第百十二話:静かな報告
夜の学院は静かだった。
月の光が窓から差し込み、机の上の書類を白く照らしている。
リディアは椅子に腰掛けたまま、手元の紙からふと視線を上げた。
「……」
静かすぎる。
そう思った瞬間、窓辺の空気がわずかに揺れた。
気配。
屋根の上ではない。
もっと近い。
リディアは振り向かない。
ただ、小さく息を吐いた。
「……そこに居るんでしょう?」
沈黙。
夜風がカーテンを揺らす。
数秒の間。
やがて窓辺の闇が、ほんのわずかに形を変えた。
「普通に会話できないの?」
少し呆れたように言うと、闇の中から低い声が返る。
「……暗殺者にそれを求めるか」
その声音に、リディアは肩をすくめた。
「やっぱり、ヴァルね」
窓辺の影がわずかに動く。
月光が一瞬だけ、その輪郭をかすめた。
ガーネット色の髪。
緋色の瞳。
だが次の瞬間には、また闇に紛れる。
完全には姿を見せない。
「あなた、相変わらず陰気ね」
「……放っておけ」
「明るい場所が落ち着かないだけでしょう?」
ヴァルが黙る。
その沈黙が、ほとんど肯定だった。
リディアは小さく笑った。
「図星」
「……用件は?」
低い声。
無駄のない問い。
リディアはようやく振り向き、窓辺をまっすぐ見た。
「それはこっちの台詞よ。何しに来たの?」
「報告だ」
短い答え。
それだけで、空気が少し変わる。
リディアの表情から微かな笑みが消えた。
「旧帝国の連中が動いてる」
「でしょうね」
即答だった。
ヴァルは一瞬だけ目を細める。
「驚かないんだな」
「昨日の今日で、驚く方がどうかしてるわ」
リディアは淡々と答えた。
「学院で刺客が動いた。あなたがここに来た。旧帝国が関わっていると考えるのは自然でしょう?」
ヴァルは少しの間、黙っていた。
それから低く言う。
「……次は使い捨てじゃない」
リディアの眉がわずかに動く。
「本命が来る?」
「可能性は高い」
ヴァルは窓枠にもたれたまま続けた。
「昨日のは三流だ。金で雇われた、ただの消耗品だ」
「でも次は違う」
「ああ」
短い肯定。
夜気がひやりと流れ込む。
「もう一人いた」
その一言で、リディアの視線が少し鋭くなる。
「……屋根の上の騎士?」
今度はヴァルがわずかに眉を動かした。
「気付いてたのか」
「途中からね」
リディアは腕を組む。
「気配が一つだけじゃなかったもの」
「暗殺者じゃない」
ヴァルは言った。
「だが、あれは使える」
「騎士として?」
「ああ」
沈黙が落ちる。
リディアは思い出すように目を細めた。
深緑の瞳。
紺の髪。
王太子直属近衛、リオン・ハーゲン。
「……そう」
それだけ呟く。
そして少し間を置いてから、リディアは静かに言った。
「あなた」
「なんだ」
「昨日の刺客も、そうやって消したの?」
問いは静かだった。
だが、ヴァルはすぐには答えない。
しばらくの沈黙の後、低い声が返る。
「……終わったことだ」
「そうね」
リディアは頷いた。
「終わったことだわ」
そして、ふと視線を落とす。
ヴァルの腰元。
鞘に収まった毒ナイフ。
十五年前、自分を殺した刃。
その視線に気付いたのか、ヴァルがゆっくりと手を伸ばした。
ナイフを抜かず、鞘ごと外す。
そのまま、差し出そうとして――
止まる。
「……殺すなら、今だ」
低い声。
感情の薄い、平坦な声音だった。
リディアはそのナイフを見た。
けれど、触れようとはしない。
「十五年前に終わってる話よ」
静かに言う。
ヴァルは動かない。
リディアは続けた。
「それに、それはあなたの大事な仕事道具でしょう」
一拍。
「今は、私を守っているものでもある」
沈黙。
長い沈黙。
月明かりの中で、ヴァルの緋色の瞳がわずかに揺れる。
だが、結局何も言わないまま、ナイフを腰へ戻した。
「……相変わらずだな」
「何が?」
「甘い」
リディアは小さく鼻を鳴らした。
「そうかしら」
「そうだ」
即答。
だが、それ以上責めるでもなく、ヴァルは窓辺から身を離す。
影が揺れる。
消える前に、リディアが言った。
「普通に会話しなさい」
ヴァルの動きが止まる。
「……は?」
「毎回、影に向かって話すの面倒なのよ」
「……無茶を言うな」
「慣れなさい」
「落ち着かない」
「知ってる」
即答だった。
ヴァルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……考えておく」
「ええ」
次の瞬間、気配が消える。
完全に。
窓の外には、月の光と夜風だけが残った。
リディアはしばらくその窓辺を見つめていた。
「……旧帝国は、まだ終わっていない」
小さな呟きは、夜の中に静かに溶けた。




