第三十七話:仮面の来訪者
王宮の回廊は、昼でも静かだった。
リディアは資料室へ向かう途中、足を止める。
理由は分からない。けれど、胸の奥がざわついた。
(……誰か、いる)
柱の影から、ゆっくりと男が現れた。
黒ではない。王宮で違和感のない、落ち着いた装い。
顔立ちも整っている――ただ、瞳だけが、妙に明るい。
「失礼。アルヴェーヌ嬢でいらっしゃいますね」
低く、穏やかな声。
敵意は感じない。だが、距離が近い。
「……はい。どなたでしょうか」
「名乗るほどの者ではありません。仮に――」
男は小さく微笑む。
「“旅の学徒”とでも」
(仮名……?)
警戒すべきだと理性が告げる。
それでも、なぜか足が動かなかった。
「お怪我は……ありませんか」
「え?」
「昨夜の騒ぎで、殿下が負傷されたと聞きました」
同情の色を含んだ視線が、リディアに向く。
「お辛かったでしょう」
胸が、きゅっと鳴る。
「……どうして、そのことを」
「王宮は噂が早い。けれど」
男は声を落とす。
「“鍵”が動いた時は、もっと早い」
言葉が、胸に落ちた。
「……鍵?」
「失礼。学術的な比喩です」
すぐに取り繕う。
「あなたは、扉を開く力をお持ちだ。――そう感じました」
(この人、何を……)
怖いはずなのに、声が出ない。
代わりに、胸の奥が熱を帯びる。
「殿下は、あなたを守ろうとしている」
男は続けた。
「伯爵も、同じでしょう。とても大切に」
知っている。だからこそ、痛い。
「けれど――」
男は一歩、距離を取った。
「守られることと、選ぶことは違う」
その一言が、心臓を打った。
「あなたが何を開き、どこへ進むか」
金色の瞳が、まっすぐに見る。
「それを決めるのは、あなたです」
風が、通り抜けた。
リディアの髪が揺れる。
(……この人の言葉、嫌じゃない)
「今日は、挨拶だけに」
男は軽く頭を下げた。
「また、話しましょう。あなたが“選びたくなった時”に」
すれ違いざま、囁きが落ちる。
「――鍵は、あなた自身です。リディア・アルヴェーヌ」
振り返った時には、もういなかった。
◆
数刻後。
「今の男を見たか?」
背後から低い声。
アランだった。灰青の瞳が鋭い。
「……いいえ。誰も」
嘘ではない。もう、そこには誰もいなかった。
「気分は?」
「……少し、胸が痛みます」
アランの表情が曇る。
それでも、優しく言った。
「無理をするな。君は俺が――」
言葉の先を、リディアは聞けなかった。
(守られるだけで、いいの?)
答えは出ない。
ただ、仮面の男の言葉が、胸に残って離れなかった。
――選ぶのは、あなた。
王宮の鐘が鳴る。
次の一手は、もう動き始めていた。




