第百九話:夜の余韻
王都の朝は、いつもより明るかった。
学院の中庭には生徒たちの声が響き、遠くでは授業開始の鐘が鳴っている。
何事もない朝。
少なくとも、誰の目にもそう見えた。
「……」
リディアは中庭を歩きながら、ふと立ち止まった。
視線が、無意識に上へ向く。
屋根。
昨夜、影が立っていた場所。
もちろん、今は何もない。
朝の光が瓦を照らしているだけだ。
「……気のせいね」
小さく呟く。
誰にも聞かれていない。
聞かれるつもりもない。
昨夜のことは――言わない。
言う理由がない。
それに。
あの男は、何もしていない。
ただ、そこにいただけだ。
「……宰相、か」
苦笑がこぼれる。
その呼び方は、もう遠いはずなのに。
なぜか、不思議と懐かしかった。
「リディア?」
後ろから声がした。
振り向くと、ルカが立っている。
オパランの髪が朝の光を受けて、淡く輝いていた。
「どうした」
「別に」
リディアは肩をすくめる。
「ちょっと空を見ていただけ」
「変な奴」
「うるさい」
軽いやり取り。
それだけだ。
いつもの学院の朝。
甘党一家の平和な日常。
誰も知らない。
昨夜、この場所に。
暗殺者がいたことを。
王都の屋根の上。
昼の光の中では、影は目立たない。
だが。
高い建物の上に、一人の男が立っていた。
灰色の髪。
銅灰の瞳。
ヴァル。
彼は黙って王都を見下ろしている。
人の流れ。
兵の動き。
城の配置。
すべてを、ただ見ている。
「……」
そして。
視線は、学院の方向へ向いた。
ラベンダーの髪の少女がいる場所。
風が吹く。
灰色の髪が揺れた。
「……宰相」
低く呟く。
それ以上の言葉はない。
しばらくして、男は目を細めた。
「……また」
静かな声。
「同じ匂いがする」
政治。
権力。
思惑。
あの夜と同じ空気。
ヴァルはしばらく王都を見ていた。
やがて。
次の瞬間。
屋根の上から、男の姿は消えていた。




