第十二話:霧の下の取引
王都の霧はまだ晴れきらない。
薄靄の向こうで鐘が鳴ると、宰相府の廊下に足音が響いた。
リディアは深い青の外套を羽織り、静かに扉を開く。
部屋の中央には、商会連盟の代表――シエル・カロウェルが待っていた。
温和な笑みを浮かべていたが、その指先は机の下で落ち着きなく動いている。
「黎明派の噂は耳にしています。けれど、我々はただ、時代の変化に順応しているだけですよ。」
「“変化”と“反逆”は、似て非なるものです。」
リディアは微笑みもせずに返す。
その目に映るのは、政治家の冷静と、覚悟を宿した光。
「あなた方が黎明派に資金を流していないというのなら、帳簿を拝見させてください。」
シエルの笑みが一瞬、固まった。
「宰相閣下ともあろうお方が……我が家を疑われるのですか?」
「疑うのではありません。――確かめるのです。」
沈黙が落ちた。
霧が外を覆うように、空気が重く張り詰める。
そして、その沈黙を破ったのは、扉の向こうからの低い声だった。
「それは、私の家のことだ。私にも立ち会わせてほしい。」
アランだった。
冷たい朝の光を背に、ゆっくりと部屋へ入ってくる。
リディアの胸が僅かに跳ねた。
――来てはいけないと思っていたのに。
シエルが動揺を隠しきれずに一礼する。
「殿下……これはその、ただの商談でして。」
「ならば、私が同席しても問題はないはずだ。」
アランの声は静かだったが、その奥には怒りと哀しみが混ざっていた。
彼はすべてを察していた。
――リディアが、自分を守るために“王族の血”を避けて動いていたことを。
リディアは言葉を失う。
彼女の政治の道が、彼の生まれを踏みじることになるかもしれないと分かっていながら。
それでも、選んだ。国家のために。
「殿下……」
「宰相閣下としての判断だろう? ならば私は、王族として責任を共に負う。」
視線が交差する。
霧の外で鐘が二度、鳴った。
その音はまるで――
二人の運命が、再び交わる音のようだった。
***
取引が終わったあと、部屋には静寂だけが残った。
シエルが去った扉の向こうに、まだ霧が漂っている。
リディアは深呼吸をし、机の上の羊皮紙を整える。
だが、背後から聞こえた足音で、その手が止まった。
「……本当は、止めたかった。」
アランの声は低く、どこかかすれていた。
リディアは振り返らない。
「止められても、進んでいたと思います。」
「分かってる。だからこそ、怖かった。」
その言葉に、リディアの心がわずかに揺れる。
アランは彼女の傍に歩み寄り、机の上の地図を見つめた。
指先が、紙の上の印――黎明派の印章の位置に触れる。
「お前は、いつも正しい。けれど正しさだけじゃ、人は守れない。」
「ならば、間違いを恐れずに進むしかありません。」
「……リディア。」
名を呼ぶ声が、霧のように柔らかく広がる。
彼女はゆっくり顔を上げた。
近い。
その距離が、言葉より雄弁に心を暴いていく。
互いに何も言えないまま、蝋燭の炎がふっと揺れた。
そして――
アランがそっと彼女の頬にかかった髪を指で払う。
「政治の駒としてではなく……ひとりの“君”を、見ていたい。」
その一言で、リディアの胸が締めつけられる。
彼は何も求めない。ただ、“そう在る”ことを告げただけ。
だからこそ、その言葉は、どんな誓いよりも重かった。
鐘の音が再び響く。
霧が薄れ、窓の外の光が二人を包み込む。
――盤上に並んだのは、政治と恋。
そのどちらも、彼女はもう手放さない。
第十二話 後書き
「霧の下の取引」は、リディアが“宰相”として、そして“ひとりの女性”として試される章でした。
政治の駆け引きの中で、彼女が守ろうとしたのは国家であり、同時にアランという存在でもあります。
彼女の選択は冷静に見えて、その実とても人間的で、弱さを隠すための強さでした。
一方のアランもまた、立場と感情の狭間で揺れながら、リディアの覚悟を見つめています。
彼の「共に立ちたい」という言葉は、恋の告白であると同時に、政治の宣言でもありました。
この章をもって、二人の関係は“交差”から“並立”へと変わります。
恋と理想、義務と願い――すべてを抱えて歩む二人の物語は、ここからさらに深く進んでいきます。




