第百十四話:戦場への招待
廊下が、騒がしかった。
移動教室の時間帯にしては、妙に人が多い。
普段ならもう少し流れているはずの人の波が、今日は一箇所で滞っていた。
「なに、あれ……」
前方。
掲示板の前に、人だかりが出来ている。
「押すなって!見えねぇ!」
「ちょっと、順番守りなさいよ!」
「え、もう出たの!?早くない!?」
ざわざわとした声が、廊下に満ちていた。
嫌な予感しかしない。
こういう時は、大抵ろくでもない。
(……とはいえ、通らないわけにもいかないわね)
小さく息を吐いてから、リディアは人の隙間へ身体を滑り込ませた。
「……すみません、通して」
軽く声をかける。
押し返される。
だがもう一歩。
肩をずらし、半歩踏み込む。
視界が、わずかに開けた。
掲示板。
大きく貼られた一枚の紙。
学院の紋章入り。
(……公式)
つまり、確定事項。
リディアは人の間から、その文字を追った。
デビュタントに関するお知らせ
「……は?」
思わず、声が漏れた。
「お前も見に来たのか」
横から声。
振り向けば、いつの間にかルカがいた。
壁にもたれたまま、面倒くさそうに掲示を見ている。
「見に来たというより、通れなかったのよ」
「だろうな」
あっさり返す。
そのまま顎で掲示を指した。
「出るんだろ」
「出るに決まってるでしょう」
即答だった。
デビュタント。
貴族として生まれた以上、避けて通れるものではない。
面倒ではあるが、義務だ。
「へぇ」
ルカが小さく笑う。
「大変だな、殿下」
視線が、少し離れた位置へ向く。
つられるように、リディアもそちらを見た。
アランがいた。
人混みの外側。
掲示板を見ているのか、見ていないのか分からない顔で、固まっている。
(……ああ)
察した。
完全に、意識している。
デビュタント。
そして――
(私を、ね)
リディアは小さく息を吐いた。
面倒なことになりそうだ。
「……何よ、その顔」
「いや別に」
ルカは肩をすくめる。
「殿下、死にそうだなって思っただけだ」
「放っておきなさい」
「言われなくても」
軽い調子。
だが、その視線は一瞬だけ鋭かった。
その時だった。
ふ、と。
空気が、僅かに変わった。
風が止む。
ざわめきが、遠のく。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
(……?)
リディアは目を細めた。
違和感。
説明のつかない、微かなズレ。
だが――
「おい、押すなって!」
すぐに騒ぎが戻る。
生徒の声が、空気を埋める。
何もなかったかのように。
(……気のせい?)
一瞬、そう思う。
だが。
ほんのわずかに、胸の奥がざわついた。
少し離れた場所。
屋根の上。
人の気配の届かない位置で。
一人の男が、静かにその様子を見ていた。
黒衣。
長い灰色の髪。
片目に刻まれた古い傷。
グレゴール。
「……なるほど」
低い声が、夜に溶けるように落ちる。
視線の先。
人混みの中。
ラベンダー色の髪を持つ少女。
リディア・アルヴェーヌ。
「面白い」
感情の薄い声だった。
だが、確かに。
興味が乗っている。
「では」
ゆっくりと、目を細める。
「試してみよう」
その瞬間。
風が、また流れた。
何事もなかったかのように。
リディアは気付かない。
誰も気付かない。
だが確かに。
何かが、動き始めていた。
その知らせは、
社交界への招待であると同時に――
新たな戦場への、合図でもあった。




