第三話:学院への道
前回までのあらすじ:
辺境伯家の令嬢リディアは、前世で宰相だった記憶を持つ。白兎との出会いを経て、王立政治学院へ向かう決意を固めた――。
出発の朝は、驚くほど静かだった。
夜の冷気がまだ石畳に残り、息を吐くたび白くほどける。屋敷の前には王都行きの馬車が用意され、御者台には荷が整然と積まれていた。
「体を冷やすな。王都は人が多い。戸締まりと財布に気をつけろ」
父――ダリウスはいつもの低い声で言いながら、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「何かあれば、ためらうな。書状でも伝令でも、すぐ送れ」
「はい、お父様」
リディアは裾を整え、一礼する。胸の奥の鼓動は落ち着いている。だが、その鼓動の下で、細い糸のような不安が確かに揺れていた。
「リディア」
長兄レオンハルトが、革手袋を外して彼女の肩に手を置く。
「王都は広い。良くも悪くも、色々な思惑が渦巻いている。けど――お前は、ちゃんと見抜ける。焦らず、一つずつでいい」
「ええ。……分かっています」
言いながら、自分の声にわずかな震えを見つけた。前世の記憶は、理屈の強さをくれる。だが、今世の体は七歳の少女だ。初めての旅路に、未知の匂いが混じる。
「お昼はきちんと召し上がって。甘いものも少しなら良いわ」
母クラリスはマントの留め具を整え、微笑んだ。
「無理に背伸びをしなくていいの。あなたはあなたの歩幅で」
「……はい。行ってまいります」
リディアは小さく息を吸い、頷いた。
ミリエルが手早く荷を確かめ、白兎を抱いた。白い毛並みが朝の光を跳ね返し、金と銀の瞳が瞬く。兎は抵抗もせず、落ち着いている。
「ソラスもご一緒します。長旅ですから、籠は膝に」
「頼みます、ミリエル」
車輪が転がり、屋敷の門がゆっくりと遠ざかる。見送りの家人たちが頭を下げ、兄が片手を挙げた。父は最後まで何も言わなかったが、その背中が信頼を語っていた。
馬車の中は、布張りの壁が外気を柔らかく遮っている。窓の外には、松林と雪の名残、薄青い空。
ミリエルが温かな茶を差し出した。
「お嬢様、蜂蜜を少し。喉が乾きます」
「ありがとう」
茶を口に含む。甘さが舌に広がり、ほどけない緊張の端が少しだけ和らいだ。
(大丈夫だ。やり方は知っている。交渉も、議事も、駆け引きも――)
心の中で、前世の声が冷静に整理してゆく。
(だが、今回は彼らを守るために行く。勝つためだけではない)
膝の籠から、ソラスが前足をそっと出した。柔らかな毛が、リディアの袖に触れる。
「……ありがとう」
思わず零れた言葉に、兎が小さく瞬いた。熱を帯びた不安の芯に、静かな灯がともる。
「怖いわけではありませんの。ただ……」
「初めてだから、ですね」
ミリエルが穏やかに言った。
「前世にどれほどの経験がおありでも、今は七歳のお嬢様です。初めては、誰でも少しだけ不安になります」
「……そう、ですね」
認めてしまうと、むしろ胸の中の風通しが良くなった。
「けれど、お嬢様には味方がいます。ご家族と、私と――」
ミリエルは籠をそっと押しやり、微笑む。
「この子も」
ソラスが鼻先で彼女の指をつついた。リディアは指先でそっと撫でる。ふわりとした感触に、思考がほどける。
「ミリエル」
「はい」
「王都に着いたら、最初に学院の規則を集めます。表向きのものだけでなく、実務で運用されている“暗黙の規則”も」
「承知しました。寮務、書庫、用務、下働き――線の細いところから当たります」
「助かります。……それと、魔法師階級と貴族階級の出身者が、どのような席順で食事を取っているのか。座席は、会話の流れを作る」
言葉を交わすほどに、手触りのある自信が戻ってくる。理屈は骨組みだ。不安は、その骨組みに布を張る風のようなもの。うまく受け止めれば、帆になる。
昼を過ぎ、道がなだらかに傾き始めたころ、遠くに霞んだ白い城壁が見えた。天に伸びる塔の先に旗が翻り、陽光が石に散る。
「……見えましたね、王都が」
「ええ」
胸の奥で、さざ波のような不安が最後にひとつ揺れて、そのまま決意に吸い込まれていく。
(行こう。今度は、守るために)
静かに、リディアは窓の外へ視線を上げた。
◇◇◇
次話予告:
「王都の門」――喧噪と秩序の境界で、最初の交渉は始まる。
◇◇◇
【後書き】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第三話は、出来事の少ない旅路を「心の動き」で描きました。前世が与える理屈の強さと、今を生きる少女としての不安。その両方を抱えたまま、リディアは王都へ向かいます。
不安は、向き合い方次第で帆になる――この回で書きたかった言葉です。
次回は王都の門。人と人、階級と階級が交わる交差点で、彼女の最初の一手を描きます。
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どうぞ次回もお付き合いください。
(春野 清花)




