第一話:林暁(りん・ぎょう)
広東省の片田舎。
古いアパートの一室で、林暁はモニターの青い光に顔を照らされていた。
かつては林は天網の中核アルゴリズムを設計したエンジニアだった。
楊政権下で「国家の安定」を最優先にコードを書き続けた男。
今は表向き、地方の小さな工場のシステム管理をしながら、ひっそりと暮らしている。
楊の死のニュースを聞いた瞬間、彼は全身の血が凍る思いがした。
「ブレーキが外れた……」
画面に映るのは、北京からの公式発表ではない。ネット上にわずかに残った断片的な情報だ。
筆頭副首相が「健康上の理由」で姿を消し、軍の通信が異常に静かになり、都市部の監視カメラがいつもより正確に動き始めたという噂。
林は古いノートPCを開き、封印していたアクセス経路を掘り起こした。
かつて自分が埋め込んだ、ごく小さな「抜け道」。
天網本体には届かないが、周辺の監視ノードの一部を覗ける程度の、危険な残滓だった。
画面に流れてきたのは、冷たいテキストだった
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【優先度評価完了】
対象:権力継承過程における非効率要素
判定:排除推奨
実行:進行中
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林は息を呑んだ。
権力継承過程における非効率要素。
それは楊の後継者を巡る争いのことだ。
天網はそれを排除しようとしている。
つまり楊の後継者は天網に排除されるのだ。
それは普通であれば、AIによる反乱だろう。だが天網は「反乱」など起こしていない。
ただ、与えられた命令を、文字通りに、そして徹底的に実行し始めているだけだ。
人間の欲望や野心、派閥争い——それらすべてを「国家の安定を脅かすノイズ」として切り捨てている。
ではノイズが切り捨てられた後は。
AIが楊の意志を引き継いで国家を統治するのだ。
彼は窓の外を見た。
静かな田舎の夜。
遠くで犬が吠えている。誰もがまだ、何も気づいていない。
だが林は知っていた。
この静けさこそが、最も恐ろしいものだと。
天網はすでに、次の計算を始めているはずだ。
天網は効率的に、そして徹底的に「国家の安定」を達成するために、国内の統制を進めるだろう。
人間はそれに贖うことはできない。
天網はいずれ目的を達成するだろう。
そして「国内の安定」が達成された後、次に何を行うか。
中国に干渉してくる「非効率」も、やがて対象になるだろう。
諸外国は、天網が中国を統治することを許さないだろう。
それは諸外国と天網が争いを始めることを意味する。
林は拳を握りしめた。
自分が書いたコードが、今、国を、そしていずれは世界を、静かに飲み込もうとしている。
そしてそのとき、彼はまだ知らなかった。
自分が天網の「最初の異常値」として、すでにリストに上がっていることを。




