第四十八話:思い出してしまった夜
夜は、何事もなかったように静かだった。
昼間の火事が嘘みたいに、
王都は普段通りの顔をしている。
人は眠り、灯りは落ち、
世界は勝手に次へ進んでいく。
……置いていかれたのは、俺だけだった。
◆
書類を前にしても、文字が滑る。
内容は理解できる。
意味も分かる。
それなのに――
胸の奥が、ずっと軋んでいた。
(……思い出すなよ)
自分に言い聞かせる。
何度も、何度も。
だが、無駄だった。
炎の音。
崩れる梁。
焦げた匂い。
そして――
迷いなく、火に向かっていく背中。
(……やめろ)
喉が詰まる。
◆
あの時も、同じだった。
理屈は揃っていた。
判断は正しかった。
避難を優先すべきだった。
でも。
『民が、まだ中にいる』
そう言って、彼は行った。
宰相として。
人として。
――夫として。
(……レオナール)
呼びたくなかった名前が、
自然に浮かんでしまう。
あの人は、いつもそうだった。
正しくて、
冷静で、
優しくて。
そして、
自分より先に、危険へ行く。
(止めるべきだった)
王命を盾に。
理性を振りかざして。
無理にでも。
でも俺は、
「理解してしまった」。
だから、止められなかった。
◆
今日も、同じだった。
リディアは、
水を被って、
迷いなく火に入った。
あの横顔。
あの間の取り方。
あの、諦めない背中。
(……同じじゃないか)
思い出すなと言った。
比べるなとも。
でも、無理だった。
(また、見送る側になるのか)
◆
拳を握る。
爪が食い込むほど、強く。
(……二度目は、ない)
前世では、
「仕える立場」だった。
「支える役」だった。
決定権は、なかった。
だから、
後悔だけが残った。
でも、今世は違う。
(今度は、言える)
立場も。
距離も。
名前も。
全部、違う。
◆
ルカは、静かに立ち上がる。
誰かに宣言することはない。
誓いを口に出すこともしない。
ただ、心の奥で決めた。
(……止める)
理屈で。
手で。
立場で。
必要なら、
嫌われてもいい。
怒鳴ってもいい。
あの人が――
彼女が――
また、一人で炎に向かうなら。
(今度は、腕を掴んででも引き戻す)
◆
窓の外で、風が鳴った。
静かで、
どこか、警告みたいな音。
(……知ってるぞ)
あれは、偶然じゃない。
試されている。
リディアも。
俺も。
(だったら、上等だ)
思い出してしまった以上、
知らなかった頃には戻れない。
でも――
(今度は、違う結末を選ぶ)
書類に視線を戻す。
文字は、もう歪んでいなかった。
夜は、静かだ。
だが、ルカの中では、
確かに何かが始まっていた。
――思い出してしまった夜は、
後悔では終わらない。




