第百十五話:試し
夜の学院は、静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、人の気配が消えている。
月の光が、石畳を淡く照らしていた。
その中を、リディアは一人歩いていた。
手には書類。
提出期限が明日のものだ。
(……面倒ね)
ため息が一つ落ちる。
だが足は止めない。
早く終わらせて、休みたい。
ただそれだけだった。
――その時。
ふ、と。
空気が変わった。
風が止む。
音が消える。
(……来たわね)
リディアは歩みを止めない。
ただ、ほんの少しだけ視線を動かす。
「……そこにいるのでしょう?」
返事はない。
だが。
気配は、ある。
前方。
木の影。
ゆらりと、何かが動いた。
次の瞬間。
男が現れた。
音もなく。
影から滲み出るように。
黒衣。
見慣れない顔。
だが、その目は。
明らかに、ただの人間ではなかった。
「……」
言葉はない。
無駄がない。
ただ、殺意だけがある。
(昨日とは違う)
リディアは瞬時に判断した。
あれは三流だった。
だがこれは違う。
――本物。
男が、動いた。
地面を蹴る。
一瞬で間合いを詰める。
速い。
だが。
「遅いわ」
リディアが一歩引く。
その瞬間。
男の首筋に、何かが突き刺さった。
「――っ」
声にならない声。
身体が崩れる。
数秒。
それだけで、終わった。
静寂が戻る。
リディアは倒れた男を見下ろした。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「出てきなさい、ヴァル」
沈黙。
だが。
すぐに、気配が変わる。
背後。
影が、わずかに揺れた。
「……気付いてたのか」
低い声。
振り向かなくても分かる。
ヴァルだった。
「近すぎるのよ」
「……そうか」
短いやり取り。
リディアは肩をすくめる。
「で?」
「試しだな」
ヴァルは淡々と言った。
「様子見」
「やっぱり」
予想通りだった。
リディアは少しだけ目を細める。
「誰の?」
わずかな間。
そして。
「……グレゴール」
その名が落ちた瞬間。
空気が、わずかに冷える。
(来たわね)
胸の奥で、何かが静かに動いた。
「アルトゥールの犬か」
「犬、ね」
リディアは小さく笑う。
「あなたの元上司でしょう?」
「……違う」
短く否定。
「俺を拾っただけだ」
「そう」
それ以上は踏み込まない。
沈黙。
夜風が、再び流れる。
「……次は来るぞ」
ヴァルが言う。
「本命がな」
「でしょうね」
リディアはあっさり頷いた。
恐怖はない。
ただ。
(面倒なことになったわね)
それだけだ。
「守るの?」
ふと、問う。
ヴァルは一瞬だけ沈黙した。
そして。
「……ああ」
短く答える。
「依頼だからな」
感情のない声。
だが。
その奥に、ほんの僅かだけ。
揺らぎがあった。
リディアは気付かないふりをした。
「そう」
それだけ返す。
次の瞬間。
ヴァルの気配が消えた。
完全に。
リディアは一人、夜の中に残される。
足元には、倒れた男。
その顔を一瞥する。
「……試し、ね」
小さく呟く。
そして、視線を上げる。
夜空。
月が、静かに輝いていた。
その遥か上。
屋根の上。
人の気配の届かない場所で。
一人の男が、その一部始終を見ていた。
グレゴール。
「……ほう」
わずかに口元が歪む。
「思った以上だな」
感情の薄い声。
だが、確かに。
興味が深まっている。
「ならば」
ゆっくりと、呟く。
「次は、少し強めに行こう」
夜の闇に溶けるように。
その姿は消えた。
誰にも気付かれずに。
だが確実に。
“試し”は終わった。
そして――
本当の狩りが、始まる。




