第十四話・前編:虚実の罠
翌朝の王都は、前日よりもさらに重たい色をしていた。
鈍色の雲が王城の塔を沈ませ、街はざわめきよりも“噂”の方で満たされている。
宰相府の執務室に入った瞬間、それをリディアは悟った。
「……人の出入りが多いわね」
「はい。市場と商業組合から使者が次々と」
入口を守っていたレオンが、わずかに眉をひそめる。
「『宰相府が特定商会を突然調査した』と。中には“弾圧だ”と騒ぐ者もいます」
リディアは一瞬だけ目を細めた。
昨日、自分が流した“偽の帳簿”が届いたはずだ。そこから黎明派が焦って動き、隠していた本線が見える――そのはずだった。
机の上に新しい報告が置かれる。
アランが先に手に取って読み、ふっと息を吐いた。
「想定よりも早いな。……が、少し違う」
「違う?」
「君の狙いは『黎明派が隠している口』を暴くことだった。だが現状は――」
アランは報告書をリディアに渡した。
そこには簡潔な一文がある。
『宰相府が新興勢力を狙い撃ちし、既存貴族派のみを保護している』
リディアの指先が止まる。
「……情報が、反転している」
「そういうことだ」
アランが椅子に腰かけ、指を組む。
「“宰相府が偽帳簿を流し、邪魔な商会を潰そうとしている”――そういう筋書きに書き換えられたらしい」
静かな怒りが、胸の奥に滲んだ。
仕掛けた嘘を、さらに上から塗り替えられた。
それはつまり――
「黎明派も、同じくらい“理想を利用する技術”を持っている、ということですわね」
リディアが呟くと、室内の空気がわずかに張り詰めた。
レオンが短く頷く。
「王都の下級貴族の一部も動いています。“透明な政治を”と……。民衆の前で訴え出る者もいるとか」
「ええ、分かりました。つまり――こちらが投じた石は、思っていたより大きな波紋を生んだ。けれどその波は、こちらに向けて返ってきた」
リディアは椅子に座り、机上の地図を広げる。
王都の各所に印が増えている。昨日は赤が三つだった。今日は五つ。
数が増えるたび、民の不安は“誰かが悪い”という形を求める。
「……殿下。情報の“発信源”を掴んでいますか?」
「掴めたのは名前だけだ。昨夜、君が会ったという“エルデン”――あの情報屋の周辺から噂が広がったと見ていい」
「やはり、あの男……」
昨夜の、片目を隠した青年の笑みがよみがえる。
あれはただの下層の情報屋ではない。“情報がどう騒ぐか”を分かっている顔だった。
「レオン、エルデンをもう一度探って。接触した者の名簿を」
「はっ」
レオンが出ていく。扉が閉じる。
部屋には、アランとリディアだけが残された。
しばしの沈黙。
アランが机に肘をつき、真っ直ぐ彼女を見る。
「リディア。君の策は間違っていない。敵を動かすには餌が要る。だが――」
「ええ。理想を餌にした時点で、いずれ誰かが傷つきます」
「君が傷つくのは、見たくないんだ」
リディアはまばたきを一つした。
その言葉は一瞬、政治ではなく“個人”を差し込んでくる。
けれど彼女は、静かに笑って受け取った。
「私も、できればそうありたいですわ。……ですが、宰相が“嘘を流しました”と民に頭を下げるわけにはいきませんの」
「難儀な役だな、宰相は」
「それを選んだのは私ですもの」
そこには迷いはなかった。
けれど胸の奥に、ひとつだけ刺さるものがある。
(――私は、“守れなかった”ときの自分だけは、二度と見たくない)
だからこそ、嘘でも先に手を打つ。
その嘘が、いま敵に拾われた。
ならば次は――その嘘ごと、もう一度飲み込ませればいい。
◇ ◇ ◇
夕刻。
王都の裏通りに再び馬車が停まった。
薄暗い路地、石畳に溜まる水たまり。そこに映る宰相府の紋章。
リディアはフードを深く被り、ひとりで降り立つ。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ匂い。
そして昨日と同じように、彼はそこにいた。
「おや。二日続けて宰相令嬢とは。今度は護衛なしで?」
片目を隠した青年――エルデンが、石垣にもたれたまま笑う。今日も油断の色はない。
「昨夜の帳簿。あなたが流したのでしょう」
「まあ、結果的には。いい素材でしたからね。少し味付けしました」
「“宰相府は新興を潰す”という味付けに?」
エルデンは肩をすくめる。
「大衆は、綺麗な話より汚れた話が好きなんです。それに“理想を掲げる権力者”というのは、だいたい後ろ暗い。そう思っている人が多い」
「だから、私が流した嘘はすぐ信じられた……」
「ええ。あなたの嘘は、上等すぎた。筋が通っていたし、相手を動かすには美しすぎた。その美しさに、別の人間が飛びついた。そういうことです」
彼は目を細める。
闇の中でその片目だけがよく光った。
「あなたは“理想を操る女”だと聞いた。ですが、理想は他人も使う。あなたが飼う前に、別の誰かが首輪をかけることだってある」
「忠告のつもりですの?」
「商売ですよ。混乱が長引けば、情報はもっと高く売れる」
あまりにも正直な答えに、リディアは苦笑した。
この青年は“世界の汚さ”を隠そうとしない。隠す必要もないと思っている。
「では、こちらからもひとつ」
「どうぞ」
「あなたが今日流した“宰相府弾圧説”。あれは明日には“黎明派が仕掛けたものだ”という噂に上書きします。今度は私が、あなたの嘘に首輪をつける番です」
エルデンが口笛を吹いた。
「怖いな。宰相ってのは」
「政治とは、牙を立てた理想を飼い慣らすこと――そう申し上げたでしょう?」
リディアは踵を返す。
路地の薄暗がりを、淡い光の布が揺れるように通り抜ける。
背後で、エルデンがぽつりと言った。
「……でも、理想が噛みついたとき。あなたはその手を、また血だらけにするんでしょうね」
リディアの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど振り返らずに歩き出す。
(たとえそうでも。今度こそ、失わない)
王都の上空はまだ鈍いまま。
だが遠く、雲の切れ間からわずかな光がのぞき始めていた。
* * *
To be continued.
【あとがき】
今回もお読みいただきありがとうございます!
第十四話は、リディアが仕掛けた“嘘”が思わぬ形で返ってくる回でした。
理想を操る彼女が、今度は理想に試される――そんな展開でしたね。
そして、彼女を見守るアラン。
「宰相としてのリディア」と「一人の少女としてのリディア」――
どちらも理解しているからこそ、彼の想いは言葉にならず、静かに滲みます。
政治の盤上では、敵も味方も嘘を使う。
けれど、その中で“何を守りたいか”を忘れないリディアこそが、
この物語の真の強さなのかもしれません。
次回、第十五話――
黎明派の“反撃”が始まります。
そして、もう一人の“観測者”が動き出す予感。
ここから一気に、政治も恋も、嵐の中へ――!
次話もどうぞお楽しみに。
(作者:春野清花)




