第五十六話:それでも、踏み出す理由
夜は、まだ終わらない。
だが、王都の空気は、確実に変わっていた。
静かすぎる夜は、いつも何かを孕んでいる。
リディアは、路地の奥を見つめていた。
灯りは届かない。
人影もない。
それでも――
そこに「いる」ことだけは、分かる。
(……子ども)
胸の奥が、じくりと痛む。
それは恐怖でも、焦りでもない。
もっと、嫌な感覚だった。
理屈なら、分かっている。
夜明けまで待つべきだ。
殿下の判断は、正しい。
被害を最小限に抑えるための、最善。
――それでも。
(それでも、なのよ)
金色の瞳が脳裏をよぎる。
あの声。
あの言い方。
『未来を選ばせているだけだ』
違う。
それは選択じゃない。
恐怖の中にいる子どもに、
大人の都合を背負わせているだけだ。
リディアは、ゆっくりと息を吸った。
(政治なら、止まれる)
(損得なら、待てる)
(交渉なら、引き延ばせる)
それは、これまで何度もやってきたことだ。
感情を脇に置いて、
結果を優先する判断。
――でも。
(怖がっている声を、
計算の中に入れることだけは、出来ない)
背後で、気配が揺れる。
アランだ。
「……リディア」
振り返らずに答えた。
声は、思ったより落ち着いている。
「分かっています、殿下」
「なら――」
続く言葉を、待たずに遮る。
「それでも、行きます」
一瞬、空気が止まった。
アランが言葉を失い、
ルカが、何かを言いかけて――
結局、黙る。
リディアは、一歩、前に出た。
「これは、王族でも、政治でもなく」
小さく息を吐く。
「……私自身の判断です」
命令でもない。
お願いでもない。
ただの、宣言。
誰も、止めなかった。
正確には――
誰も、止められなかった。
その瞬間。
どこかで、金色の瞳が細まる気配がした。
『……来たね』
愉悦を含んだ声。
リディアは、唇を引き結ぶ。
火は、まだ見えない。
だが、この夜は――
もう、安全な場所には戻れない。
それでも。
彼女は、迷わなかった。
それが、
この夜に突きつけられた問いへの、
リディアなりの答えだった。




