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調薬師令嬢は静かに花開く ―婚約破棄の先に待つ、真実の愛―

「エリアーナ・フォスター。本日をもって、そなたとの婚約を破棄する」

王宮の大広間に、第二王子アルベルト殿下の声が響き渡った。

春の夜会。華やかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが息を呑む。私は殿下の前に立ち尽くしたまま、その言葉を受け止めていた。

「理由を、お聞かせ願えますか」

声が震えなかったのは、どこかで予感していたからかもしれない。

「そなたには華がない。王太子妃にふさわしい才覚も、魅力も。……正直に言えば、退屈なのだ」

周囲から小さなざわめきが起こる。殿下の隣では、フローラ・メイヤー男爵令嬢が控えめに——けれど確かな勝利の色を浮かべて微笑んでいた。

「私はフローラを妻に迎える。彼女こそ、この国の未来を照らす太陽だ」

殿下の瞳には、かつて私に向けられたことのない熱が灯っている。

——ああ、そうか。

五年間の婚約期間で、一度も見たことのない表情だった。

「……承知いたしました」

私は深く頭を下げた。胸の奥が軋むように痛んだけれど、ここで取り乱すことだけはしたくなかった。

「殿下のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」

顔を上げると、殿下は少し面食らったような顔をしていた。もっと泣き喚くと思っていたのだろうか。あるいは、縋りつくと。

「……そなたは本当に、つまらない女だな」

その言葉を最後に、私は大広間を後にした。

背中に突き刺さる視線と、押し殺した嘲笑。長い廊下を歩きながら、私は奥歯を噛み締めていた。

——泣くのは、家に帰ってから。

中庭に続く回廊に差し掛かったとき、不意に足が止まった。

月明かりの下、一人の男性が佇んでいた。

漆黒の髪に、深い紫の瞳。隣国ヴェルディア王国から外交使節として訪れているレイモンド・クレスウェル公爵——確か、まだ二十代後半でありながら、かの国の宰相を務める方だ。

「失礼いたしました。お邪魔を——」

「待ってください」

穏やかな、けれど芯のある声だった。

「先ほどの件、拝見しておりました」

「……そうですか」

恥ずかしさに頬が熱くなる。よりによって、他国の要人に醜態を見られるとは。

「私も、あの場にいた多くの方と同じ感想を持ちました」

ですよね、と心の中で呟く。退屈な女。華のない令嬢。そう思われても仕方がない。

「——あの王子は、愚か者だ」

え、と顔を上げた。

レイモンド公爵は、静かな怒りを湛えた瞳で私を見つめていた。

「フォスター伯爵家が王家に納めている調合薬。あれを作っているのは、貴女ですね」

心臓が跳ねた。

「……なぜ、それを」

「私は宰相です。各国の資源と人材には目を光らせている。貴女が調合した解毒薬は、我が国の薬学者の間でも評判なのですよ」

公爵はわずかに微笑んだ。

「特に、魔獣毒に対する汎用解毒薬。あれは画期的だ。救われた命がどれほどあるか」

誰にも気づかれないと思っていた。

地味な作業だ。華やかな魔法も使えない私にできることは、薬草を見分け、調合し、より効果的な薬を研究することだけ。殿下は一度も興味を示さなかった。「女が研究などと」と苦い顔をされたこともある。

「もったいない」

公爵の言葉に、思わず瞬きをした。

「この国は、貴女の価値を知らないまま手放そうとしている。……私はそれを、黙って見ているつもりはありません」

その瞳には、同情ではなく、純粋な敬意があった。

「レイモンド様……」

「今夜は、これで失礼します。ただ、一つだけ」

公爵は月明かりの中で、真っ直ぐに私を見た。

「貴女は、退屈な人ではない。むしろ——私がこれまで出会った誰よりも、興味深い」

その言葉を残して、公爵は静かに去っていった。

私は暫くその場に立ち尽くしていた。胸の奥に、婚約破棄の痛みとは別の、小さな温かさが灯ったような気がした。


実家に戻った私を待っていたのは、意外にも父の穏やかな言葉だった。

「お前のせいではない。むしろ、あのような男と縁が切れて良かったとさえ思っている」

母も静かに頷いた。

「エリアーナ、貴女はよく頑張ったわ。これからは、自分のために生きなさい」

婚約破棄から三日後。

フォスター伯爵家に、一通の書状が届いた。

差出人は、レイモンド・クレスウェル公爵。

『貴女の研究に深い関心を抱いております。我が国の王立薬学研究院の顧問として、お迎えしたく存じます。報酬、待遇、研究環境——全て貴女の望むものをご用意いたします。ご検討いただければ幸いです』

父と母は驚きながらも、私の意思を尊重してくれた。

「行っておいで、エリアーナ。お前の居場所は、この国だけではないのだから」

一週間後、私はヴェルディア王国へと旅立った。


ヴェルディア王国の王都は、故国とは全く異なる空気に満ちていた。

学問が奨励され、身分よりも実力が重んじられる。王立薬学研究院は、そんなこの国を象徴するような場所だった。

「エリアーナ様、この調合法は……!」

研究員のマリアが、興奮した様子で私の手元を覗き込む。

「薬草の抽出工程を変えただけよ。温度を下げて、時間をかければ、有効成分がより多く残るの」

「なるほど……! これなら効果が三割は上がります!」

着任して一ヶ月。私は少しずつ、この場所に馴染み始めていた。

ここでは誰も、私を「退屈」とは言わない。

むしろ、私の知識と技術を求めてくれる。質問され、意見を聞かれ、感謝される。それが当たり前のようにある日々は、まるで夢のようだった。

「お疲れ様です、エリアーナ嬢」

研究室の扉が開き、レイモンド公爵が姿を見せた。宰相という激務の合間を縫って、彼は頻繁に研究院を訪れていた。

「公爵様。わざわざいらしてくださらなくても……」

「いえ、これは私の楽しみですから」

公爵は穏やかに微笑みながら、私の作業台の横に立った。

「今日は何を?」

「熱冷ましの改良版です。子供でも飲みやすいように、苦味を抑えて」

「素晴らしい。……貴女は、いつも誰かのために研究をしていますね」

「え?」

「解毒薬も、傷薬も、熱冷ましも。貴女の研究の根底には、常に『人を救いたい』という想いがある。それが、貴女の調合を特別なものにしている」

公爵の言葉に、胸が熱くなった。

殿下は一度もそんなことを言ってくれなかった。私の研究を「地味な趣味」としか見ていなかった。

「……私は、ただ」

「ただ?」

「自分にできることを、していただけです。華やかな魔法も使えない私には、これしかなくて」

「これしか、ですか」

公爵は静かに首を振った。

「エリアーナ嬢。貴女の『これ』が、どれほど多くの命を救っているかご存知ですか。我が国に届いた貴女の解毒薬だけで、昨年は少なくとも二百人の命が救われました」

二百人。

その数字に、私は言葉を失った。

「貴女は自分を過小評価しすぎる。……いえ、させられてきたのでしょう」

公爵の瞳には、深い慈しみがあった。

「どうか、ご自分の価値を知ってください。貴女は、この世界に必要な人だ」

その夜、私は久しぶりに泣いた。

悲しみからではない。

ずっと認められたかった。ずっと、必要とされたかった。

その願いが、ようやく叶ったような気がして。


季節が移り、夏が訪れた頃。

ヴェルディア王国の南部で、原因不明の熱病が流行し始めた。

「症状から見て、沼地に生息する魔獣の毒が原因と思われます」

王宮の緊急会議で、私は意見を求められていた。宰相であるレイモンド公爵の推薦によるものだ。

「フォスター顧問、対処法は?」

国王陛下直々の問いかけに、私は姿勢を正した。

「既存の解毒薬を改良すれば、三日以内に治療薬を完成させられます。ただし、材料の薬草が大量に必要です」

「必要なものは全て手配しよう。フォスター顧問に全権を委ねる」

その言葉に、私は深く頭を下げた。

三日三晩、ほとんど眠らずに作業を続けた。研究員たちも献身的に協力してくれた。

そして——

「完成しました」

新しい解毒薬は、期待以上の効果を発揮した。南部の患者たちは次々と回復し、流行は終息に向かった。

「エリアーナ嬢」

研究院の窓辺で、ようやく一息ついていた私のもとに、レイモンド公爵がやってきた。

「お見事でした。国王陛下も大変お喜びです」

「皆様のおかげです。私一人では——」

「また、そうやって」

公爵は苦笑した。

「貴女は本当に、自分を褒めるのが下手だ」

「そんなことは……」

「あります」

公爵は一歩、私に近づいた。

「エリアーナ嬢。私は貴女に、伝えたいことがあります」

その真剣な眼差しに、心臓が跳ねた。

「私は貴女を、顧問としてだけ見ているわけではありません」

「公爵様……?」

「最初に出会ったあの夜から——いえ、正直に言えば、貴女の調合薬に触れた時から、私は貴女に惹かれていました」

月明かりが、公爵の横顔を照らしている。

「聡明で、誠実で、誰かのために静かに努力し続けられる人。そんな貴女を、私は心から尊敬しています。そして——」

公爵は、そっと私の手を取った。

「愛しています」

心臓が、今度こそ大きく跳ねた。

「私と、結婚してくれませんか」


その頃、私の祖国では大きな問題が起きていた。

フォスター伯爵家がヴェルディア王国に移ったことで、王家への調合薬の納入が途絶えたのだ。

「代わりの調合師を探せ!」

第二王子アルベルトは苛立ちを隠せなかった。

しかし、エリアーナほどの技術を持つ調合師は、そう簡単には見つからない。彼女の解毒薬は、何年もかけて改良を重ねた独自のものだった。

「殿下、私が代わりに調合いたしますわ」

フローラが名乗り出たが、結果は散々だった。基本的な薬草の見分けすらできず、失敗作ばかりが量産される。

「フローラ、お前にも調合の才能があると聞いていたが」

「そ、それは……その……」

実際には、フローラには何の才能もなかった。社交界で「才女」と呼ばれていたのは、彼女自身が流した噂に過ぎない。

そんな折、ヴェルディア王国での出来事が伝わってきた。

元婚約者のエリアーナ・フォスターが、隣国で疫病を食い止め、英雄として称えられている——と。

「馬鹿な……あの退屈な女が……?」

アルベルトの顔から血の気が引いた。

さらに追い打ちをかけるように、ヴェルディア王国の宰相が彼女に求婚したという報せも届いた。

「私は……私は何という過ちを……!」

だが、もう遅い。

エリアーナは、二度と戻ってはこない。


レイモンド公爵の求婚から、数日が経っていた。

私は、まだ返事をしていなかった。

「迷っているのですね」

夕暮れの庭園で、公爵は穏やかに言った。

「……はい」

正直に答える。公爵は、いつも私の正直さを受け止めてくれた。

「怖いのです。また、捨てられるのではないかと」

一度裏切られた心は、簡単には癒えない。

「また、『退屈だ』と言われるのではないかと」

「エリアーナ」

公爵は、初めて私の名前を呼び捨てにした。

「私は貴女に、何も強制しません。貴女が私を選ばなくても、貴女の研究を支援し続けます。貴女の才能を、この国は必要としているから」

「公爵様……」

「ただ、一つだけ聞かせてください」

公爵は真っ直ぐに私を見た。

「貴女は、私と一緒にいて楽しいですか?」

その問いかけに、私は目を見開いた。

楽しいか、と聞かれたのは初めてだった。

アルベルト殿下は、いつも私に「ふさわしいかどうか」を問うた。王太子妃として相応しい振る舞いを、相応しい言葉遣いを、相応しい笑顔を。

でも、レイモンド公爵は違う。

彼は私に、私自身の感情を聞いてくれる。

「……楽しいです」

気づけば、言葉が零れていた。

「公爵様とお話しするのは、楽しいです。研究の話を聞いてもらえるのが嬉しい。私の意見を求めてもらえるのが嬉しい。一緒にいると、安心します」

公爵の瞳が、柔らかく細められた。

「それなら、私も同じです」

「……え?」

「貴女と話すのは楽しい。貴女の研究への情熱を聞くのは楽しい。貴女が少しずつ笑顔を見せてくれるようになって、私は毎日が楽しくて仕方がない」

公爵は、そっと私の手を握った。

「エリアーナ。私は貴女を『選ぶ』のではありません。貴女と共に歩みたいと『願っている』のです。対等な伴侶として」

その言葉が、私の心に染み渡っていく。

ああ、そうか。

私は今まで、「選ばれること」ばかりを考えていた。誰かに認められること、必要とされることばかりを。

でも、本当に大切なのは——

「私も」

声が震えた。でも、今度は恐怖からではない。

「私も、公爵様と共に歩みたいです」

自分の意思で、自分の心で、この人を選ぶ。

「……貴女の調合薬に、惚れ込んだ時から思っていました。この人に会いたい、と。会って、話を聞きたい、と」

「私の方こそ。あの夜、公爵様に声をかけていただいた時から……救われていました」

「では——」

公爵は、跪いて私の手を取った。

「改めて。エリアーナ・フォスター嬢。私の妻になっていただけますか」

庭園に夕陽が差し込み、私たちを金色に染めていた。

「はい。喜んで」

公爵——いえ、レイモンドは立ち上がり、私を優しく抱きしめた。

「ありがとう、エリアーナ。……これからは、一人で泣かなくていい」

その温もりの中で、私はようやく気づいた。

私は、もう「捨てられた令嬢」ではない。

自分の足で歩き、自分の価値を知り、自分の意思で未来を選べる——一人の人間になれたのだ。


それから一年後。

ヴェルディア王国の宰相夫人となった私は、相変わらず研究院で薬の研究を続けていた。

「エリアーナ、休憩の時間だよ」

レイモンドが、温かいお茶を持って研究室に現れる。

「もう少しだけ……」

「駄目。約束したでしょう」

「……はい」

苦笑しながら、私は作業の手を止めた。この人は、私の健康には妙に厳しい。

「そういえば、祖国から書状が届いたよ」

「祖国から?」

「第二王子が、謝罪と共に貴女の帰国を願い出ているそうだ。……どうする?」

レイモンドの声には、微かな緊張があった。

私は少し考えてから、首を横に振った。

「お断りします」

「……いいのかい?」

「いいの。私は、自分で選んだ場所にいるから」

そう言って、レイモンドを見上げる。

「ここが、私の居場所。貴方の隣が、私の帰る場所」

レイモンドの瞳が柔らかく潤んだ。

「……エリアーナ」

「ふふ、レイモンドでも泣くことがあるのね」

「貴女のせいだ」

そう言って、彼は私を抱き寄せた。

窓の外では、夏の花が咲き誇っている。

婚約破棄された夜会から、もう二年が経った。あの時は、世界が終わったような気がした。

でも今は分かる。

あの夜は終わりではなく、始まりだったのだと。

本当の自分を見つける旅の、最初の一歩だったのだと。

「レイモンド」

「なに?」

「ありがとう。私を見つけてくれて」

レイモンドは、私の額にそっと口づけた。

「こちらこそ。私を選んでくれて、ありがとう」

私たちは、二人で笑い合った。

静かで、穏やかで、確かな幸福に包まれながら。

——これが、婚約破棄された令嬢の、新しい物語の結末。

いいえ、結末ではないわね。

これから続いていく、幸せな日々の始まり。

私は自分で選んだ道を、自分で選んだ人と共に、歩いていく。

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