第十七話:揺らぐ影と、気づかぬ恋心
学院の朝は静寂に包まれていた。
だが、その静けさとは裏腹に、アラン・セリーヌの胸の内は波立ったままだった。
理由は簡単だ。
──リディア・アルヴェーヌ。
彼女の歩く足音が近づくたび、胸が痛いほど跳ねる。
議論で見せる鋭さも、ふとした瞬間の柔らかな微笑みも、寝落ちして呟いたあの寝言でさえも──
全てがアランの心を惑わせていた。
「殿下、失礼します」
ノックの音と共に現れた銀灰色の髪。
その光を孕んだ髪色に、アランの息は一瞬止まった。
「先日の討議内容をまとめました」
「……ありがとう。助かるよ」
書類を受け取る指先が触れ合う。
その一瞬だけで、また胸が熱くなる。
(……どうして、こんなにも)
「殿下? 顔色が優れていません。昨夜はよく眠れましたか?」
「あ、あぁ……まぁ……」
眠れなかった。
『殿下……』という寝言が反芻され、寝られるはずもなかった。
そのとき──。
「へぇ、二人とも朝から熱心だね」
扉の外から淡々とした声。
振り返れば、ルカ・ヴァレンティンが壁にもたれ、腕を組んでいた。
「盗み聞きか?」
「たまたま聞こえただけだよ。……まぁ、興味深そうな話だったけど?」
軽い調子で言うが、深緑の瞳は冷静にこちらを観察している。
彼の視線は、どこか底知れない。
それがアランには妙に引っかかっていた。
リディアもまた、彼を見る目に、一瞬微かな影を落とす。
(……この二人の間には、何かある。
俺の知らない“何か”が)
胸の奥がまたチクリと痛む。
アランはその痛みを押し殺し、声を整えた。
「リディア、学院内の“動き”について続けてくれ」
「はい、殿下」
リディアは表情を切り替え、数枚の書類を机に広げた。
「貴族派の一部が、夜間に外部と接触しています。
学院の自治権に関わる可能性もあるため、調査が必要です」
「外部……どこだ?」
「商会か……それとも地方領主かはまだ不明です。ただ──」
言い淀むリディア。
その横顔に、アランは少しだけ緊張を深める。
「ただ?」
「……“情報の流れ方”が不自然です。
学院内の誰かが意図的に情報をばら撒いている可能性が高いかと」
「内部犯……か」
アランは静かに息を吐いた。
学院は政治の縮図。この手の動きは珍しくない。
だがリディアは、誰よりも冷静に、正確に、そういった“歪み”を嗅ぎ取る。
その姿に、アランはまた惹かれてしまう。
気づかれたくないほどに。
「……ねぇ、殿下。君、最近ちょっと変だよ」
ふいにルカが口を開き、意味深な視線を向けた。
「変……とは?」
「リディアを見る目。……前より、ずっと甘い」
「っ……!」
鋭く指摘され、アランは息を詰めた。
リディアは一瞬だけ瞬きをして──そして何事もなかったかのように書類をめくる。
無自覚な天使である。
「ルカ、余計な詮索はやめろ」
「余計……ねぇ。
君の“感情”が政治判断に影響しなければいいけど?」
ルカの深緑の瞳は、まるで何かを探っているようだった。
それは単なる嫉妬か、警戒か……
あるいは、前世の影か。
アランにも、彼自身にも、まだ分かっていない。
「……二人とも。今は学院の問題に集中しましょう」
リディアの一言で、空気が締まる。
その声は淡々としているのに、妙な威力があった。
アランもルカも、どちらも逆らえなかった。
「まずは情報の出どころを探る必要があります。
――殿下、明日の会議で一度、派閥の動きを探る場を設けるべきです」
「分かった。準備しよう」
リディアが静かに頷く。
その横顔があまりに綺麗で、アランは一瞬だけ呼吸を忘れた。
ルカはそんな二人を横目にしながら──
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「……やっぱり、変だ。
リディアを見ると……胸が痛む」
誰にも気づかれないまま、
静かに、しかし確実に。
それぞれの感情が動き出していた。
学院を揺らす影と、
気づかぬ恋心の波紋が、
ここから大きく広がっていく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第十七話は、学院の空気が少しずつ動き出す回でした。
政治の影が忍び寄る一方で、それぞれの胸の内にもまた、
気づかぬ“揺らぎ”が広がっています。
アランは自覚しつつある想いに振り回され、
リディアは相変わらず敏腕でありながら恋愛だけは鈍感で、
そしてルカは、言葉にできない胸の痛みの理由をまだ知らない──。
この三人が同じ空間にいるだけで、
政治と感情が静かに混ざりあい、物語は大きく動き始めます。
次話では、学院の内部に潜む「影」について、
リディアの洞察がさらに深まり、
アランの“感情の迷い”が新たな波紋を呼ぶ予定です。
恋か、忠誠か、前世の記憶か。
まだ誰も答えを知らないまま、それぞれが一歩ずつ前へ進んでいきます。
引き続き、彼らの物語を見守っていただければ嬉しいです。




