第百二十二話:距離の再定義
視線を、合わせないようにする。
ただ、それだけのことだ。
簡単なはずだった。
(……無理だろ……)
アランは、廊下の角で立ち止まった。
足音が近づく。
ラベンダー。
分かる。
見なくても分かる。
――来る。
「殿下?」
声がした。
「……ああ」
反射で返す。
だが、振り向かない。
「何かございましたか?」
「いや、特には」
会話は成立している。
だが。
視線が、合わない。
「……?」
リディアが、わずかに首を傾げる。
(見るな)
(見たら終わる)
理由は分からない。
だが、分かっている。
今は、駄目だ。
「では、失礼いたします」
「ああ」
通り過ぎる気配。
その瞬間。
ほんの少しだけ。
視線が、動いた。
――青灰色。
触れた気がした。
「……っ」
即座に逸らす。
遅かった。
(何やってるんだ……)
背後で、足音が遠ざかる。
何も起きていない。
ただ、それだけのはずなのに。
胸の奥が、妙に騒がしい。
◆
「……殿下」
別の声。
セラフだった。
「…………」
アランは答えない。
答えられない。
「随分と」
一拍。
「分かりやすい動きをなさいますね」
「……何のことだ」
平静を装う。
成功しているつもりだった。
セラフは、少しだけ目を細める。
「自覚、されたのでしょう?」
「……」
否定は、しない。
出来なかった。
「それで、その挙動ですか」
「うるさい」
即答だった。
だが、弱い。
明らかに。
弱い。
「距離を取ることで、何かが改善するとでも?」
「……」
分からない。
だが。
近づけば、壊れる気がする。
それだけは、確かだった。
「なるほど」
セラフは、小さく頷く。
「意識するほどに、距離が開くと」
「……黙れ」
「失礼しました」
そう言いながら。
セラフの肩が、わずかに震える。
「……おい」
「いえ」
一瞬。
堪えた。
だが。
次の瞬間。
「……ふっ」
音が、漏れた。
ほんのわずか。
だが、確かに。
笑った。
「……お前」
アランの声が、低くなる。
「申し訳ありません」
全く反省していない声音。
「ですが」
一拍。
「非常に、興味深いもので」
「……何がだ」
「殿下が」
わずかに言葉を選ぶ。
「王族とか関係なく、“普通の人の子”のように見えることが」
「……」
言い返せない。
その通りだった。
今の自分は。
王太子ではなく。
ただの。
――一人の人間だった。
「……笑うな」
「善処いたします」
無理だと分かる返答。
セラフは、再び視線を戻す。
遠く。
既に見えなくなった方向へ。
「……動きますか?」
「……まだだ」
短く答える。
分かっている。
何もしていないことも。
遅れていることも。
全部。
分かっている。
それでも。
今は、まだ。
動けない。
動かない。
セラフは、何も言わない。
ただ。
静かに、観ていた。




