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第五十七話:思い出してはいけない名前



 夜が、軋んだ。


 はっきりとした音がしたわけではない。

 だが、確かに――

 何かが、噛み合わなくなる感覚があった。


 ルカは、無意識に足を止めていた。


(……来るな)


 そう思った瞬間に、

 それはもう、遅い。


 リディアが前に出た。

 迷いのない足取り。

 覚悟を決めた人間の動き。


(……だから、嫌なんだ)


 胸の奥が、嫌な熱を帯びる。

 息が、わずかに浅くなる。


 これは今の自分の感情だ。

 そう言い聞かせる。


 ――前とは、違う。

 今度は、違う。


 なのに。


『怖いよ』


 その声を聞いた瞬間、

 思考が、弾けた。


 耳で聞いたわけじゃない。

 音として存在していない。

 それでも――

 確実に、届いた。


(……やめろ)


 視界の端が、歪む。


『暗い』

『大人は、すぐ約束を変える』


 胸の奥で、

 何かが、きしむ。


 この言い方。

 この間。

 この、感情を抉る声。


(……知ってる)


 知っている。

 知っているはずが、ないのに。


 ルカは、奥歯を噛みしめた。


(思い出すな)

(繋げるな)

(今は、まだだ)


 これは、今世の問題だ。

 今世の王都。

 今世の、子ども。


 ――前世を、持ち出すな。


 だが、金色の瞳は容赦がなかった。


『守るんでしょう?』

『なら、選ばないと』


 その瞬間。

 頭の奥で、何かが、ひっくり返る。


 子ども。

 夜。

 選択。

 大人の都合。


 ――秤。


(……っ)


 呼吸が、乱れた。


 目の前の闇が、

 一瞬だけ、

 別の光景に重なる。


 燃えていない家。

 泣いていない子ども。

 それでも、失われた未来。


(……違う)


 これは、違う。

 今は、まだ――


「ルカ」


 アランの声が、現実に引き戻す。


「……大丈夫だ」


 即答だった。

 嘘だと、自分が一番分かっている。


 だが、

 ここで崩れるわけにはいかない。


(思い出すのは、まだ先だ)


 ルカは、ゆっくりと息を整えた。


 金眼が、こちらを見ている。

 確実に。

 確信を持って。


『……覚えているね』


 静かな声。

 確定を含んだ言葉。


 ルカは、視線を逸らさなかった。


「……勘違いするな」


 低く、言い切る。


「俺は、今の話をしてる」


 過去じゃない。

 償いでもない。

 ――今だ。


 それでも、

 胸の奥で、

 名前にならない何かが、

 確実に、形を取り始めていた。


 思い出してはいけない。

 だが――


 この夜は、

 それを許してくれそうになかった。

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