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第六十五話:水を被るという選択



 ルカが、前に出たまま動かない。


 火は、確実にそこにある。

 熱も、匂いも、逃げ場のなさも。


 それでも――

 彼は、退かない。


(……どうして)


 リディアは、息を吸った。


 彼の背中は、

 強くも、大きくもない。

 それなのに、今は、

 誰よりも揺るがない。


(……違う)


 胸の奥で、何かが噛み合わない。


 これは、彼一人に背負わせるものではない。

 誰かが犠牲になる前提で、

 誰かが立つ構図ではない。


 リディアは、きゅっと唇を噛む。


(私は……)


 選ばせないと、決めている。

 奪わないと、決めている。

 それでも――


 水袋を、掴んだ。


「……殿下」


 アランが、はっとする。


「リディア、待て」


 だが、リディアは振り向かない。


「命令なら、聞きません」

 静かに、言い切る。

「これは……私の判断です」


 水袋を、頭から被る。


 一瞬、冷たさに息が詰まる。

 だが、迷いはない。


 火の前に、立つ。


 ルカの隣に。


「……リディア?」


 小さく、名前を呼ばれる。


 彼女は、視線を合わせないまま答えた。


「一人に、させません」


 それだけで、十分だった。


 次の瞬間。

 リディアは、火の中へ踏み出した。


 熱が、肌を刺す。

 水が、蒸気に変わる。

 視界が、白く揺れる。


 それでも、止まらない。


「――っ!!」


 背後で、アランの声が聞こえる。

 だが、今は振り返らない。


 子どもの腕を、確かに掴む。


「大丈夫です」


 声は、震えていなかった。


「行きましょう」


 火の向こうで、

 金色の瞳が、細くなる。


『……なるほど』


 愉快でも、苛立ちでもない。

 ただ、確かめるような声。


『それが』

『君の答えか』


 リディアは、顔を上げた。


「答えではありません」


 一拍。


「これは……行動です」


 火が、揺らぐ。


 夜が、軋む。


 そして――

 選ばせるための舞台は、

 確かに、崩れ始めていた。

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