第十六話:色香
学院の図書塔は、午後の光を受けて静かに輝いていた。 石造りの壁に反射した明るさが、棚に並ぶ古書の背表紙を淡く照らす。
その中で――
ルカ・ヴァレンティンは、妙な胸のざわめきを押さえられずにいた。
(……何だ、この感じは? 昼食を抜いたわけでも、徹夜したわけでもないのに)
胸の奥がきゅっと縮むような、じれったい違和感。 理由が分からない。だが、その原因が視界の端にあることだけは、はっきりと分かっていた。
少し離れた机のそばで、アランとリディアが並んで立っている。
アランは穏やかな笑みを向け、リディアは首をかしげながらなにかを説明していた。 二人の距離は近い。肩と肩が触れるほどではないが、息づかいが届きそうなほどには。
(近い……いや、近すぎないか……? いつからあの二人、あんな自然に隣に立ってたっけ)
リディアが何か言うと、アランは小さく笑った。 その表情が、妙に柔らかい。
胸が、ちり、と痛んだ。
(……は?)
痛みの正体が分からない。 いや、分かりたくなかった。
ルカはわざと視線を本に落とした。だが、意識がそこから離れてくれない。
(おかしいだろ。僕はただ、リディアと対等な存在でいたいだけで――)
胸が、もう一度きゅっと縮む。
(……いや、違うな。これは……)
自分の中でなにかが名前を求めて蠢いている。 だが、そこに言葉を与えてしまったら、二度と戻れない気がして。
その時――。
「……ルカ?」
静かな声が、背後から落ちた。
振り向くと、そこにいたのはセラフ・ノア=リュミエールだった。 白金の髪が光を受け、淡い紫の瞳がまっすぐにこちらを見る。
「顔色が悪い。何かあった?」
「別に……」
「嘘だね」
即答だった。 ルカは思わず眉をひそめる。
「……僕の何が分かるんですか、あんたに」
「“色”が変わってる」
「は?」
セラフは、柱にもたれかかり、細い指先を唇に添えた。 どこか愉しむような、しかし観察者の鋭さを含んだ目。
「君の視線。リディアを見る時の目は柔らかい。 でも、さっきからアランを見る時は……獣みたいに鋭い」
「……!」
図星だった。心臓が跳ねる。
セラフは肩をすくめる。
「嫉妬、でしょ?」
その一言に、呼吸が止まりかけた。
(じ、嫉妬……? 僕が……? 誰に? 誰にって……)
答えは、あまりにも単純で。 だからこそ、受け入れがたかった。
「……何でも恋だの愛だのに結びつけるのは、早計でしょう」
なんとか絞り出した反論は、我ながら弱々しかった。
セラフは少し目を細める。
「僕は恋なんて知らない。けれど……“奪われたくない”と願う感情に、名前を与えたがる人間を、何人か見てきたよ」
淡い紫の瞳が、ふと遠くを見る。
「羨ましいよ、ルカ。気づける心を持っているのがね」
「羨ましい……?」
「僕には、“そこまで強く誰かを想ったことがないから」
その言葉は、どこかひどく寂しげだった。
ルカは返す言葉を失う。 胸のざわめきは止まらない。むしろ、セラフの言葉で輪郭を与えられていく。
(……やめろよ。そんな風に言われたら、余計に――)
その時だった。
「……二人で何を?」
静かな声が、廊下の入口から届いた。
振り向けば、アランが立っていた。 浅い金髪、灰青の瞳。いつも通り穏やかな微笑み――だが、その目の奥がわずかに鋭い。
(……最悪のタイミングで来たな)
ルカが心の中で天を仰ぐ間に、セラフはあっさりと身を引いた。
「話はここまで。続きは……修羅場のあとで」
「待て、修羅場って何だよ!」
思わず声が出たが、セラフは聞こえなかったふりをして、ひらひらと手を振り去っていった。
残されたのは、ルカとアランだけ。
静かな廊下に、妙な緊張だけが残る。
「……ルカ」
名前を呼ばれ、肩が強張る。
「……何の用ですか、殿下」
「用というほどのことではないけれど」
アランは一歩近づいた。 距離が縮まり、逃げ道が塞がれる。
「君、最近リディアのことをよく見ているね」
(いや、言い方ァ!!!)
喉が乾く。 ルカは目を逸らした。
「……観察しているだけです。彼女が何か失敗しないか」
「君が? リディアを?」
アランの声は穏やかだった。だが、その穏やかさこそが恐ろしい。 王太子として鍛えられた、静かな追及。
「リディアは優秀だ。心配する必要は、もうないんじゃないか?」
(その言い方!! 僕の心を殴らないでくれ!!)
ルカは言い返そうとする。だが、うまく言葉が出てこない。
アランは、ふと目を細めた。
「……それとも」
その前置きだけで、背筋に冷たいものが走る。
「君は、リディアを“特別に”思っているのかい?」
世界が一瞬、止まったようだった。
胸の奥で暴れていたものが、一気に言葉を持つ気配を見せる。
(言うな。やめろ。その言葉に、これ以上形を与えるな)
そう思うのに――。
「そ、そんなわけ……」
否定の言葉が、ひどく弱く響いた。
アランは、深く息を吐いた。
「……そうか」
優しい声だった。あまりにも優しすぎた。
(やめてくれ。“気づいてほしくない相手”にだけ、そんな顔をされるのは……)
胸が痛む。呼吸が浅くなる。
アランはルカの肩にそっと手を置いた。
「リディアは大切な人だ。……それは君も分かっているだろう」
「……はい」
「でも、君も大切な友人だよ。だから――本音を言ってほしい」
逃げ場はなかった。 背中は壁。目の前には、灰青の瞳。
心臓は暴れ馬のように跳ね続ける。
(……あーーーもう!!!)
自分で自分に悪態をつく。
そして、ようやく――。
「……もし、僕が」
喉が掠れる。唇が震える。
「“彼女が他の誰かと仲良くしているのを見たら嫌だ”と……そう思っていたら」
言葉を吐き出すたび、胸の奥が焼けるようだった。
「それは……恋、なんですか……?」
それは、負けを認めるような声だった。
アランが息を呑む気配がする。
ルカは、視線を上げられなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、アランが静かに口を開いた。
「……ルカ」
「……はい」
「それを、僕に聞くのは……残酷だよ」
静かな声だった。 けれど、その一言が一番重かった。
(……ああ。本当に、最悪だ)
ルカは、笑うこともできなかった。
◆
ルカの問いが、胸の奥で何度も反響していた。
『……それは……恋、なんですか……?』
廊下から離れ、学院の中庭を歩きながら、アランは小さく息を吐く。
(どうして、僕に聞くんだい)
灰青の瞳が、空を仰ぐ。
(君がその言葉を口にした瞬間、誰よりも強く反応したのは、間違いなく僕の心臓なのに)
リディアが笑うたび、息の仕方を忘れそうになる。
紙に向かう横顔。
地図を睨む真剣な瞳。
差し出した書類に、少しだけ誇らしげな笑みを浮かべる瞬間。
全部、愛おしくて仕方がない。
(……自覚しないふりをするのは、とっくに限界を超えている)
指先がかすかに震える。
(分かっていたさ。リディアは優秀で、努力家で、誰よりも美しい。誰かが好意を抱くのは当然だ)
だが――。
(よりによって、君なのか。ルカ)
胸の奥で、重い熱が渦を巻く。
嫉妬。
焦燥。
そして、名付けるのも苦いほどの劣等感。
自分の感情を押し込めていた理性が、みしりと軋む。
(……僕は王太子だ。感情を優先してはいけない。分かっている。
けれど――)
頭では理解していても、心は従ってくれない。
その時だった。
「殿下〜……!」
軽やかな声が聞こえて、アランは振り返った。
「っ……リディア!」
少し息を弾ませて駆け寄ってきたリディアが、両手で大事そうに何かを抱えている。
「どうかなさいましたの? そんなに驚かれると、私が何かやらかしたみたいではありませんか」
「い、いや……君が急に現れたから、驚いただけだよ」
我ながら苦しい言い訳だった。
リディアは首をかしげ、手にしていた紙袋を誇らしげに掲げる。
「学院の購買で、季節限定の桜あんパンが買えましたの! 早く行かないと売り切れると聞きましたので、少し急いでしまいましたわ」
(かわいい……)
思考が、一瞬で砂糖漬けになる。
桜の塩漬けがちょこんと乗った、つぶあんパン。 彼女の頬が、ほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいる。
「殿下もいかがです? とても甘くて、美味しいですのよ」
パンを差し出す仕草が、無防備すぎる。
(かわいい……!!!) (かわいい……!!!!!!) (……落ち着け、僕!!)
アランは慌てて咳払いした。
「……その、甘いものの摂りすぎには気をつけた方がいいと思うけれど」
「政治の前では、糖分は必要ですわ」
即答だった。
誇らしげに言い切る彼女を見て、思わず笑いが漏れる。
(ああ、そうだ。こういうところも好きなんだ)
その時、ほんの少し離れた柱の陰で、誰かの気配が動いた。
ルカだ。 こちらを見ている。けれど、視線がぶつかると、そっと目を逸らした。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(……ルカ。君の気持ちが恋なら、認めるよ)
ルカが負けず嫌いなのは知っている。 だからこそ、半端な態度では向き合えない。
(けれど――)
アランは、静かに息を吸った。
(負けるつもりも、ない)
灰青の瞳が、静かに燃えた。
王太子としての理性と、ひとりの青年としての感情。 その両方を抱えたまま、彼は笑顔でリディアに言う。
「……じゃあ、ひと口だけ、分けてもらおうかな」
「ええ、もちろんですわ!」
リディアは、嬉しそうにパンをちぎった。 桜の香りが、春の風にふわりと漂う。
学院の中庭に、穏やかな時間が流れている。
――けれど、その足元では、静かに火の手が上がり始めていた。
誰かの恋と誰かの理性が、焼け落ちる前触れのように。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第十六話は、ルカ側の「これは嫉妬では?」という気づきと、アラン側の「知ってたけど認めたくない」気持ちが、ようやく正面からぶつかり始めた回になりました。
表面上は穏やかな学院の日常。 けれどその裏側では、
・ルカが「終わりの始まり」に片足を突っ込む
・アランの嫉妬と覚悟が静かに燃え始める
・セラフが一歩引いた場所から人間の感情を観察している
……という、今後の修羅場に向けての「色香」が、少しずつ立ち上る回です。
なお、リディア本人はこのとき、
「季節限定の桜あんパンが美味しいですわ!」
と、いつも通りの甘党モードで幸せになっているだけです。 平常運転です。かわいいですね。
次回以降、ルカの感情の揺れと、アランの「負けるつもりはない」という決意が、政治の盤上にも少しずつ影響を及ぼしていきます。
政治と恋、どちらも厳しい世界ですが、 それでも誰かを想わずにはいられない人たちの話を、もう少しだけお付き合いいただければ嬉しいです。




