミズキに向き直った。
「うん。まぁ……うん。それよりも! ビックニュースよ!」
両腕を組んだ沢村ミズキは、得意げにふんぞり返った。
「もう、姫は学校に来られないかも知れない!」
コトバの意味がのみ込めなくて、首をかしげる。
「だから!」満面の笑みを顔じゅうにたたえた沢村ミズキは、もう一度声を張った。
「姫の父親が逮捕されたのよぅ! 家の前を通ったら、ものすごい報道陣だったわ!」