第二十一話:揺れる三つの視線
翌日の教室は、いつもと変わらぬざわめきに満ちていた。
けれど、その中心にいる三人の少年だけは——
確かに、昨日までとは違っていた。
気づいていないのは、当のリディアだけだった。
◇ ◇ ◇
午前の政治理論の講義前。
リディアは、分厚い資料の束を抱えたまま席に着くと、小さく息をついた。
(……やはり、少し詰め込み過ぎましたね)
昨夜も結局、図書塔での勉強は長引いた。
アランと交わした会話の余韻が胸に残り、眠りは浅かった。
それでも、資料を読み込む手は止めない。
未来を変えるためには、些細な隙さえ許されない気がしてしまうのだ。
そんな彼女の手元に、静かに影が差した。
「おはよう、リディア。……今日も随分と詰め込んでるね」
顔を上げれば、穏やかな笑みを浮かべたルカが立っていた。
いつも通りの柔らかな気配——のはずなのに、
今朝の彼はどこか、リディアの近くに寄り過ぎているようにも感じる。
「おはようございます、ルカ。……少し、確認したい箇所がありまして」
「少し、ね」
ルカは苦笑しながら、彼女の前の資料の端を揃えた。
触れないぎりぎりの距離で、指先が紙の上を滑る。
「昨日もかなり遅くまで残っていただろう? 目の下に、少しだけ影が見える」
「っ……お気づきでしたか」
思わず頬に触れかけて、リディアは慌てて手を引っ込めた。
ルカはそれを見て、ふっと目を細める。
「無理をする癖は、そろそろ直した方がいいと思うよ。……倒れてからでは遅い」
「心配をおかけして、申し訳ありません」
素直に頭を下げると、ルカは小さく首を振った。
「謝られるために言ったわけじゃないさ。ただ——」
そこまで言いかけて、彼はふと視線を横へ流した。
教室の入口。
淡い金の髪が、朝の光を受けて静かに輝いている。
アランだった。
◇ アランの視線 ◇
教室に足を踏み入れたアランは、
いつものように全体を一瞥し——
すぐに、リディアの席へと視線を向けた。
その横に、ルカがいる。
資料を挟んで向かい合うように座り、
何かを話している。
距離は、近い。
胸の奥が、かすかに軋んだ。
(……また、俺より先に)
そう思ってしまった自分に、アランは小さく舌打ちしたくなった。
ルカがリディアを気にかけるのは、今に始まったことではない。
それは分かっている。
むしろ、彼女を支えてくれる存在として、何度も感謝すらしてきた。
それなのに——
昨夜、図書塔で見せた彼女の表情を思い出すと、
どうしても落ち着かなかった。
(……“君が倒れたら心穏やかではいられない”、なんて。
あんなことを言っておいて……)
今朝も声をかけるつもりだった。
眠れたか、体調はどうか、無理をしていないか。
けれど、ルカが先にその役目を果たしている。
アランは一度だけ深く息を吸い、
いつもの穏やかな笑みを作って、二人に歩み寄った。
「おはよう、リディア。ルカ」
リディアは慌てて立ち上がりかけ、
ルカがそれを制するように肩に手を添えた。
「おはようございます、殿下」
「おはよう、アラン」
ルカの声はいつも通り柔らかい。
だが、ほんの僅かだけ——温度が低く聞こえたのは、気のせいだろうか。
「……体調はどうだ、リディア。顔色は、昨日よりは良さそうだが」
「はい。殿下のおかげで、少し休むことができました」
リディアがそう答えると、
ルカの指先が、彼女の肩からすっと離れた。
アランは、その動きを見逃さない。
視線が、絡まる。
ルカは微笑んでいた。
だが、その笑みの奥にある感情までは読めない。
何かを問うべきか、冗談の一つも言うべきか——
アランは一瞬迷い、結局どちらも選べなかった。
「……そうか。なら良かった。だが、油断はするなよ」
それだけ言って、自分の席へと視線を逸らす。
背を向ける瞬間、
胸の奥で小さな違和感が膨らんだ。
(……ルカ。
お前は、一体——)
その正体にまだ名前はない。
ただ、昨日までとは違う何かが、
確かに二人の間に生まれつつあるのを感じていた。
◇ ルカの視線 ◇
アランが席に向かう背中を見送り、
ルカは小さく息を吐いた。
(……また、変な顔をした気がする)
リディアの肩から手を離した時、
自分の指先が僅かに強張っていたことに気づいている。
アランの視線を受けた瞬間、
胸の奥でざわめいた感情。
尊敬しているはずの相手を、
ほんの刹那、拒みたいと思ってしまった。
(どうして、アランの言葉に……
こんなにも胸が落ち着かないんだろう)
リディアの体調を気にかける言葉。
その一つ一つは、ルカも言いたかったものと同じだ。
だから、本来なら安心できるはずだった。
誰かが彼女を気にかけてくれているのなら、それでいい。
……そのはずなのに。
(——“殿下のおかげで”)
リディアがそう言って微笑んだ瞬間、
胸の奥に、ひどく小さな棘が刺さった。
その棘は、
自分でも知らない自分の一面を照らし出す。
彼女が誰かに救われることが、
こんなにも苦しいと思ってしまう自分。
それが、耐え難く嫌だった。
「ルカ?」
「……ああ、ごめん。少し考えごとをしていた」
怪訝そうにこちらを見るリディアに、
ルカはいつもの穏やかな笑みを向けた。
「やっぱり、君は無理をするからね。しばらくは僕も気をつけて見ておくよ」
「お気遣いありがとうございます。……ご迷惑をおかけしてばかりですね」
「迷惑なんて思ったことはないよ」
それは嘘ではない。
むしろ、彼女の力になれるなら、どれだけでも動きたいと思っている。
だが、その“力になりたい”という願いに、
別の色が混ざり始めていることに、
ルカ自身はまだ気づいていなかった。
アランの視線。
リディアの微笑み。
その両方が、自分の中の何かを少しずつ掻き乱していく。
(……この感情に名前をつけてしまったら、
もう、今までのようには戻れない気がする)
そんな予感だけが、
静かに胸の底で渦を巻いていた。
◇ セラフの視線 ◇
午後の魔術理論の講義。
魔術塔に併設された実習室で、
セラフは一人、淡々と魔力制御の図式を書き写していた。
ふと、視線が自然と教室の一角へ向く。
そこには、リディアとルカ、そしてアランがいた。
三人は今、同じ課題に取り組んでいるはずなのに——
彼らの周囲の空気は、
それぞれ微妙に温度が違って見えた。
(……また、揺れている)
セラフの目には、
人の魔力の流れが、ごく僅かではあるが“色”として映る。
アランの魔力は、いつも通り澄んだ青。
だが今日は、その縁が淡く波立っている。
ルカの魔力は柔らかな金。
けれど、彼の胸の辺りだけが、
濃い影を落としたように揺らいでいた。
そして——
リディア。
彼女の魔力は、相変わらず底の見えない深さを湛えている。
幾重にも重なる層。
一人の人間に宿るには、あまりにも複雑な構造。
その中に、今日だけはっきりと分かる“さざ波”があった。
(心が、乱れている……)
セラフは無意識にペンを止めた。
リディアが何かを隠していることは、
とうに気づいている。
彼女自身も気づききれていないほどの、深い秘密。
だが今、彼女の魔力の揺らぎは
“政治的な不安”とも“前世の影”とも違う色を帯びていた。
もっと、柔らかく、たちの悪いもの。
(……これは)
言葉にするのを、彼は躊躇した。
アランがリディアに何かを囁く。
ルカがそれを横目で見て、すぐに視線を逸らす。
三つの視線が交錯し、
けれど決して正面からぶつかり合うことはない。
互いに言葉を飲み込み、
沈黙の中でだけ揺れ続けている。
それが、魔力の色となってセラフの目に映る。
(……厄介なことになりそうだな)
小さく息を吐き、
セラフは視線を手元のノートに戻した。
自分には関係のないこと。
そう切り捨てることは、簡単なはずだった。
けれど——
リディアの魔力が、時折見せる“痛みの色”だけは、
どうしても見過ごせなかった。
(君は、何を背負っている)
心の中だけで問いかけ、
セラフは黙ってペンを走らせる。
それぞれの視線が揺れ始めたこの日が、
後に振り返れば“境目”だったと気づくのは——
まだずっと先のことだった。
◇ ◇ ◇
放課後、リディアはひとり、
講義の復習のために資料を抱えて教室を出た。
背後から向けられている三つの視線に、
ただ漠然とした居心地の悪さだけを覚えながら。
(……皆さま、今日は少し様子が……)
そう思いながらも、
それが自分自身のせいだとは、まだ気づいていない。
静かに揺れる三つの想いは、
彼女の知らぬところで、
ゆっくりと形を取り始めていた。
静かに物語が動き始める章でした。
リディア本人は何も気づいていないのに、
周囲の三人だけが、確かに“揺れ”を見せ始めています。
アランは、
彼女の疲れや不調に真っ先に気づき、
それを言葉にできないもどかしさを抱えている。
ルカは、
自覚のないまま距離を詰め、
優しさの裏で揺れる独占欲に心を乱されている。
そしてセラフは、
言葉にも態度にも出さないのに、
一番深く“核心”に近づいてしまっている。
それぞれの視線は別々の方向から
同じ人物——リディアを見つめながら、
同じ痛みと、同じ揺らぎを抱き始めています。
誰も口にしない。
誰も踏み込まない。
けれど、沈黙の中にだけ確かに存在する“熱”。
この章は、
そんな言葉にならない感情たちが
ゆっくりと形を取り始める“境目”でした。
ここから先、
三つの想いは静かに、しかし確実に絡まりはじめ、
やがて学院政争編へと繋がる大きな流れへと変わっていきます。
読んでくださり、ありがとうございました。
次回も、彼らの視線の行方を見守っていただければ幸いです。




